桃源郷

鳥山留加

桃源郷

 笹本さんの手料理を食べに行くことになった。

 誘ってきたのは笹本さんだった。笹本さんはロッカールームの鏡で髪を梳かしながら私を誘った。

「今度の週末にでも、私の家に来ない?」

 笹本さんは全然わくわくしていない声で言った。

「え、笹本さんの家にですか? いいんですか?」

「いいわよ、誘ってるんだから。良かったら泊まっていってもいいわよ」

「やったあ」私は折りたたみ式携帯電話を「ぱくっ」といわせて閉じながら言った。

「何か料理つくってあげるわよ」

「やったあ……最近まともなもの食べてなかったんですよね」

「あんまり期待しないで」

 笹本さんはカチッといわせながら折りたたみ式コームを畳んだ。



「ちょっと、貴方、私と友達にならない?」

 初見で、笹本さんは私にそう言った。私は丁度勤務時間を終えて着替えを済ませ、制服で膨らんだバッグと、もう五年も愛用して色あせてしまった傘を両手に、お客様玄関口の手前を通り過ぎるところだった。私は急いでいた。

「へ?」

 笹本さんに声を掛けられて、私はまぬけな声を出した。「友達にならない?」という突然の提案もさることながら、現代の若い女の子が「貴方」という言葉で私を呼んだことにも驚いた。

 私は取りあえずその場に立ち止まった。立ち止まったスニーカーが、小さな水たまりから密かな飛沫をあげさせた。

 玄関口の脇の大きな柱近くに、姿勢良く立つ女性がいる。やや茶色く、肩より少し下で揺れるストレートの髪が、水を含んだ空気の中できらきらと輝き、私はしばらく心奪われた。

「聴こえた?」

 女性が先ほどよりも大きな声を出して言った。私はやっと我に返って水たまりからスニーカーを引き抜いた。

「私ですか?」自分の胸の辺りを指差して聞き返すと、女性は大きく頷いた。

「あ、はい。聴こえてます」

 彼女の立っている場所のすぐ隣から、買い物を済ませたお客様たちが絶え間なく出てくる。菓子箱を大事そうに抱えた幼児が、大根の葉の覗く袋を提げた母親に導かれて通り過ぎる。玄関口を出た途端に胸ポケットからタバコを取り出す若い男も通り過ぎる。腕を絡ませながら無言で空を見上げるカップルも通り過ぎる。一階のコロッケ屋で働く顔見知りの青年も通り過ぎた。

 女性がこっちにやって来る気配はなかった。私の方から彼女の元へ駆け出した。

 ささもとさん。

 彼女の名前を、私は知っていた。苗字だけであったが、知っていた。私はその三ヶ月前に現在彼女の居る部署から移動になった。その少し前に彼女が部署にやって来たので、本当にほんの僅かではあるが、同じ職場に居た期間があったのだ。

「えっと、『婦人服』の笹本さんですよね?」

 私は探るような口調で尋ねた。彼女はというと、やけに淡々とした表情で、なんの驚きも読み取れなかった。

「ええ。そうよ。笹本華純かすみ。貴方は?」

「えっと、私は山城やましろ美奈です。ちょっと前まで『ベビー服』にいたんですけど、覚えてます?」

「そうなの。御免なさいちょっと覚えてないわ」

「はあ、まあちょっとしか時期かぶってなかったですし。で、その、私に何か?」

「ええ、私と友達になってくれないかしらと思って」

 笹本さんは、これも淡々と告げた。

「そりゃあ私は全然オーケーですけど」

「そう。良かったわ。じゃあ、これから少し話さない?」

「はあ、笹本さん、家はどっちの方角で?」

 真っ白な細い人差し指を突き出して、笹本さんが私の家と同じ方角を指差した。雨の匂いのする風が緩やかに吹いて、笹本さんのスカートを揺らした。目の前の駐車場をゆったりと出入りする車が、午後六時の頼りない闇にヘッドライトを光らせる。

「私ん家と、一緒ですね」

 少し勇気を出して、私は笹本さんに笑顔を向けた。しかし笹本さんはやはり淡々と、言葉を紡ぐ。

「そうなの。これから、暇?」

「はあ。暇っちゃあ暇ですね。はい、暇です。どこか店、入ります?」

 訊くと、笹本さんは無言で首を回し、目と鼻の先で煌煌と旋回するファミレスの看板を見つめた。

「あ、ファミレス。行きましょうか。お腹も空いてきたし。あ、ご飯食べてもいいですか?」

「もちろんよ」

 私たちは並んで歩き始めた。



 ファミレスの白々と輝く照明は、笹本さんの雰囲気に全然合っていなかった。しかし笹本さんの可愛さは、その中でも霞むことはなかった。

 笹本さんは可愛い。暗い茶色に染めたセミロングの髪はいつも光っていて、細い顎のすっきりとした顔の隣で、時折優しく揺れる。白い肌にごく薄い化粧をして、頬はいつ見てもほんのりと赤みを帯びている。そんな風に、笹本さんは可愛い。堅すぎない、輪郭のラフなジャケットに揺れる淡い色のスカートを合わせ、靴はローヒールの銀色一色のショートブーツ。そして細い首には、懐かしくて温かい気持ちになる、千代紙のような和風のスカーフを巻いている。

 ファミレスで海老ドリアを頬張りながらスカーフのことを褒めると、笹本さんはさして嬉しそうでもなく「ありがとう、嬉しいわ」と答えた。

 しかし笹本さんの可愛さに感心するいっぽうで、私は笹本さんの可愛さに違和感を感じてもいた。

 なんというか、笹本さんの可愛さのタイプと笹本さんの持つ雰囲気がずれているのだ。というよりも、ずれ込んでいる。かなりずれ込んでいる。

 笹本さんのようなタイプの可愛い人が持つべき雰囲気や内面を、笹本さんはまったく持っていなかった。現在の笹本さんの雰囲気や内面はそれだけを見れば十分魅力的だった。けれど外見と照らし合わせて見てみると、まだ私の方が笹本さんの外見に合った性格をしているんじゃないかと思えてくる。笹本さんは本来、淡い色のスカートを風に揺らしているような人じゃないのではないか、そう思えてくる。笹本さん自身に伝えたことはなかったが、出会ってから半年、私は今でも時々、笹本さんのそんな違和感について考察する。いつも決まって、答えは出ない。



 約束の週末、私は目覚めてからすぐに顔を洗い、出かける支度を済ませると、部屋のカーテンを一分の隙間もなくきっちり閉め、留守電を全件削除して家を出た。

「新着メール」の表示が、携帯電話の小さなディスプレイに浮かんでいる。笹本さんからのメールが一件、入っていた。

「笹本です。駅に迎えに行きます。北口の入り口近くで待てます」

「待ってます」の「っ」が抜けてるぞ、笹本さん。

 口調と同じで、笹本さんのメールは淡々としている。私は道端に立ち止まって、返信のメールを打った。

「美奈です。もうすぐ電車に乗ります。手料理、楽しみです」

 笹本さんの真似をして、淡々とした文章を打ってみた。淡々とした文章は、思いがけず心の中にすっと入って来る。私は携帯電話を閉じてブルゾンのポケットに仕舞うと、再び駅に向かって歩き始めた。

 笹本さんの住むアパートは、私の家の最寄り駅から、三つ東の駅近くにある。「辺鄙なところ」と、笹本さんは表現するが、あまり五月蝿くなくて雲も風も一段階スピードを落としたようなその町のたたずまいは、笹本さんのクールな魅力にぴったりだ。

 駅までの道を、私は闊達に歩いた。姿勢よく歩いた。靴音が大きく鳴る。高校生の頃、さばさばした性格の姉御肌なサッチから、「美奈の歩き方って身体に悪そう。もっと背筋伸ばしなよ」と指南されたことを思い出す。それから、ちょっとは姿勢に気を配るようにはしているのだが、時間が経つと、どうも知らぬうちにだらだらした歩き方になっているらしい。今日は笹本さんの家に着くまで、ちゃんと姿勢を正していよう。私は歩きながら誓った。

