第5話 花田屋

 喫茶店で白川と別れた後、ミキは何回か図書館で白川の姿を見たが、声をかけようとしてもあの時の冷たい瞳を思い出してしまい、足がすくんでしまう。

 なんて声をかけていいかもわからないまま、時間だけがすぎていく。

 わからないことだらけで困り果ててしまった。

 なぜ小説の続きを書きたくないのか、ということももやもやと心に引っかかっているのだが、自分がどうしたいかということもわからなくなってしまっている。

 最初はただの読書好きとして、作品の続きを純粋に楽しみにしているという理由で白川に接触したのだが、今は違う気がする。

 図書館の隅にある古い椅子に座り、ひたすらに文字を追う白川の姿を見つけると、自分の存在がばれないように息を殺し、そっと書架の間に身を隠す。

 胸が苦しいのは呼吸を抑えているせいか、彼の視線に刺された傷が疼くせいか。

 憧れの君とまた話したい、でも少し怖い、一目見たい、胸が苦しいから会いたくない。

 相反する感情がミキの中でせめぎあい、混ざり合い、分離しては沈んでいった。

 気がつかないうちに頬が濡れていた。

 本を探しにきた中学生くらいの女の子と目が合い、ぎょっとした顔をされた。

 にこ、と微笑んでみると女の子は怖いものを見たかのようにさっと立ち去った。

 女の子が白川の横を急ぎ足で通り過ぎ、白川の長い前髪が風で少し動いたが、白川は全く気にせず本から目を離さなかった。

 ミキは、白川が顔を上げてミキの存在に気づくのではないかと少し期待していた。


 集中して本が読めるような状態じゃないので、図書館から出てあたりを散歩することにした。

 図書館のどこにいても白川の気配が気になってしまって耐えられない。

 空は最近ずっとぐずついた天気で、すっきりしない。

 スニーカーの底が湿ったアスファルトにべたべたとへばりつくようで気持ちが悪い。

 カラリと晴れたところに行きたい。

 この灰色一色の街から逃げ出して、青と緑の風景を裸足で歩きたい。

 雨とじめじめした湿気を含んだ髪を、海風で軽くしたい。

 本で読んだことがある、逃避行にうってつけの場所をミキは知っていた。


 川端康成も旅した秋の伊豆を、ミキも一度訪れてみたいと思っていた。

 会社の有休を使い、電車に乗り、観光客で賑わう伊豆の地に降り立つと、爽やかな青空がミキを歓迎してくれた。

 カラリとした秋晴れで、ミキは深呼吸した。

 肺一杯に空気が入り、身体までふわりと浮いてしまいそうだ。

 今回の旅行はあまりにも急だったが、行動せずにはいられなかった。

 旅行なんて久しぶりで、長年しまいっぱなしだったキャリーケースのキャスターも嬉しそうに小気味良い音を響かせる。

 ──さぁ、どこへ行こうか。

 駅でもらった観光マップに目を落とすと、昨日電話予約した温泉宿が案外近いということがわかったので、散歩は荷物を預けてから出掛けることにした。

 駅を離れ、地図を頼りに少し歩くと、駅前の賑わいを忘れてしまうほど静かな小路に導かれた。

 白っぽい石畳にキャスターを取られながら、古い町並みの中をゆっくりと歩いた。

 アスファルトの上で育ったミキは、石畳を踏む度に、別世界に迷い込んでしまったような胸の高鳴りと期待感、このまま帰ってこれられなくなってしまいそうな少しの不安を感じるのだった。

