竜国記 外伝 《漣の岸辺で》

つづれ しういち

前編


「あの、……クルトさん。困っているの」


 少ししょんぼりした様子で、アルベルティーナ王妃がクルトにそう言ったのは、彼女がこの風竜国フリュスターンに輿入れしてきて、すこし経ったころだった。

 ここは、そのフリュスターン宮である。


「え? どうしたの、ニーナさん……じゃなくって、どうなさったのですか、


 クルトは必死に、最近やっと少しはまともに使えるようになってきた敬語でニーナ――いや、今やフリュスターンの王妃となったアルベルティーナ――に向かってそう答えた。

 が、当の王妃はその答えにまったく満足はしなかったらしい。

 彼女は急に赤くなって、憤慨したようだった。


「もう! クルトさんまで、わたくしにそんな風に話をしないでください……!」

 突然、悲しそうにそう叫ばれてしまって、クルトは目を白黒させる。

「いや、あの……。そうは言っても、周りはみんなそうは思ってくれないしさ……じゃなくって、くれませんから」


 いちいち言い直すのにもひと苦労だ。

 とは言えまあ、今はそのニーナのはからいで、彼女付きの侍女やら召し使いやらは席を外してくれている。要はニーナ自身が、あまり人に聞かれたくない話をしたがっている、ということなのだ。

 しかしここは、一応、王宮の奥の宮である。

 本来なら、下級兵の、しかもまだ見習いでしかないクルトみたいな少年が足を踏み入れていい場所ではない。

 クルトは今、下級兵に下賜されるオリーブ色の隊服に身を包んでいる。とはいえ、まったく身長が足りていないため、袖だの裾だのはもうだぼだぼで、捲り上げなくてはおさまりがつかないのだけれども。

 不恰好きわまりないこの出で立ちを先輩の青年兵らにからかわれるのにも、もういい加減、慣れっこだ。


「もう、お願いよ、クルトさん。人払いをして二人きりのとき、レオンがいるときも構わないですから。今までどおりにお話しをしてくださると嬉しいの。……お願いよ」

「わ、……わかったよ。けど、ほんっとーに、ここだけでだからね?」

 クルトもしまいにはそうやって肩を落とし、ちょっと涙目で懇願してくる彼女の意向に逆らえないのはいつものことだが。

「んで? 何に困ってんの? レオンと結婚もできて、いまは幸せいっぱいのはずじゃないの、ニーナさん……」

 そう言った途端、ニーナの顔が音をたてるかと思うぐらいの勢いで真っ赤に染まった。

「そっ、……そそ、それは、そうなのですけれど」


 今日のニーナはオレンジ色をした柔らかい布地のドレス姿だ。長椅子に座り込み、体の前でもじもじと指を絡ませ合っている姿は、やっぱり綺麗で、可愛かった。

 自分みたいな田舎のガキからさえ見てもそう思えるのだから、この新妻を日々見ているレオンの心中はいったい、どれほどのものだろう。

 まだ子供だとはいえ、クルトだって男のはしくれだ。

 正直、羨ましくないといったら嘘になる。


「よ、……呼んで、くれないの」

「は?」


 ニーナが何を言ったのかがすぐに分からず、クルトは変な顔になった。

 彼女の顔が、ますます赤味を増している。


「で、ですから……呼んで、くれないのです。レオンが、わたくしのこと――」

「あの、……ごめん。意味がわかんないんだけど」


 話が訥々としすぎていて、さっぱり要領を得ない。

 クルトは盛大に溜め息をつくと、ニーナからはすこし離れたところにあるソファのひとつにぽんと座って腰を落ち着け、あらためて話を聞くことにした。




○●○




「あ〜あ。もう、ったく何やってんだよあいつは……」


 ニーナとの「密談」が終わって、クルトは大股に王宮の廊下を歩いている。本来であれば自分の居場所である兵舎に向かうところだったが、今はそちらへ向かっているのではなかった。


 ニーナの話というのは、こうだった。

 父である水竜国の王ミロスラフや、伯父である雷竜国のエドヴァルトにも挨拶を済ませ、無事に婚礼の儀式も終わり、晴れて風竜王レオンハルトの正妃になったアルベルティーナだったのだが、どうもその後、二人の結婚生活がぎこちないというのだ。