 最寄り駅が見えてきたところで、笹本さんに手土産を持っていくことを思いついた。手料理を御馳走になるのだ。手ぶらでお邪魔も失礼だろう。

 まだ昼も早い時間だからか、駅前に人の姿はまばらだった。小さな喫茶店からカレーの匂いが放たれている。寿司屋の暖簾が音もなく翻る。スーパーマーケットの店頭を、兄弟らしい少年二人が、甲高い笑い声を上げて走り回っている。弟のズボンのポケットからミニカーが落ち、兄がそれを素早く拾ってやる。

 笹本さん、ビール飲むかな。私はスーパーの前で立ち止まり、一瞬考えた後、中に入った。缶ビールを四本、ジュースを一缶、それからスナック菓子を一袋に、小さな柿の種を買った。

 スーパーを出たところで、正面に立つ大きなドラッグストアが目に飛び込んできた。

 あ、岩沢さん。

 知らずこころの深いところで呟くのを、止めることが出来なかった。私はしばらく逡巡してから、ようやく心を決め、ドラッグストアの中へ向かった。

 久しぶり、だった。以前は仕事の帰り道、毎日のように通っていた。おかげでポイントカードにスタンプがぎっしり溜まった。店名の書かれたカプセルの形のスタンプは、私の幸福の数だけ、そこに存在していた。「岩沢」と書かれたプレートを胸に留めた店員さんは、私が500円分の買い物をするごとに、そのスタンプ一つ、カードに押してくれた。岩沢さんではなく、別の店員さんが押してくれることもあった。スタンプが溜まると、私は岩沢さんが押してくれたスタンプはどれだったっけ、とカードをじっくりと眺める。これとこれは岩沢さんが押してくれた。うん、覚えてる。これもそうだったかなあ? 私はカードを見つめながら、岩沢さんの笑顔を思い出す。

 久しぶりに店内に入ってみたが、別段以前と変わったところはなかった。駅の方を向いているレジカウンターも、一見ごみごみとしているように見えて、ちゃんとメーカーごとに並べられ、仄かに良い匂いを漂わせているコスメのコーナーも、商品名と価格を手書きで書いた紙がぺたぺたと貼付けられている日用品のコーナーも、変わっていなかった。

「いらっしゃいませー」

 振り向くと、白衣を着た岩沢さんがレジに立っていた。少し痩せたような気がする岩沢さんが、そこに立っていた。私とは違って、いつ見ても姿勢の良い岩沢さん。坊主に近いほど短い髪が、つぶらで白目の青みがかった目に良く似合う、岩沢さん。

 思わず引き寄せられた視線が、岩沢さん自身の視線とかち合った。

「いらっしゃいませー」

 岩沢さんは温かな声で言った。その響きの中に、私は岩沢さんの内面を読み取ろうとした。私の顔を覚えているようだった。声を聞いて、そのことがわかった。

 途端に、生温い液体が目尻に浮き上がってきた。岩沢さんの温かな声が、私の胸底で凝り固まった冷たい何かを溶かし、それを目尻から、外の世界へ流そうとしている。

 店内の客は私の他に、色あせたシャツを着た青年が一人、液体洗剤と柔軟剤のボトルを品定めしているだけだった。

 私は岩沢さんに背を向け、何も買わずに急いで店を出た。



 笹本さんのアパートの最寄り駅に着いた。北口の入り口に、笹本さんの細い後ろ姿が見えたので、私はスーパーの袋を大きく揺らしながら駆け寄った。

 笹本さんは、心なしかいつも会う時より柔らかな面差しをしていた。身体の線に沿った鮮やかな緑のカーディガンの下に白いレース地のキャミソールをちらりと覗かせ、パステルカラーの水玉模様や薔薇模様が、コラージュ風にプリントされたスカートを履いている。足元はいつものショートブーツだ。

「待ちました?」駆け寄りながら笹本さんに訊く。

「いいえ。今来たところよ」

「これ、おみやです。ビールと、三ツ矢サイダーと、オーザック。あ、笹本さんビール飲みます?」

「少しなら」

「そうですか。じゃ、行きましょう、行きましょう。早く笹本さん家行きたいです」

「そんなにせかせかしなくてもいいわよ。ゆっくり行きましょう」

「でもっ、早く笹本さんの手料理食べたいしっ。ねっ、行きましょう」

「大層な物は作れないわよ」

「いいんですいいんです。行きましょう行きましょう」

 そう言うと、笹本さんは不思議きわまりないという表情をして、心持ち首を右に傾げた。私はそんな笹本さんの背中を軽く押しながら、ずんずんと歩き出した。



 玄関のドアを開けるとすぐに、ソファの上で、特大のくまのプーさんが笑っているのが見えたので、私はまごついた。

「さ、笹本さん、プーがいますよ。プーが」

「ああ、此処に引っ越す時に買ったのよ」

 笹本さんは例によって淡々と答える。

「どうぞあがって。狭いけど」

 1Kの部屋にはそれなりに物があったが、その一つ一つは在るべきところにきちんと収まっているようだった。私にソファを勧めて、笹本さんは玄関から入ってすぐの廊下にあるキッチンでお湯を沸かし始めた。私はソファの真ん中に陣取っていたプーさんを少しずらして、クリーム色のソファに身を沈めた。

 この、膝の上に小ぶりの壷を載せて笑っているプーさんは、私が前々から考察している「笹本さんに関する違和感」の象徴だった。この黄色い熊は、笹本さんの外見、そしてこの部屋にはぴったりだが、笹本さんの雰囲気には全然合っていない。笹本さんという人は、さても考察しがいのある人物だ。私はしみじみと思いながら、プーさんを両腕に抱きかかえた。



 何か手伝いましょうか、と声を掛けると、笹本さんはてきぱきと菜箸を動かしながら、「結構よ、ゆっくりしていて」と断った。私がソファに戻りかけると、笹本さんが再び口を開いて、「お願いがあるんだけど」言ってきた。

「何ですかね?」

「そこの」笹本さんは言い、初めて逢った時のように人差し指を突き出した。指の先には、ソファの背もたれの端に掛けられた、赤いパーカーがあった。

「それのファスナーが動かないの。貴方、直せるかしら」

「あ、はい。やってみます」

 私はしばらく動かなくなったパーカーのファスナーと格闘した。格闘の末、私はファスナーに勝利した。

「直りましたあ! 笹本さん!」

 私はキッチンの笹本さんにパーカーを広げてみせた。笹本さんは壁の向こうで鍋の火を弱めたようだった。それから、笹本さんは壁の途切れたところから顔だけを出した。

「どうやって直したの?」

「あ、えーと」私が口ごもると、笹本さんは菜箸を持っていない方の手で顔の横の髪を耳に掛け、「有り難う」と言った。私が笑顔を見せると、笹本さんは指で菜箸を動かし、二回、かちかちっと音を鳴らした。



 手料理の載った皿が、木目の上に次々と並べられる。私たちは小さな座卓を挟んでカーペットの上に腰を下ろした。

 ぶりの照り焼き、かぼちゃと鶏そぼろとインゲン豆の煮物、切り干し大根、桜海老と玉葱、ジャガ芋、蓮根などを合わせたかき揚げ、小鉢に盛られた胡瓜とわかめの酢の物、そして炊きたてのご飯には、梅干しが混ぜ込んであった。

「うまそうです」私は前のめりになりながら呟いた。

「あ」

 何かを思い出したように笹本さんが言ったので、私は顔を上げた。

「どうしました?」

「お吸い物を忘れたわ」

「全然大丈夫ですよ」

「そう、なら良いけど。食べましょうか」

「食べましょう食べましょう。すっごい美味しそうです。久々にこんな手料理見ましたよ」

 私は膝の上のプーさんを一旦横に座らせて、料理に取りかかった。

 手料理は、笹本さんに酷似していた。

 不味くはない。断じて不味くはない。しかしある種の奇妙さが頬の裏側に、喉の入り口に、舌の隅っこに、残るような料理だった。そんな料理ではあるものの、この料理にはこれまたある種の、有無を言わせないパワーがあった。たとえこの料理が「美味い」の部類に入っていなかろうが、そんなことを言葉にさせないような、パワーがあった。それは笹本さんのたとえ「違和感」があろうが魅力的であるという印象にとても良く似ていた。

