"Rest"
『ボン・ジュール、結人ちゃん! あのねえ、実は佳野ちゃんが具合悪いらしくって、今日は何年かぶりに《ブラックバード》を臨時休業にするみたい。だから結人ちゃんさあ、ちょっとアタシの代わりにお店まで行って、今日はお休みです☆って紙を貼ってきてくれない?』
――その電話がかかってきたとき、結人は自室で昼食を終えたところだった。皿を流しに運びながら、マリイの話に首をかしげる。
「え? はい? 佳野さんが臨時休……もしもし?」
気のせいだろうか。マリイの声が妙に遠い。
「あの、マリイさん? つまり佳野さんはどうし……」
『心配しないで。日本に帰る前に、きちんと結人ちゃん用のお土産も買っていくから。で、何がいい? やっぱり定番のマカロン? それともエッフェル塔チョコとかのほうが……あ、電車来たみたい。それじゃあね~♡』
ボン・ウィーケン! と謎の言葉を残して、一方的に通話が終わる。
詳しく話を聞くこともできなかったが、とりあえず《ブラックバード》の危機であることには間違いない。
(とにかく僕は《ブラックバード》まで行って、扉に貼り紙をすればいいんだよな)
若干の不安を感じつつ、スマホの時計に目を落とす。現在、十三時を過ぎたところだ。開店時刻まで余裕はあるが、休業のお知らせなのだし、早めに出しておいたほうがいいだろう。
皿は後で洗うことにして、結人は鞄を手に取った。
(いや、待てよ。いったい佳野さんはどんな状況なんだ?)
《ブラックバード》から佳野のマンションまで、そう遠い距離でもない。それにもかかわらず、『休業のお知らせ』さえ自ら掲示しに行けないというのは――。
(……まさか)
結人の全身を、強い悪寒が駆け抜けた。
海にほど近いマンションの、最上階。
転がるようにしてエレベーターから降りた結人は、佳野の部屋までひた走る。
(佳野さん、生きててください!)
祈る思いでチャイムを鳴らす。が、応答はない。諦めずにもう一回。……もう一回。
カチリ。
ドアノブの辺りから、小さな金属音が聞こえた。解錠されたのだろうか。しかし、直後、何かが倒れたような音が響く。
「佳野さんっ!」
結人は迷わず、室内へ足を踏み入れた。
――思った通りだ。すぐそこに、佳野が倒れている。どうも鍵を開けたところで力尽きたらしい。
熱が出ているのか、佳野の顔は真っ赤だった。うつろな目で結人を見上げ、「なぜ結人さんが……」と、かすれた声を絞り出す。
「すみません、来ちゃいました。あ、無理に喋らなくていいですから」
結人は、佳野の腕を肩にかける。
(……すごく熱いけど、大丈夫なのか?)
しかし結人が動揺してはいけない。唇を噛み締め、腹に力を入れると、半ば引きずるような形で佳野を居間へ連れて行った。
壁際のパイプベッドに、佳野の身体を横たえる。それから結人は、「さっきマリイさんから連絡をもらって」と、まるで言い訳のように経緯を語った。
「《ブラックバード》には休業のお知らせを貼ってきました。あと、ゼリーとか風邪薬とか冷却ジェルシートなんかも適当に買ってきてあります」
結人が鞄からコンビニの袋を取り出すと、佳野は辛そうに目を伏せる。
「ご迷惑おかけして、申し訳な……」
「喋らないでください。話すのって、けっこう体力使うらしいですよ」
「大丈夫です。この程度では死にませ……」
「本当に。喋らないで。くださいね。僕が。心配で。死にますので」
念を押すように語りかけると、ようやく佳野が口をつぐんだ。
それにホッとした結人だが、
「あーでも、すみません。喋るなって言ったばかりなんですけど、ひとつだけ答えてほしいんです。……梅干し入りのおかゆと卵入りのおじや、どっちがいいですか?」
佳野のまぶたが、ゆっくりゆっくり上下する。質問の意図をはかりかねているのだろうか。佳野は、たっぷり二十秒ほど考えたあとで、
「結人さんの作ってくださるものなら、なんでも好きです」
そう言って、真っ赤な顔で微笑んだ。
やはり、コンビニで卵も買ってきて正解だった。
以前と同じで、この部屋の冷蔵庫には、飲料と調味料以外のものが見当たらない。さすがに米はあったけれど、逆にいえば米しかなかった。
(本当に、どうやって暮らしてるんだろう)