 いや、もちろん、二人の仲が悪いというような話ではない。

 そこはもう、王宮にいる周りの兵たちやら文官たちからも聞こえてくるように、そばに居たら四六時中あてられっぱなしなぐらいに、お二人は仲睦まじいのであるそうだから。


(けど、だからこそ……不満にも思うってことだよな〜。しょーがねえなあ、もう、レオンも――)


「もう、結婚もして奥さんなんだし。普通にそう呼べばいいじゃんか……」


 そうなのだった。

 ニーナの不満というのは、そこである。

 あのレオンは、結婚して晴れて夫婦になっても変わらず、彼女を「姫殿下」呼ばわりし続けているというのだ。

 いや、それはさすがにどうかと思って、ニーナも婚礼の当日、その夜には「どうか名前で呼んでください」と彼にお願いしたのだそうだが。

 そうしたら、レオンは今度は堂々とそこに「様」をつけて呼ぶようになったのだとか。


「『<様>はいらないの!』って、何度もお願いしたのですけれど。……どうも、彼はそれにあまりに馴染みがないらしくて……」


 そうでなくても、レオンは非常に多忙な王だ。

 あのくそ真面目な性格も災いして、それはもう、日々の公務に忙殺されている。そんなこんなで、日常的にニーナとゆっくり話をする時間もとりにくいらしい。

 そうこうするうち、その「様」を取る機会をすっかり逸してしまったと。

 つまりはそういうことらしかった。


(ほんっと、しょーがねえなあ――)


 ここに、あのカールが居てくれたら良かったのだが。

 水竜国クヴェルレーゲンの士官であるカールは、ニーナがこちらの国に輿入れしたのと同時にその護衛の任を解かれて、いまは故国に戻ってしまっている。

 彼ならレオンの無二の親友でもあるわけなので、単なる友達としてもっと軽く、たやすく彼に助言したりどやしつけたりしてくれたはずなのに。


 ニーナから預った、レオンに会うための代わりに言付かった手紙を手にして、クルトはどうしたものかと思案する。

 時々、要所要所を守っている衛兵らに誰何されるが、書簡を見せて事情を説明すると、幸いすんなり通してもらえた。



「ご執務中、申し訳ございません。お邪魔いたします。クルト、入ります」


 レオンがいるという執務室前まできて、やっぱりつい最近おそわったばかりの言い回しをどうにか言い切り、クルトはその部屋に入った。

 レオンはいつもの軍装姿で執務机におり、宰相ベリエスや医術魔法官エリクらと共に居た。エリクのほうは、もとのアネルという名前でのほうがクルトにとっては親しみがあるけれども。


「姫殿下からの言づて? ……なにか急用か」


 レオンはクルトの持ってきた書簡にさっと目を通してから、ちょっと変な顔になったが、そこに書かれていた通りに、ベリエスやアネル、他の召し使いらを外へ出してくれた。

 ベリエスの方は「仕事中だぞ、この坊主」といったような多少不満げな顔だったが、アネルのほうではある程度、その話の内容の察しがついているらしく、「まあまあ」といった感じでベリエスを促して、そそくさと部屋を出て行った。

 それで改めて、レオンはクルトに向き直った。


「久しいな、クルト。隊での生活にはもう慣れたか。妹御はどうしている。何か問題があったか?」

「あー。うん、ありがと。そっちは大丈夫。アニカもここの下働きの見習いに入れてもらって頑張ってるし。みんな、よくしてくれてっから」

「そうか。……なによりだ」


 レオンは相変わらずの落ち着いた相貌である。

 この男は、王になろうがあのニーナを妻に迎えようが、やっぱり泰然と態度を崩さない。王になったからといって、殊更に偉そうになるでもなく、ただ淡々と、己のすべきこと、つまりは政務をこなしているといった様子だ。

 考えてみれば、これも凄いことなのかもしれなかった。

 何しろ、一国の王なのだ。あのムスタファの一派に虐げられ、長年、に下って多くの苦労もしてきた挙げ句、ようやく取り戻した王権と、いまの地位。周囲のみなは、かつてとんでもない人気を誇ったという父、ヴェルンハルトの面影を彼に見て、「陛下、陛下」と手放しでほめそやし、かしずいている。

