"Snail"


《ブラックバード》で提供される飲み物は、基本的にどれも美味しい。

 中でも、バイト帰りにいただくロイヤルミルクティは格別だ。結人ゆいとは、その夜もまた、白磁のカップを片手に癒やしの一時を満喫していた。

(熱い紅茶が美味しいのは冬だけだろ、なんて思ってた自分を殴りたい……)

 ついつい、顔がゆるんでしまう。閉じたまぶたの裏では、動物たちの乗った舟が、紅茶の海へ漕ぎ出そうとしていた。

 ――と、安らかな時間に終わりを告げるかのごとく、ドアベルが乱暴に鳴り響く。

 カウンターの佳野よしのは、すでに笑顔を浮かべていた。

「いらっしゃいませ、マリイ様」

「……お久しぶりね」

 しかし、マリイの声は暗かった。顔にも、いつものような明るさは見当たらない。

「マリイさん、どうしたんですか?」

 結人は思わず問いかける。けれどマリイはそれに答えず、常連たちへの挨拶もそこそこに、結人の隣に腰を下ろした。

 佳野がメニューを持ってくるよりも早く、

「チーズケーキとガトーショコラとレモンパイ、あとベリーのタルト、それからチャイミルクティお願い。……シナモンたっぷりにしてね」

 マリイが甘党だと知ってはいるが、それにしてもすごい量だ。やけ食いと見て間違いないだろう。さすがに、結人も心配になった。

「あの、大丈夫ですか? 本当に、何かあったとしか思えないんですけど」

 するとマリイは、険しい顔で振り向いた。

「今日は朝から最悪だったの。アタシんちの隣に住んでるガキがね、出会い頭に、……む……」

「む?」

「…………、む、虫の死骸を投げつけてきやがったのよぉ!!」

 悲鳴と怒声の混ざった声が、頭上のランプを小さく揺らした。

(マリイさん、隣の子にいったい何をやらかしちゃったんだろ)

 そんな結人の素朴な疑問は、顔に出てしまっていたらしい。直後、マリイに詰め寄られた。

「言っとくけど、アタシは何もしてないわよ! それどころか、毎朝会うたびに、とびっきりの笑顔で挨拶してやってたぐらいなんだからっ」

「そ、そうですよね。すみませ……」

「なのに、いったい何だってのよあのガキは。可愛い顔して、アタシを心臓麻痺で殺そうとするなんてさ。なんでそこまでアタシを嫌うわけ!? 意味分かんないわよ!」

 その一方で、

「隣のお子様が、虫の死骸を?」――小鍋でチャイを煮出しながら、佳野は何やら思案顔だ。

「失礼ながら、マリイ様。そのお子様とは、どういった方なのでしょうか」

「どうって……普通の男子よ。小二ぐらいじゃないかしら。両親ともにドイツだかフランスだかの出身で、やたら綺麗な顔してやがるの。まあ中身は酷いもんだったけどね」

「では、虫の死骸というのは?」

「…………」

 マリイは眉間に皺を寄せ、心底嫌そうに顔を歪めた。

「……口にするのもおぞましいけど、頭にツノが二本あって、背中にぐるぐる巻いた殻がついてる"アレ"よ」

「ああ、なんだ。マリイさんの言う虫ってカタツム」

「やめてっ! 耳から虫菌が入ったらどうしてくれるのよっ」

即座に、鬼の形相で怒鳴られた。

「ともかく、アレの殻を集めて投げつけるなんて、あのガキは心の底からアタシを嫌ってるに違いないわ。――今度会ったら、思いっきり睨みつけてやるんだから!」

 常に陽気な彼女が、ここまで敵意をむきだしにするなど、初めてのことだった。

(まあ、マリイさんの気持ちもわかる。カタツムリの殻を投げつけてくるなんて、『嫌い』の表明以外に考えられないし)

 いつも優しくしていた隣人から、いきなり「嫌い」を突きつけられる。……それは、マリイをどれほど傷つけたことだろう。

「なるほど。お話はよくわかりました」

 マリイのもとへ、佳野がケーキとチャイを運んでくる。いつもとは異なる長方形の皿には、四種類のケーキが美しく盛りつけられていた。

「ですがマリイ様。その男児は、あなたのことが嫌いでカタツ」

「いやあっ、言わないで! 耳がねとねとする!!」

「……ぐるぐる巻いているアレの殻を投げつけてきたのではありません。彼が抱いているのは、おそらく『嫌い』の対極にある気持ちではないかと」

「どういうことですか?」

 結人の問いに、佳野はふわりと目を細める。

「欧州のとある国では、アレの殻を恋のお守りとして扱うそうですよ」

「え!?」

 驚きのあまり、すごい声が出てしまった。

「じゃあその男の子は、マリイさんへの想いを実らせくて、殻を投げたってことですか……?」

 想定外の理由に、結人は言葉を失った。マリイもまた、戸惑いを隠せないようだ。

「恋って、アタシに? だ、だってアタシは……、あの、」

「マリイ様」――佳野が、ふわりと微笑んだ。

「日本と違って、欧州では、背の高い女性も珍しくありませんから」

「…………」

 マリイはしばし呆然とした後、椅子を蹴るようにして立ち上がる。

「いやだわ、どうしよう。アタシってわりと罪深い乙女だったのね」

 困っちゃう~!などと言いながら鞄を掴み、化粧室へと走っていった。きっと今から入念な化粧直しが行われるのだろう。理由はよくわからないけれど。

 その嬉しそうな背中を目に、結人は困惑を隠しきれない。

「マリイさんに恋する男の子かぁ…………」

 将来、なかなかの大物になりそうだ。

「でも恋した相手にカタツムリの殻を投げるだなんて、わりとワイルドな国ですよね。いったいどこの風習なんですか?」

 佳野は、チャイをサーブする手を止めずに、ただ一言、「ドイツです」。

「ただ、殻を『投げつける』というのは聞いたことがございません」

「え」

「カタツムリの殻がお守りであること自体は、事実のようですけれどね」

 ごゆっくり、と会釈して、佳野がカウンターへ戻っていく。

(……つまり、佳野さんは嘘をついた?)

 いや、厳密にいえば嘘ではない。先ほどだって、佳野は『恋のお守り』としか言わなかった。ただ結人たちが勝手に勘違いしただけだ。

 そこにマリイが戻ってきた。唇は艶めき、頬も明らかに上気している。来店直後の顔と比べると、まるで光を放つかのような明るさがあった。

「お・待・た・せ~! それじゃあ今日も楽しくお喋りしちゃいましょ♡」

 楽しそうなマリイを横目に、佳野も優しく微笑んでいる。それからほんの一瞬だけ結人のほうに視線を向けると、人差し指を口元へ立ててみせた。

(さっきの話は内密に、ってところかな)

 わかってます、と結人も小さくうなずいた。

 真実はどうであれ、マリイの復活は喜ぶべきことだ。彼女には、やはり笑顔がよく似合う。

 結人は、再び白磁のカップを両手で包む。

 ロイヤルミルクティはすっかり冷めているけれど、それでも胸の奥深くには、たしかな温かさが残っていた。

                                        (終)



 



 


 

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