 ちょっと顔を上げると、行儀よく並んだ屋根に切り取られ、ぽっかりと青空が見える。

 白と灰色と黒の額縁の中に鮮烈な青が目立って眩しかった。

 空に目が奪われて、ミキは時々石畳に足を取られかけたが構わず、夢遊病患者のようにふらふらと危なっかしく青に引き寄せられていく。

 歩を進めるうちに青空は屋根に隠れたり、屋根から現れたりしてミキを翻弄した。

 現れたと思ったら消える、現れて、消える…

 ぱっ、とまた青空が現れたと思ったら、白抜きで「花田屋」と書かれた暖簾であったことに気がつくのには時間がかかった。

 ミキは足を止めて、ぼんやりと地図を見た。

 青空小路の突き当たり、予約していた宿「花田屋」だ。

 ふわっ、と小路に風が吹き込み天色の暖簾を揺らした。

 どっしりとした佇まいは長い歴史を感じる。

 ここで長い間多くの旅人を迎え入れてきたのだろう。

 少しだけ見える苔蒸した庭からは、微かに軽やかな水音が聞こえ、浮き立ったミキの心をしんと落ち着かせた。

「いらっしゃいませ」

 ぱっと振り向くと、暖簾より少し濃ゆい群青色の法被を着た老人が立っていた。

「予約していた香川です」

 不思議な小路に夢中になっていて老人の存在に全く気付かず、ミキは声が裏返りそうになった。

「ようこそいらっしゃいました。さぁ、中へどうぞ」

 老人がにっこり笑い、天色の暖簾を捲ってミキを促した。

「お荷物お持ちしましょう」

 主人は法被の袖から意外にも筋肉質な腕を覗かせ、キャリーケースを引いた。

 ミキも主人について暖簾を潜ると、自然の光が差し込む長い廊下が目に入った。

 ──静かだ

 廊下は掃除が行き届いていてつやつやと飴色である。

 つやつやの廊下が奥まで一直線に伸びている。

 どこまで続いているんだろう、と思わず身を乗り出してしまったが、吸い込まれてしまいそうで怖くもあった。

「どうかなされましたか」

 主人が帳簿を書き終わって戻ってきた。

「いいえ、なんでもありません」

「そうですか、お部屋まで案内しましょう」

 老人の足が廊下に写り、その上を滑るように歩き始めた。

 ミキも靴を脱ぎ、老人に続く。

 木の香りがミキを包み、廊下の軋みさえも心地良い。

 薄暗い廊下を進むと中庭が見えた。

 先程聞こえた水音はここからしていたらしい。

 スポットライトが当たっているかのようにぼんやりと緑の庭が浮かび上がり、苔や草に付いた水滴がきらきらと光っていた。

「このお部屋でございます」

 ミキが通されたのは廊下の突き当たり、奥の庭に面した部屋だった。

 襖を開けた瞬間、畳の香りが木の香りに混ざり、初めて来る場所なのにほっと心が落ち着く。

 こぢんまりとした部屋だが、掃除が行き届いており、掛け軸や生け花は秋を感じさせる。

 きちんと手入れされた庭は中庭とは違ってさっぱりとしたものだが、庭の向こうに僅かに見える海と上手く調和していた。

 丸窓からはほんのり色づいた紅葉が見え、まるで一枚の絵のようである。

「海が見えるんですね」

 ミキは窓に駆け寄った。

「ええ、この部屋からは一番綺麗に見えます」

 最後に海を見たのはいつだっただろう。

 ミキはうずうずと身体が動きだすのを感じた。

「すみません、荷物だけ置いてしばらく散策してきたいのですが」

「もちろん構いませんよ。ごゆっくりなさってきてください」

 物腰の柔らかな主人だ。

 ミキはキャリーケースを部屋の隅に寄せると、主人と共に部屋を出た。

 主人に海への行き方を教わると、早速足は海へと向けられた。

 宿を出て振り返ると、主人がまだミキのことを見送っていた。

 青空小路を出て、少し歩くと長い下り坂が眼前に現れた。

 その先には部屋から見えた青い海。

 空よりも少し濃ゆい色で果てしなく広がっている。

 宿の暖簾と主人の法被が重なった。

 しばらく坂の上で海を眺めていたが、砂浜を裸足で歩いてみたかったことを思い出して、子どものように足を絡ませながら坂を下った。

 早く、早く動け私の足。

 だんだん潮の香りが強くなってきて、嬉しくなった。

 コンクリートの最後で、ミキはスニーカーと靴下を脱いだ。

 一歩、真っ白な砂浜の上に足を乗せるとくすぐったいような砂粒の感覚。

 秋の海に素足は寒いが、ミキは全く気にならず、足の裏に感じる砂の感触を楽しんだ。

 ジーンズの裾を折り上げると、さくさくと砂をはね上げ、海へと駆け出した。

 走っても走っても追いつけない、距離が縮まっていないような不思議な感じがした。

 濡れていない砂はミキの足を飲み込み、蟻地獄に引きずり込もうとしているようだったが、必死に振りほどき、ミキは海を目指し続けた。

 わぁあ、と腹から声が出た。

 あと少し、あと少し…!

 波に濡れて砂が固まっている部分まで来た。

 その途端、ざばぁと音を立てて波が押し寄せ、ミキの足首まで濡らした。

 あまりの冷たさに跳ね退きたくなったが、奥歯を噛み締めその場に耐えた。

 全力で走ったため息が上がり、全力で大声を上げたため喉が痛むが、清々しい気分で胸が一杯だった。

 海に足を浸したまま、呆然と波の音を聞いていた。

 砂に混じっていたガラスで足の裏を傷付けてしまっていたことにも気がつかなかった。

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