地虫
鯖みそ
地虫
「おい、竜や」
僕の耳から、しわがれた声が聞こえた。
部屋を隔てている襖を易々と越え、僕の鼓膜に伝わる何百回と聞き慣れた老婆の声。
今、祖母は力無くベッドに横たわり、けれども声をしっかり張り上げ、僕が来るのをひたすら待ちわびているのかもしれなかった。
僕の名前を呼ぶ声であるのは知っていた。
祖母に呼ばれたら、否が応でも僕はすぐに顔を見せにいき安心させなければならなかったし、そうするのが当然といったような空気が、程なく僕達家族の間に形成されていった。
けれども、祖母の悲痛な叫びとも言うべき呻きは、断続的に、時間を選ばずに聞こえてくるから、祖母の下へ駆けつけることも、しばしば苦痛を伴った。
「はい、何」
祖母に届かない声で、自分に言い聞かせるように僕は立ち上がり、戸を開け、廊下に出ると床のフローリングが足を冷たくさせ、けれど僕は安心させるように足音だけは強く響かせて、祖母の部屋を目指し、直進する。
引き戸を開ける。
七畳半の開けた部屋に、自動式のベッドと、テレビと、ポット、簡易式トイレ、本棚といったものが目一杯に敷き詰められている。
アンモニアの臭いが少し鼻をつく。
祖母はベッドに付属した手すりに、半ば凭れかかるように、起き上がり、僕の到着を待っていた。ストーブが据え置かれているから、室内は暖かかった。
「どこかまた痛むの」
僕を見つめると、祖母は白い歯を見せて笑った。
「おめぇよ、ひとりで暮らすならよ、電気ごたつ欲しくねぇが」
「こたつかい」
「長野あだりなんて、寒いんだで。フローリングなら、なおさらだべや」
浅黒い顔に、目脂をこしらえ、幾重にも刻まれた皺が歪む。
けれども目元は優しく、瞳は光に満ち満ちていた。知性の輝きという名の光に。
髪を白髪に染め、ろうろうじく喋る祖母は年齢よりも若く見られることも多かった。
「んだな、欲しいな」
「そしたらよ。 倉庫あるべ、うっしょ(後ろ)の。そごさな、あるんだ立派なのがよ、あいづ(父親)に語ってもはっぱり、『そんなもん捨てた』なんていうからよ。探してきてくれねぇが」
「親父が、そういったの」
僕は口から笑みが溢れるのを、堪えようとはしなかった。はっと息が漏れた。
「んだ。見でもいねぇくせして、決めつけんのだ。おばあさん始末いいから、あるもの全部わかんだ。あずぐさ、あるからよ。取ってきてけろ」
「え、でも大丈夫だよ」
「何が」
祖母の口から、しゃがれた、というより自ら喉を潰しにかかったような低い声が上がった。それは意図したものではなかったと思う。
どこか深い深い、奥底に眠った、もう一人の人間が、祖母の体を通して、僕に怒りをぶつけてきたのではないか。
どこか名指しし難い義憤とでも言うべき、いやそれよりも、もっと真摯に道徳を受け止めているもう一人の誰かの怒りを。
僕は予想だにしない祖母の声に、少し驚いた。心臓の内奥の血が踊り、暴れ狂い、僕の間違いを何としてでも正そうという体の働き、まるで僕へと受け継がれた血脈が、僕を咎めようとしているかのように感じられた。
「だって俺はよ、炬燵とかつけたら、火事起こしたりしてしまうかもしれねぇしさ、それに使えるかどうかもわかんねぇしよ」
「使えんのだっ。おれが綺麗にしてたのだから、大丈夫だでや。むがしから、使ってるもんだってよ、汚くねぇんだぞ」
僕は久しぶりに、祖母に怒鳴られてしまった。眉をしかめ、まるで懇願するような口調、それも一方的な願いを、聞き入れるのが当然であるかのように、祖母は僕にそう諭した。
「分かった。見てくるよ」
廊下に出ると、冷風が肌を突くので、肩を縮こまらせて歩き、上がり框から、革のサンダルを履いて外へ出た。
もう三月だというのに、寒さは一向に鳴りを潜めない。
ブナは僕を囲むように立ち並び、鬱蒼とした茂みの中、ゆったりとした風にも、枝が軋む音が聴こえる。
雄大な空を仰ぎ見つつも、雲に隠れた青を探すように僕は目を細める。
暫くここに留まっていたかったが、僕は倉庫へと向かう道筋を辿るように歩いていく。
じゃりじゃりと、石ころは小気味良く鳴ってくれる。
家から少し離れたプレハブの小屋に入ると、埃が思ったよりも、喉を焼いたので、思わず咽せてしまった。
「意外と物が多いな」