「ごちそうさまでした。美味しかったです」

 私が箸を置きながら伝えると、笹本さんは持っていた桜の柄の湯飲みを座卓の上に戻し、「ありがとう。自分でもなかなか上手く出来たと思うわ」と返した。



 薄い桃色のマニキュアをした手で、笹本さんが瞼をこすった。時計の針も午後十時をまわり、眠くなったのかと思って黙って様子を見てみると、そういうわけでもないようだった。笹本さんの黒目がちな両眼は、ぱっちり開いたまま、床の何処かを見つめている。私はファッション雑誌に戻り、赤や黄色、緑などの原色のタイツを履いたモデル写真を何とはなしに眺めた。笹本さんは湯気の立つコーヒーを啜っている。すると不意に、部屋の東の方から音がした。私と笹本さんはゆっくりと同時に顔を上げた。

「音しませんでした?」

「ええ」

「何の音ですかね?」

「さあ、何かしら。ここ、結構壁が薄いのよ」

「そうなんですか」

「隣の人が蕎麦でも打ってるんじゃないかしら」

 笹本さんは真顔で言った。午後十時に蕎麦を打つ? 冗談なのかもしれないが、万が一冗談でなかった場合洒落にならなさそうだったので、笑うのは止めておいた。

「笹本さん」

 笑う代わりに、私は明るく笹本さんに呼び掛けた。

「何?」

「あの写真の人、笹本さんの大切な人ですか?」

 私の不意打ちに、笹本さんは驚く様子もなく首をひねる。口の端を持ち上げて、洋箪笥の上に置かれた写真立てを指差す私。笹本さんは写真立てを一瞥して「ああ」と理解する。

「ああ、弟なの」

「そうなんですか! 弟さんかあ」

 私は納得した。輝く艶やかな髪や、細いけれど強い芯の感じられる身体の線が似通っている。冬の海岸だろうか。無彩色で穏やかな波の前で、いつものように冷静な表情の笹本さんと、柔和な笑顔を浮かべた少年が立っている。少年は、今まさに、少年から青年になろうとしているかのような、曖昧で、しかしとても美しいオーラを放っていた。

「似てますね。笹本さんに似てて、かっこいいです」

 私は言った。

「そう? 自分ではあんまり似ていないと思うんだけど」

 笹本さんはそう答えた。

「似ている」という私の意見と、「あんまり似ていない」という笹本さんの意見は、どちらも当たっているような気がした。

 笹本さんが飲んでいるコーヒーの湯気が、少し弱まっている。

「弟さん、学生さんですか?」

「ええ、九州の実家に居るわ。まだ高校生なの」

「そうですかー」

 笹本さんが九州の出だったことを、私はすっかり忘れていた。出会ってすぐに二人で行ったあのファミレスで、野菜スープを上品に掬いながら、笹本さんは教えてくれたのだった。笹本さんは方言を一切喋らない。大学進学と同時にこの町に来たらしいので、もう訛ることも少ないのだろうと思っていたが、それは違うような気がしてきた。笹本さんの口から出る言葉は、私がたまにしか開かない文庫本の世界の言葉。文庫本の世界の言葉は、整っていて、美しくて、少し悲しくなる。だから笹本さんの口調は、この都心にほど近い町に馴染んだ末の口調ではない。

「弟の写真を飾ってるなんて、可笑しいかしら?」

 不意に、笹本さんが訊ねてきた。

「え? そんなことないと思いますよ。家うちのお母さんも、端切れとボール紙で写真立て手作りして家族写真なんか入れちゃってますし」

「可愛らしいお母さんね」

 言って、笹本さんは僅かに目を細めて微笑んだ。上睫毛と下睫毛が重なりそうになる。こんな笹本さんを見るのは初めてだった。胸が少しざわめいて、私はプーさんを引き寄せる。

「貴方は、好きな人とかいるの?」

「私ですか? うー、えーと、いるようないないような」

「気になる人がいるってことね。どんな人なの? 聞きたいわ」

「どんな人か、ですか? 髪は、短いです。目が大きくて綺麗なんですね、それから姿勢が良くて。口は、どうだったかな、唇は結構厚かったと思うんですけど。いつも笑ってる感じ。背はそんなに高くないです。どちらかというと低いですね。でも手がしっかりしてて大きいんです」

