第7話 白百合は青空に散る
「静君…って、白川静さんですか」
心臓がどきどきして、写真から目が離せなかった。
白い肌にくしゃくしゃの髪、遠慮がちにそらされた切れ長の瞳は間違いなく白川さんの面影を感じる。
「あれ、お客さん、静君の知り合いなのかい?」
主人はまるで昔からの知り合いにばったり会った時のような声をあげた。
「娘が死んでから全く顔みせなくなっちゃったんだけどね。昔はよくそこの縁側で本を読んだり、娘と学校の宿題をしてたもんだよ。疲れて昼寝なんかしちゃってさ。僕が毛布をかけてあげて…」
うれしそうに早口で話し始めた主人の声がだんだん弱くなり、顔が赤くなってきた。
「ごめんね、百合の話をするのは久しぶりだったから嬉しくてね。静君は元気にしてるかな」
「はい、今も読書が好きみたいです。時々、元気がなさそうに見えます」
正直ミキは白川さんのことを全くと言っていいほど知らない。
知り合いといっても一回話した程度なので、彼の近況報告ができるような存在ではないことを改めて感じ、主人からの質問は少し困った。
「そうか…2か月前は百合の命日だったから、その時はこっちに帰ってきてたっていう話は聞いたんだけど。元気がないのは気になるね、昔は活発な子だったから」
重たい空気を纏っている白川さんの活発な少年時代を想像することは難しかったが、百合さんの死が白川さんの心に影響を与えたことは間違いないと思った。
二か月前といえば、ミキが白川に原稿を返そうとアパートを訪れたが数日間不在だった日に重なる。
再会した時、無精髭がさっぱり剃られていたのはおそらく百合の墓参りの為だったのだと気づき、死後何年たっても変わらない百合への思いが感じられた。
「白川さん、小説を書いています」
間がもたなくなってきたので、なにか話題を見つけたくて切り出した一言だったが、主人の顔つきが変わった。
「静君が小説を…?」
そうか、そうか、とうなずきながら、主人の目からは涙がこぼれだした。
「ごめんなさい、私なにかいけないこと言いましたか」
「いや、いいんだ、驚かせてしまったね。静君は百合が入院するようになってから、病室で百合のために小説を書いてくれていたみたいなんだよ。病気になって病室の外には出られなくなったから、静君のつくる物語が外の世界を見せてくれるんだって百合が僕に言ってたよ」
主人は微笑みながら涙をぬぐった。
「うれしそうだったな」
ミキは貸し切り状態の露天風呂に身を沈めながら、主人の話を思い出していた。
そして確信した。
白川が書きかけている題名のない恋物語は、亡き百合に捧げるものであると。
ミキは温かいお湯に包まれ目を閉じると、日が差し込むあの居間で白川少年と百合が肩を並べている情景が浮かんだ。
百合の白くて細い指が、心地よい音を立てて本のページをめくり、薔薇色の頬には長い睫毛の影が落ちている。
小説を読んでいるふりをして時々横目で百合を見る白川は、一体どちらに夢中なのだろう。
季節はきっと夏の初めだ。
丁寧に手入れされた庭は緑に燃え、石は光を集めて光輝いている。
白いセーラー服と彼女の黒い髪の眩しいコントラストが白川少年の幼い目には刺激的で、ちかちかと痛いほどだ。
開け放たれた居間に時折流れてくる爽やかな風が少女の髪を揺らし、垂れた髪を小さな耳にかける仕草は流れるようである。
百合はすっかり汗をかいたグラスに手を伸ばし、ぬるくなった麦茶が桃色の唇に吸い込まれ白い喉が動く様を、白川はそっと見つめている。
少年の視線に気づいた少女は、大きな瞳で見つめ返す。
「どうしたの?静」
―やめて!
ぱっと目を開いた。
どっ、どっ、とお湯の中で心臓が脈打ち、自分が呼吸を忘れていたことに気づく。
やめて、その名前を呼ばないで…。
この胸の苦しさは、白川への抑えられない気持ちが心臓を突き破って外へ出てこようとしているのを必死で食い止めているからだ。
この気持ちは白川のもとには届かないことは、今日はっきりわかった。
白川の気持ちは百合だけのためにある。
昔も、今も、そしてこれからも…
では、この気持ちは無駄なのか、生まれたことに意味を見出さないままミキの胸の中で死んでいくのか。
ミキが夜空を見上げると、びっくりするくらいたくさんの星が頭上に広がっていた。
あの中に百合はいるのだ。
あの中の一つに白川の思いを届けるのは大変だな、とミキは思った。
「えっ、もうお帰りになるんですか」
部屋を来た時のようにきれいにしたあと、ミキはキャリーケースを引いてフロントに来た。
「はい、ほんとは夕方帰る予定だったんですけど、やることができたので」
「そうですか、またお越しくださいませ。久しぶりに娘の話ができてよかったです。静君にもよろしく伝えておいてくださいね。また顔見せに来いよって」
キャリーケースを玄関まで運んでくれて、主人はミキの瞳を覗きこんだ。
「すっきりした顔になったね、またおいで」
「はい」
優しくミキの肩をたたいてくれた主人の横には、いつのまにかおかみさんがいた。
百合と同じ白い肌と大きな瞳をもつ女性だった。
「お世話になりました」
「静君には、あなたのせいじゃないって伝えてください」
「えっ」
「またいらしてください」
ミキの聞き返しには答えず、夫婦はそろってお辞儀をした。
ミキもつられてお辞儀をし、背中を押されるように駅まで歩きだした。
花田屋に来る前よりしっかりと石畳を踏みしめ、足取りは軽い。
小路も出口に差し掛かったころ、ふと振り返ってみると、もう二人は仕事に戻って見えなくなっていたが、青空を写し取ったような暖簾がかすかに揺れているのが見えた。
アパートにかえって、何回読み返したかわからない原稿を取り出し、インスタントコーヒーを啜る。
──本当の白百合の君は白河さんじゃなくて、あの写真の女の子だったのか。
ミキが初めて原稿を読んだ時、頭に「白百合の君」というイメージが浮かんだことも、主人公の恋人の名前が「百合」だったからだ。
百合が亡くなったのは、彼女が高校生の時で白河の小説の登場人物も高校生の男女だった。
白河の小説に登場する彼らは、きっと白河少年と百合さんだ。
主人公の少年は彼女にオーロラを見せることができたが、その後が描かれていない。
きっと、イメージができなかったんだろう。
もう助かる見込みのないと宣告された彼女がどのように生きていくのか…
本当に二人はオーロラを見に行ったとは考えられないが、白河は物語の中だけでも百合に夢をみせてあげたかったのだ。
宿を出る時、おかみさんに言われた一言も引っかかっていた。
「あなたのせいじゃない」とはどういう意味なのか。
百合は病気で亡くなったわけで、白河のせいで命を落としたとは結び付けられない。
まるで白河が百合を殺したみたいな言い方だ。
インスタントコーヒーはすっかりぬるくなり、それを一気に飲み干すと頭の中がクリアになった。
反動をつけて、椅子から立ち上がると原稿をいつものトートバッグに入れて部屋から出た。
白っぽい空が目の前に広がっている。
伊豆の空とは比べ物にならないなと思ったが、どこにいようが空は一続きだったと気がついた。
白百合の君 霧島ジュン @orangepeco74
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。白百合の君の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます