第6話 二人の白百合
大人になってから見る海は、小学生の時家族と見た海とは全く違ったものに感じられた。
テトラポットに腰かけ、オレンジに染まっていく海を眺めていたら、濡れた足はすっかり乾き、傷口もかさぶたになりつつあった。
花田屋に戻る頃には18時を過ぎていたが、夕食には間に合った。
暖簾をくぐるとふんわりと温かい匂いが漂ってきて、初めて来る場所なのに実家のような安心感を感じた。
「おかえりなさいませ」
受付からひょっこりと主人が顔を出す。
「お食事の準備できておりますよ」
主人についてこじんまりとした居間に通された。
藍色に染まった海が一望できる見晴らしの良い部屋で、ミキの他に3組の宿泊客が食事をとっていた。
明日もし晴れたら海から昇る朝日が美しいだろう。
ミキは星がちらつき始めた夜の海に朝日を想像して、思わず目を細めた。
肩にかけていたバッグをおろし、座布団の上に座ったが、畳の上で食事をする習慣が無いので、しっくりと正座ができず、足をもぞもぞさせた。
卓袱台の上には小鉢が行儀良く並んでおり、旬の山菜や魚が繊細に盛り付けてある。
私の街で食べる白米はこんなにきらきらしていただろうか。
ミキが物珍しそうに料理を眺めていると、なにやら視線を感じて、あたりを見回した。
斜め前の卓袱台に座っている幼稚園くらいの女の子と目が合った。
女の子の横には父親が刺身をつついており、女の子の前では母親がせわしなく赤ん坊に離乳食を食べさせている。
女の子はウサギのイラストが載った紙エプロンをつけ、右手に割りばしを握りしめてじっとしたままこちらを見つめている。
父親も母親もそれぞれが他のことに気をとられているようだ。
ミキも不安になった。
ここで目をそらしたら女の子はひとりぼっちになってしまいそうで、心配だった。
「あぁ、カナちゃん、こういう場所ではきれいに食べなきゃいけないよ」
父親が女の子の覚えたての箸使いのせいでぐちゃぐちゃになったお子様ランチをみて顔をしかめた。
「カナちゃん、お母さんの茶わん蒸し食べなさいね」
母親が赤ん坊のスプーンを置いて、熱々の茶碗蒸しを冷ますために蓋を開けた。
女の子はもうミキの方を向くことはなく、父親に紙ナプキンで口の周りをふかれながら無邪気な笑顔を見せている。
ミキはそんな家族の光景が微笑ましくもあったし、寂しくもあった。
卓袱台に置かれた一人分の食事に箸をつけ始めると、幼い頃祖母の家で、親戚一同食卓を囲んだ遠い昔のことを思い出された。
この民宿ほど大きな居間ではなかったが、いつも笑い声にあふれててあたたかかった。
改めて周りを見回すと、いくつか写真が飾られていることに気が付いた。
飾り棚の上には、今より若い主人と奥さんと思われる女性、ピンク色のワンピースを着て微笑んでいる高校生くらいの女の子の三人が写っている。
この居間から見える海をバックに、仲のよさそうな幸せな家族の肖像が白い写真立てにおさめられていた。
「お茶のおかわりいかがですか。」
大きな急須を持って卓袱台の横に膝をつき、主人は深い皺の刻まれた顔に穏やかな笑顔を浮かべている。
「お願いします。」
ミキはちょうど空になったばかりの急須を傾けた。
「お料理、美味しいです。昔祖母が作ってくれた煮物の味を思い出しました。」
「それは良かった。うちの畑で採れた野菜で家内が調理しているんです。」
湯飲みを伝わって、黄金色のお茶の温かさを心地よく感じる。
「あの写真の女の子は娘さんですか。」
主人は首を巡らし、写真をちらりと見ると、困ったように笑った。
「えぇ、娘です。あの子が高校生の時に病で死にました。」
ミキは心臓をきゅっと掴まれたような気がして、言葉に詰まった。
「…そうだったんですか、ごめんなさい、私…」
「あぁ、いいんですよ。もうずいぶんと昔のことです」
主人はまったく気にしていないという様子で手を顔の前で振った。
「そうですね…本が好きで物静かな子でした。」
主人は静かな声で、嬉しそうにも見えるまなざしで写真を見つめている。
「私も本は好きです。」
「百合も生きていればあなたと同じくらいの年なんです。本の話で仲良くなれたかもしれませんね。」
そういって微笑む主人の目尻には涙が光って見えたので、ミキは話題を変えようと、居間の中を見回し、もう一枚の写真に気が付いた。
桜吹雪の中、お下げ髪にしたセーラー服の娘さんと学ランを着た背の高い男の子が、高校の正門前で並んで写っている。
にっこりピースサインの娘さんと、頬を赤くしてなんとなく居心地悪そうにカメラから目線を外す男の子…
―あれ?…私はこの男の子を知っている。
「あ、あの…あっちの写真に写っている男の子は…」
「うん…?あぁ、あの子は百合の幼馴染さ。」
最後の食事客が居間を出て行った。
「静君っていうんだ。…彼、元気にしているかな。」
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