違う意味で心配になりつつも、結人はおじやを完成させた。冷めないうちに、佳野のもとまで運んでいく。
すると佳野は、ベッドサイドにあった水差しから、黄土色の液体をグラスに注いで飲み干した。どう見ても例のミント水ではない。色が禍々しい。
そうして、ようやくおじやに手をつける。
「……美味しい、です……」
「あ、良かったです」
「…………」
「…………」
(佳野さんって、こんなときでも綺麗に食べるんだなぁ……)
なんとなく、佳野のことを見つめてしまう。佳野もまた、この空気を変えたいらしく、
「よろしければ、結人さんもいかがですか?」と、グラスを押し出してきた。
結構な時間、ここに置かれていたようだ。グラスからは、まるで冷たさを感じない。 いったいなんだろうと不思議に思いつつ、「じゃあ、いただきます」――勧められるがまま、結人は液体を口に含む。
その途端、とんでもない衝撃に襲われた。
「っ!??」
ただひたすら苦い。甘みもかすかに感じるけれど、それ以上にえぐい。あと、渋い。 反射的に吐き出しそうになった結人だが、どうにかこうにか飲み下した。
「こ、これ、な、んですか……?」
「あのレシピから作った、ハーブのジュースです。昨日から、こればかり飲んでいまして」
佳野は、愛おしそうに水差しを見つめる。
「なんというか……元気になるような気がするのです」
(逆にこれ飲んだから具合が悪くなったんじゃないかと思うけど!)
しばらくの間、結人は、地獄のような後味に悩まされることとなった。
食事を終えた佳野を、再びベッドに横たわらせる。ついでに、額の冷却ジェルシートを貼り直してやった。
明日は月曜で、幸いにも《ブラックバード》の定休日だ。もう一日ゆっくり休むことができれば、佳野の具合も良くなるに違いない。
小さく息を吐き、結人は膝を抱えるような体勢で座り直した。窓の向こうでは、緑が風に揺れている。
「……あの、佳野さん」
こんなことを聞くのは、おかしい。そうは思っても、結人は言葉を止められなかった。
「どうして今日、マリイさんに連絡したんですか」
なぜ佳野は、結人ではなくてマリイを選んだのか。その答えが、どうしても知りたい。これが子供じみた嫉妬からくるものだと、わかってはいても。
思い詰めたような顔の結人に対して、けれど佳野は、
「マリイ様のお宅のほうが、店に近かったからです」
「……それだけですか?」
「? ええ、それだけですよ。店の扉に貼り紙さえしていただければ、と思っておりましたので」
(なんだ、そうだったのか)
気が抜けると同時に、胸にあった嫌な気持ちが消えていく。
「だけど、もっと僕を頼ってください。僕だって、《ブラックバード》も佳野さんのことも大事に思って……、ってすみません! 結局、たくさん喋らせちゃって」
「…………」
佳野は何も答えなかった。
ただ、痛みに耐えているかのように、ほんのわずかに顔を歪める。
そこで体力の限界が来たらしい。そのまま、佳野は目を閉じた。
佳野が完全に眠ったのを確認してから、結人は部屋を後にする。
残りのおじやは冷蔵庫に入れ、ベッドサイドに書き置きも残してきた。佳野の顔色はだいぶ良くなっていたようだし、恐らくこれで大丈夫だろう。
しかしマンションを出た結人は、改めて最上階の部屋へと視線を投げる。
(佳野さん、頑張りすぎなんだよ……)
小さな店とはいえ、ひとりで切り盛りするには限界がある。最近は客足も増えているようだし、このままでは、再び佳野が倒れる日もそう遠くはないだろう。
やはり《ブラックバード》には、他にも店員が必要なのではないか。調理ができて、佳野の気持ちを理解できて、そして《ブラックバード》という場所を愛してくれるような人物が。
(いつか、そういう人が現れてくれるといいな)
むりやりマンションから視線を外すと、結人は駅に向かって歩き出す。
梅雨入り前の昼空に、星がひとつだけ輝いていた。
(終)
『横浜元町コレクターズ・カフェ』特別書き下ろし短編 柳瀬みちる KADOKAWA文芸 @kadokawa_bunko
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