敷き詰められたダンボールや、使えなくなった家具だとか、汚い衣服が散乱していて、中々見つけるのにも難儀しそうだと、僕は思った。
けれどその必要は無かった。
祖母が言った通り、そこには立て掛けられた木製のテーブルと、暖房が取り付けられた骨組みとが、綺麗に揃えられてあったためだ。
探す手間を省くように、入口に置かれていたそれは、今の今まで、僕に使われるためだけに待っていたかのように鎮座していたので、どこか物質における達成感のようなものを、僕はこの電気炬燵に見てとれた。
テーブルは一切の塵も被ってはおらず、僕は無意識に、その丸っこい角を撫でていた。
すべすべとした感触があった。
僕は満足して、家へ向かった。
「どうだ。あったべ」
「立派なもんだな」
「んだべ。そいづ使うんだわ。何でもかんでも買えばいいってもんじゃねぇべ。いづれ古ぐなんだからよ」
古くなる。
この世界に暮らすという事は、そういう事を暗に指すのだろう。
自然の摂理だ、老いは。知っている。
けれど僕の見つけたそれは、たとえ年老いていっても、その輝きは失われることの無いものになるのではないだろうか。
祖母は一昨年から脳梗塞を患い、左半身不随になっていた。
でもその障害を気にするどころか、むしろこれまで以上に生き生きとした暮らしを送っている。
時々、健常者と見分けがつかないこともある。
今ある時間を楽しみ、笑い、美味しいものを食べて、これからも生きていく。
「おばあさん」
「なんだぁ」
「やっぱり、ホームシックになっちゃうかも」
そう言うと祖母は、大袈裟に笑い飛ばし、けれども誤魔化すこともなく、僕に言いたいことをはっきりと告げてくれた。
「そりゃそうだべ。家族なんだがらよ」
「んだよな」
「あぁ」
「おばあさん」
「何や」
「最後に、桜と逢ってくる」
それだけ告げると、 僕は一目散に廊下を走り、部屋に戻って、バッグを引っ掴むと、逃げるように、家を後にした。
もう顔も見えないのに、祖母は笑っているような気がした。
*
僕が葉月 桜と交際していたのは、去年の十一月までだった。
それまで順風に進んでいると思っていたのは僕の方だけで、彼女の抱いていた僕の姿に、僕が似ていなかっただけの話だった。
「私たちさ、別れようよ」
しわくちゃのベッドに埋もれていたのは、僕だけで。
僕が目を覚めると、彼女の白く美しい背中が写りこんだ。
丸みを帯びた尻の割れ目からうなじまで、昨日から僕に向けられていた彼女の体は、そっぽを向いている。
曲線を描いた背骨の窪みが覗き、彼女は手持ち無沙汰なのか、指で髪をいじり回していた。
「どうして」
彼女は答えなかった。
コールタールの甘やかな匂いが部屋に行き渡っていた。
光を浴びないように、カーテンは閉ざされたままで、薄暗い中、無機質な白い天井の色だけが、網膜に残る。
そのまま、桜は作業的に、ブラジャーのホックを回して付けて、下着を穿くと、服を着て、僕の部屋を後にした。
今思えば、求めすぎたのかもしれない。
僕は、僕の悦びが彼女の悦びだと錯覚していて、気づいたら彼女を一方的に痛めつけていただけだった。
ベッドで強引に彼女を組伏せ、唇を奪い、強く乳房を揉みしだき、彼女の意識を僕の意識と融合させる。
泣いていたのかもしれない。
桜は、栗色の髪を振り乱し、快楽に悶える自分を恥じて、愛らしい瞳に涙を溜めるばかり。
知らなかったのかもしれない。
僕は獣であって、それ以上でも以下でも無かったという事を。
ただ本能の赴くままに、腰を振り、気持ちよくなるだけで。
僕は僕を殺したくなった。
今になって、気づいた。
僕はこの世界の地表で這って生きているという事を。
僕の心臓が脈打つのが聴こえ、息は切れ、肺から込み上げてくるものは血の味がした。
それでも、僕は走った。
野を越え、山を越えて、空の雲が速く過ぎていく。
大地を踏みしめ、止まること無く、走る。
靴底が削れる音が聴こえて、僕は心底嬉しくなった。
僕は桜を見つけるにつけ、彼女に抱きつくだろう。
そうして彼女の髪を指ですいて、僕は彼女に愛の言葉を囁くだろう。
例え彼女が老いて、しわくちゃのおばあさんになっても。
今日のために生まれてきた命だと、そう言えるように。
地虫 鯖みそ @koala
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます