第4話 しこりに気づいて
もうそろそろ、俺が何をされたら不機嫌になるかわかっただろう?
わかってくれるから、春子が好きだよ。
春子はいいね、頭がいいから。
春子は本当に、俺とお似合いだ。
他の子とはこんなにいっしょに居たいと思わないもの。
バスタブに春子の頭を突っ込んで以来、圭一は会う度、春子にこんなことを言っていた。酔えば暴力的に春子を抱いた。春子が不快に思う行為こそ、喜んで圭一は強行した。そして、それこそが愛だ幸せだと言わんばかりに、また甘言で疲れきった春子のを労った。
圭一の妻の病は、どうやら乳がんであったらしい。
「女の人は強いよね。うちの奥さんもさ、ふさぎこんだかと思えば自分で病気について調べ始めて、男よりずっと逞しいって感心したよ」
圭一は、ときどき妻のことを春子に話して聞かせた。妻を褒めることもあれば、けなすこともあった。
圭一の言うことを信じるのであれば、圭一の妻の人物像は、容姿ならば春子のほうが美しく、学力も春子のほうが上であった。しかし、そういった「条件」を凌駕して春子より魅力的な女であると言っているように聞こえて、春子は複雑な心境になるのであった。
圭一は、妻が受け付けないので夜の夫婦生活はもうずっとないと、春子には言っていた。春子はそれを信じたわけではなかったが、肉体的には妻より自分のほうが楽しいのだろうと解釈して、「どうでもいいことだけど、悪い気も特にしない」と思っていた。
しかし、ある逢瀬の夜、ラブホテルで圭一がむりやりに春子の肛門を犯そうとした時に、「この前、奥さんと試したんだけど痛いって言って無理だったんだよね」と悪びれもせず口にしたので、これはさすがに春子も我慢がならなくなった。圭一に腕を掴まれたまま、全裸の春子は脱力し、カーペットに膝をついた。
突然、熱を失っていく春子の顔色や肌に気づいた圭一が「どうした」と半笑いで声をかけた。
「信じたわけじゃなかったけど、奥さんとそういうことをしていないと、滝さんは私に言ったよね。この状況でそれを覆すようなことを言うのは、あなたが散々こだわってきたプライドという観点からすると、どうなの?…あなたは、自分のプライドを傷つけることは許せなくても、私のプライドはどうなってもいいの?」
春子の強い反抗は、これが初めてのことだった。圭一もさすがに勢いを失い、ベッドに腰をおろして、うなだれる春子に隣に座るよう促した。春子は怒りつつも、冷静な自分が内面に存在しているのを感じた。
その時は、その冷静さの正体が何なのかわからなかったが、もしかしたら「この男の失敗を掴んだ」、そんな気持ちだったのかもしれない。慎重に、関係性を壊さないように、今宵一晩は自分がこの男を追い詰める愉悦を味わわなければならない。
そうでなければ、諸々を犠牲にし、我慢し、わざわざこの男と恋愛する意味がなくなってしまう…後から思えば、この時からそんな、楽しくもなく、恋愛でもない感情が春子の中に芽生えていたのだ。
圭一は両手で口と鼻を覆って、ため息をひとつついた。春子にはそれが演技がかって見えた。
「奥さんが、乳がんになって、俺もいろいろ調べたんだけどね」落ち着いた口調でゆっくりと圭一が語り始めた。
「乳がんて、しこりに気づいて発見したりするじゃない?あれ、普通は、旦那さんとか彼氏とか、とにかくパートーナーが一番はじめに気がつくケースが多いんだって」
春子は黙って聞いていた。
「うちは、気づかなくって…。それで申し訳なくて。義務がある、そういう感じなんだよ」
春子は、圭一に、健康で独身のきみには理解できないかもしれないけど、そんなふうに言われた気がした。
圭一は、隣に座る春子の手を握った。その行動に春子をなだめる以外の意味などないことを春子は知っていた。しかし圭一の演出に乗るほかないような気がした。
これは2人が演じるドラマで、台本は圭一がアドリブで書いたもののほうが、どうも筋が強かった。
春子はごめん、と謝った。謝る必要などなかったが、春子の側にはその他に良いセリフも筋書きも、思いつきはしなかった。
圭一は見事、その夜も目的を果たしたのであった。
十数年分をお気持ちで 目黒 照 @megro
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