All for one

カント

本編

 彼がさっと手を翳すと、『それ』は呻き声とも叫び声ともつかぬ異音を周囲に奏でた。椅子に座る少女の両肩に手を置いている彼女の両親が同時にびくりと体を震わせるが、構わず彼は『それ』に右手を押し当てる。

 柔らかなゴムのような、温いゼリーのような感触が右手に食い込む。彼は一息に右手を払った。途端、少女の頭の上に憑いていた『それ』は、砂のように少女から払い除けられ、宙に舞い、霧散した。その時にもやはり『それ』は悲鳴を上げたが、彼は極めて事務的にその姿を見定め、やがて消え失せたことを見て取って、静かに息を吐いた。

「終わりましたよ」

 おお、と両親が感嘆の声を漏らした。少女は眠たげに眼をこすり、尋ねてくる。もういいの、と。

「うん、もう大丈夫。今まで良く頑張ったね。これからは夜に変な声を聞くことも無いと思うよ」

「ありがとうございます!」

 母親は少女を抱きしめ、涙目で彼に頭を下げた。そう、いま彼が少女に告げたこと以上の怪異が、この少女の周囲では発生していた。それは例えば、周囲の物が宙に突然浮かんで暴れたり、夜中に彼女の喉の奥から地獄の釜から鳴り響くような轟音が轟いたり、家の中で何かが弾けるような音が流れたり――所謂、極々ありきたりな霊現象の類だったが、まだ幼稚園児の彼女にはそれらが何によって発生しているものなのかを考える能力は無い。そして、知る必要も無い。すべての脅威は彼が取り去ったのだから。

「それでは、私はこれで。料金は前払いいただいた口座に。効果を実感されてからで結構ですよ」

 彼は穏やかに笑い、ネクタイを整えてからビジネスバッグを手にした。中には何も入っていない。着ているスーツも、昼間から堂々と外を出歩けるようにするためだけに用意しているものだ。馬鹿馬鹿しい行為だが、彼のような一般人には見えないモノを相手にしている職業の人間にとって、この格好はデファクトスタンダードでもある。

「本当にありがとうございます。でも、こんなに簡単に済むなんて、驚きました」

 一軒家を玄関まで案内されながら、少女の父親は率直な感想を彼に告げた。そうかもしれない、と彼は思う。何せ、今回の相手はかなり悪質なタイプの霊だった。プロのエクソシストは世の中にそれなりに存在しているとはいえ、先程のあれを祓える者は、その中でも限られた存在だけだろう。例えば天賦の才を持つ者。例えば不断の努力を永く永く続けた者。例えば――。

「以前頼んだ方は、うちの娘を見ただけで匙を投げました」

「でもその人でしょう? 私を紹介したのは。ならば、その人はその人に出来る仕事をしっかりこなしたということですよ」

「『あなたに祓えなければ、もう日本で太刀打ちできる人は居ない』――そう言われました」

「大袈裟ですね」

 彼はまた穏やかに笑った。その頃には玄関に居て靴を履いていた。そして、告げる。それでは、何かあればまたお呼びください、と。

「本当に、ありがとうございました。……最後に一つだけ聞いてもよろしいでしょうか?」

「何でしょう?」

「これは単純な興味なのですが……あなたのような能力――つまり、悪霊を祓うと言った能力です――は、やはり才能によるモノなのでしょうか? それとも、修験者のような修行をして得られるものなのでしょうか?」

「どちらのパターンもありますよ。ただ、私の場合は後者でした」

 彼はかつてを想起していた。かつて。それは彼が子供の頃まで遡る――。




   ●


 あまりにも運が悪かった。道を歩いていて頭の上から花瓶が降ってくることなどザラだったし、住んでいた家が――小火も含めて――火災に見舞われたことは一度や二度では済まない。夜更けに金縛りにあったことも、暗い廊下で真っ白な服を着た髪の長い女性に見つめられたこともある。トラックに轢かれ、右足を危うく切断する羽目になりかけたこともある。奇妙な音が家中に響くことも多かった。だから、物心ついた頃には、彼は自覚していた。

 自分には、何かが憑いている。

「その通りだよ」

 この話をしたとき、老婆はそう言ってゆっくり頷いた。前述のトラックに轢かれた後の病院で、隣のベッドに居た老婆だ。彼女はいわゆる『見える』方の人間で、彼には髪の長い女が憑いているのだと極々真面目な口調で言った。