 これがクルトだったらもう有頂天で、今頃は得意になり、大いばりで地に足がついていないだろうことは想像に難くない。

 ちょっと恥ずかしいぐらいにそんな自分が想像できて、クルトは多少、辟易する。


 ちなみにそのムスタファだが、その後、数ヶ月の間、厳しい尋問と篭絡にあったのち、つい先だって、王都の広場にて公開の処刑が行なわれた。

 クルトはそんなものをわざわざ見に行こうとは思わなかったけれども、周囲の同僚の下級兵らから、嫌でもその場面の噂は流れてきた。

 老人は意外にも、最後は大人しくその首を処刑人の斧の下に差し出して果てたのだという。老人は老人なりに、彼一人の命でもって彼の一族郎党の命を保証すると言ったレオンに、ある種の納得をもって逝ったのだろうと、その下級兵らは噂していた。



「時間ないだろうから、さっさと用件だけ伝えるわ。……じゃなくって、お伝えします」


 クルトのその台詞を聞いて、レオンがわずかに苦笑したようだった。


「言葉の最後だけそう言い直しても仕方あるまい。姫殿下もそうおっしゃっていただろうが。俺たちだけの時は、以前のとおりで構わんぞ」

「それだよ、それ!」

 途端に彼を指差してそう言い放ったら、レオンがちょっと目をしばたいた。

「……なに?」

「だーから、それ! 『姫殿下』! あんた、いつまでニーナさんのこと、そう呼び続けるつもりなんだっての」

「……ああ」


 「その話か」と言わんばかりのレオンを見て、クルトは思わずかちんときた。


「『ああ』じゃないだろ。あんた相変わらず、ニーナさんに『様』とかつけて呼んでるんだって? なんでそんなことになってんの?」

 レオンは沈黙して、少し困った顔になった。

「ニーナさん、あんたに呼び捨てにして欲しいんじゃないの? なに遠慮してんだよ。もうニーナさん、レッキとしたあんたの奥さんじゃん!」

「……ああ。それは、そうなんだが」

 ちょっと難しい顔になって、レオンは顎に手を当てた。


「俺もまさか、ここまで言いにくいとは思わなくてな――」

 それがあんまり、レオンにしては珍しく、「ほとほと困った」という風情なのを見て取って、クルトもちょっと口をつぐんだ。

「……そーゆーもんなの?」

「そういうもんだな」

 レオンがさらりとそう言って、また苦笑した。


「なにしろ、初めてお会いしてから十年以上も、そうやってお呼びしてきたお方だからな。婚儀を済ませたからといって、すぐにお呼び捨てするというのも……なかなか、できるものではなかったということだ。はっきり言えば、機会を逸した」


(いや、あのさあ……)


 この男、相変わらずのくそ真面目さである。

 クルトは、あのファルコがあきれ返ったように、よくこの男のことをそんな風に評していたのを思い出した。

「ん〜。まあ、それは分かんなくもないけどさ。でもそれ、ニーナさん、寂しいんじゃないの?」


 というか、夜はどうしているのだろう。

 そちらのあれやこれやについては、まだ子供のクルトにとってはもう、完全に想像の外だけれども。


 レオンがふと、困った瞳の色になってこちらを見た。

「お寂しい……か。そうおっしゃっておられたのか?」

 クルトは少し肩をすくめる。

「そりゃ、そうじゃねえの? せっかく結婚したのに……レオンと一緒になれたのに、いつまでも『アルベルティーナ様』って呼ばれたんじゃさあ……」

「……なるほど。そうか……」


 そう言ったきり、レオンは少し考え込む様子で、顎のあたりに手を当てていた。

 しかし、やがて目を上げると、静かな声でこう言った。


「話は分かった。つまらんことで足労をかけたな、クルト」

「え? いや、俺は、別に――」

「では今夜、少し俺に付き合ってくれんか」

「え?」


 どこに、と訊こうとしたクルトは目を見張った。


 レオンの手がすいと上がって、それがぴたりと、天を指差していたからである。 

 

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