「きっと素敵な人ね」

 笹本さんは桜の柄のマグカップを、片手で握りしめるようにして持っていた。小さな爪のついた指先が白くなっているのを見て、かなりの力を入れていることがわかった。私が何かを言おうと口を開きかけたのを遮るように、笹本さんが再び喋り始めた。それは段々と速さを増し、終わりに近づくと怒気を含んだ物になった。

「もしその人が私の好きな人で、私がその人に愛を告白しても、絶対に結ばれないでしょうね。私はまともな人間じゃないし、その上につまらない人間だから、駄目なの。私にはそういう能力が生まれつきないのね、きっと。どうして貴方はそういう風にしていられるの。貴方みたいになりたいわ。貴方みたいに、どうしたらなれるのかしら」

 私は黙っていた。黙って笹本さんを見つめていた。私が驚いているのを見て取って、笹本さんはそれまで伏せていた目線を初めて私の方に向けた。私は一瞬、ほんの一瞬、笹本さんが泣いているのかと思った。しかし笹本さんは泣いてなどいなかった。疲れの色の混じった不思議なほど澄んだ眼差しを、ぼんやりと私の方に、いや、私のいる空間に、向けているだけだ。

「――御免なさい。変なこと言ったわね。今のこと、気にしないで」

 笹本さんは言い終わると、また顔を下に向けた。それから、桜の柄のマグカップから離した手を、座卓の下で崩した膝の上に、そっと置いた。笹本さんは缶ビールを口にしていなかった。綺麗に破いたパッケージの中の柿の種が、少しばかり減っているだけだった。



 窓の外の闇に、深い黒が溶ける頃、私たちは床についた。笹本さんは床に敷いた蒲団に、私は笹本さんが譲ってくれたベッドの上に眠る。

 小さなピンクの花が散りばめられたパジャマを着て、笹本さんはてきぱきと寝床を作っていく。「ベッド、占領しちゃってすいません」私が言うと、笹本さんは「いいのよ、お客様なんだから」と掛け布団をてきぱき広げる。既にいつもの淡々とした笹本さんに戻っている。

 すっかり寝支度が済み、私たちはそれぞれの寝床へ潜り込んだ。笹本さんはリモコンで照明を消そうとしているらしく、「電気、小さい灯り点けておいて良いかしら」という声が床から上ってきた。「小さい灯り?」私が呟くと、「橙色の灯りのことよ」ベッドの上からは見えない床上で、笹本さんが小さく笑うのが、何となくわかった。私が承知し、部屋は直ぐさま暗い橙色の光で満たされた。

「私、この灯りがないとあまり良く眠れないのよ」

「そうなんですか。でもこの灯り、私も嫌いじゃないです」

「そう」

 闇が降りると、世界を隔てる物はなくなる。部屋の中も、部屋の外も電気が切れることによって一つに繋がり、部屋の中にいる人間は、「灯り」という囲いをなくす。けれど、ほの暗い橙色の灯りを点けておくことで、何かに守られているという安心感を心に繋ぎ止めたまま、眠りにつくことが出来る。横たわり、笹本さんの存在を感じながら、そんなことを考えた。

「私、この灯りの中にいると、何故だかわからないんだけど、『桃源郷』って言葉を思い出すの」

「桃源郷、ですか」

「ええ。なぜだかわからないんだけれどね。いつも」

 いつも、が、合図になったように、私たちはもう口を開かなかった。部屋を満たすのは、秒針が時を刻む音と、夜更けの国道を自動車が滑走する音だけだった。

 どうしたら貴方みたいになれるの。

 笹本さんの言葉が蘇った。

 私にはわからないです、笹本さん。

 私は胸の奥深く、冷たいところで言い返した。

 コロッケ屋の青年が、三ヶ月前から私を付け回していた。今日の留守電には百四件のメッセージが録音されていた。私と岩沢さんの方を盗み見ながら、二つのボトルを品定する振りをしていた。駅の北口で私と笹本さんを見ていた。

 笹本さん、怖いです。

 笹本さん、一緒に桃源郷に行きましょう。笹本さんと一緒に、行きたいです。

 橙色の闇の中、私は何度でも心の中で呟いた。

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桃源郷 鳥山留加 @toriyama_lukas

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