「あんたには『何か』が憑いている。あたしゃ見えるだけだから何も出来ないがね。世の中にはそう言ったものを祓ってくれる人もいるから――お金は掛かるけれど――早めに相談した方がいい。何なら、あたしから紹介するよ。この歳まで生きているとね、色んな伝手があるものだから」

 老婆はそう言って、知り合いの除霊師――或いはエクソシスト――数人に声を掛けてくれた。だが、その全員が彼を見て首を振った。そしてこう言った。

「これは祓えない」

 何故なんですか、と彼は――或いは彼の両親は――彼ら霊能力者に詰め寄ったが、回答は一つだった。『それは我々の力の及ばない類のものだから』――意味は分からなかったが、要するに彼らは無能ということなのだと彼は受け取った。そして、ならば、と考えた。

 他人がダメなら、自分でやるしかない。

 効果が出るかは分からなかったが、彼は寺に奉公に出て修行を始めた。数年後には少なくとも病院の老婆のような『見える』状態には至っていた。何が効果的だったのかは分からないが、とにかく自分の運命を他者に握られるのが苦痛で仕方が無く、それから脱却するために我武者羅になっていたのが重要だったのだろうと考えている。彼は更に研鑽を詰むべく山に籠った。寺を出て修験者のように山を薄着で歩き回り、自然への祈りを捧げ、常に五感を大地と空に向け続けた。滝行、護摩行、火渡り、断食、三日三晩の瞑想。手を出せるものには何にでも手を出した。そして、そうしていく頃には彼も気づき始めていた。自分に取り憑いている者の正体。彼を見たエクソシストたちが告げていた言葉の意味を。

 忘れもしない。早朝の霧立ち込める奥深い山の中、独り滝行をしていた時だ。

 彼はついに、彼女と対峙を果たした。

≪私は貴方を想っているの。いつも、いつもよ≫

 彼女は幼い頃から何度も姿を現していた通りの格好をしていた。真っ白な古い病院着に、長く痛んだ髪。顔は見えない。意図的に見せない様にしているようだった。

≪私は貴方を想っているの。それなのに、貴方は私を追い出そうとしている≫

「追い出すとも。君が何者であろうとも、一つ確かなことがある。君はこの世の住人ではない」

 彼は薄く目を開け、眼前に現れた彼女にはっきりと告げた。

「私の中から立ち去れ」

≪すべて貴方の為にやってきたのよ≫

 相手は聞く耳持たず続けた。

≪花瓶を落とさなければ貴方はその先の穴に落ちていた。火を出さなければ地震であの家は崩れていた。私が手を貸さなければ、貴方の体は鉄の車で粉々だった。何度も説明しようとしたけれど、貴方には届かなかった。けれど、今なら届く。声が届く。こんなに素敵なことは無いわ≫

「それが真実だと誰が証明できる?」

 この世の者では無いモノと対峙しながら、しかし彼は理解していた。そう、彼女の言葉は本当だ。だから除霊師たちは祓えなかった。彼女は『悪霊』ではなく『守護霊』とでも呼ぶべきものだから。

 だが、ではどうする? 自分がこれまで費やしてきた時間の全ては? 自分は何のためにここで滝に打たれているのか?

≪私を滅ぼすつもりなの?≫

 彼は応えなかった。暫くの間、自身の体を冷たい衝撃が打ち続けた。だが、やがて。

 彼は応えた。

「滅ぼすとも。私の生は、そこで初めて、ようやく私のものになるのだ」

≪そう≫

 守護霊は寂しそうに笑った。




   ●


 電車が目の前を通り過ぎていく。この駅には止まらない電車。どこか先で止まる電車だ。それが生み出す風を全身に浴びながら、彼は小さく微笑んでいた。先程の除霊もうまくいった。何より、父親からの感謝の言葉が忘れられない。貴方は私の恩人だ――。

≪返せ。私の体を返してくれ≫

 頭の中で、また声が懇願した。彼は首を振る。何を言っているのか。修行して培った力。それを有効活用できるのは、他ならない自分だけだ。

 霊を知り尽くし、肉体を操れる自分だけに出来ることなのだ。

「すべて貴方の為なのよ。そしてそれが全ての人の為にもなる」

 彼は小さく頭の中の『声』に笑って、次にやってきた電車に乗り込んだ。

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