第4話 白百合の正体 pert3

 小雨はすっかり止んで、あたりは濡れたアスファルトの匂いに包まれている。

 白川とミキは図書館の近くにある喫茶店へ入った。

 道中、白川は特に言葉を発することはなく、前をぼんやり見つめて歩いた。

 ──無口なひとだなぁ。

 白川の横顔をそっと盗み見て、ミキは思った。


 からんころん、ミキはお昼を食べによくこの喫茶店に来る。

 足を一歩踏み入れると、店の壁に長年染み付いた珈琲の深い香りに包まれる。

 ここだけ外界とは違う空気が漂っているようだ。

 ドアを境に世間とは切り離される感覚は、ドアベルの軽やかな合図ではじまる。

 テーブルの上に吊るされたオレンジ色の柔らかい光がぽつり、ぽつり、と薄暗い店内に浮かんでいる。

 壁一面の本棚には、マスターが若い頃から集めているという本がぎっしりとつまっている。

 図書館で静かに本を読むのも良いが、ここで珈琲の香りの本をめくるのもミキは好きだ。

「いらっしゃいませ」

 物静かだが人懐こい笑顔を浮かべたマスターが店の奥から顔を出す。

「珈琲とサンドイッチのセットを二つ」

 ちょうど12時なのでお昼を食べようということになっていた。

 ミキと白川は窓際のテーブルに向かい合って座った。

 白川の顔は、オレンジ色の照明に照らされ、先程より幾分か血の気を感じる。

 席について一息ついたというのに、白川はテーブルの木目を見つめ、沈黙を続けていた。

「…白川さんって小説家なんですか」

 先に沈黙を破ったのはミキだった。

 務めて明るい口調で尋ねてみる。

「昔目指してたというだけです。」

 ミキの努力に反して、白川はぼそりと答えた。

 しかし、何かを言いたそうにしている、ということはわかる。

 ミキは、白川が話してくれるまでゆっくり待とうと思った。

 ことり、珈琲とサンドイッチが運ばれてきた。

 ゆらゆらとのぼる蒸気が白川の顔をつつみ、彼の目が潤んでいるように見える。

「やっぱり捨ててなかったんですね、茶封筒」

「捨てられませんよ、あんなにいい作品だったのにどうして…」

 言いかけてミキははっとした。しまった。

「読んだんですね。」

「ご、ごめんなさい!だって大切なものかもしれないですし、気になってしまって…勝手に作品読んでしまったことは謝ります。ごめんなさい…」

 勢いが尻すぼみになりながらもミキは慌てて謝り、しゅんと俯いた。

 中身を本人の許可なく勝手に覗いてしまって、白川は呆れているだろうか。ミキはどうすればいいか考えようとした。

 白川はミキの様子を見て、ふっと溜息をつき、珈琲を一口すすった。

「顔を上げてください、別に怒ってないですから」

 思わずぱっと顔を上げると、白川は先程より警戒心の解けた顔つきで困ったように笑った。

 ──あっ、笑った顔初めて見た

 苦笑いだけれど。ミキは少し安心した。

「怒ったわけじゃなく、恥ずかしいというか、照れくさかっただけですよ」

 白川は鼻の下を擦り、また珈琲をすする。

 その仕草がなんとなく子供っぽくて、白川が白百合の君という理想の存在から良い意味で離れてきた。

「恥ずかしがることないですよ、私はすごく良いと思いました。情景の描写がすごくお上手なんですね。まるで自分が本当にその場面にいるような気にさせてくれました。」

「そんなにしっかり読まれているとは、ありがとうございます。うれしいですけど…恥ずかしい」

 そわそわと居心地悪そうにしている白川を見て、ミキはくすっと笑った。

 最初は無愛想でちょっと怖そうな人だと思ってたけど、本当は照れ屋な一面があると知って、ミキは白川に親しみを感じた。

 凡人とは離れた感性と文章力をもつ天才小説家、白百合の君は、無口で照れ屋で不思議な瞳をもつ普通の男性である。

「最初の主人公の独白は遠藤周作の言葉を少し変えて引用してますよね」

「あっ、そうなんです。よく気づきましたね。俺、遠藤周作好きで…というか本が好きで」

「やっぱり!私も読書好きなんです!休みの日は今日みたいに図書館にこもって本ばっかり読んで、気がついたら一日が終わってる!みたいなかんじなんですよね」

 読書好きな人とあまり話す機会がなくて、ミキはつい興奮してしまった。

 嬉しそうに前のめりになって話すミキに、白川はうん、うんと頷きながら丁寧に向き合った。

 白川の瞳は深い珈琲色で、綺麗…話ながらミキは白川の瞳に自分が映っていることに感動した。

 ミキの話を聞いて、白川は落ち着いた声で自分の意見を言ったり、ミキに上手く質問したりした。

 時々、くっくっと笑ってくれる。

 こんなに楽しい時間は初めてかもしれない、ミキは思った。

 なんて幸せなことだろうか、大好きな本と珈琲の良い香りに包まれて、大好きな人と話している…

 ──…大好きな人?

 ぱっと夢から醒めて、現実に引き戻された。

 窓の外に目をやる。窓際には夕闇が迫り、それに追い立てられるように家路につく人々の頭が見えた。

「嘘…もうこんな時間!ごめんなさい!遅くまで付き合わせてしまって…!お詫びにお代は私が払います」

「いや、いいですよ。俺も楽しかったですし。こんな素敵な喫茶店を紹介してくれたお礼に俺が払います」

 白川は、慌てて財布を取り出し、立ち上がろうとするミキを落ち着かせようとした。

 しばらくこんなやり取りが続き、白川の巧みな誘導によって、ミキは財布をトートバッグに仕舞われてしまった。

「本当にありがとうございます…!ご馳走様です。すみません」

「どういたしまして。すみませんはナシですよって」

 すごすごと白川の背中について、ミキは喫茶店を出た。

 ひんやりとした秋の夜の空気が、ミキを現実の世界に引き戻した。夢の時間はもうお終い…ミキは落ち着かない気持ちになった。

「はい、傘、忘れないでくださいね」

「白川さん、原稿なんですけど、最後まで書かれますよね?私最後がどうなるのかすっごく気になるんですよ」

 ミキはもうすっかり打ち解けた気持ちで明るく白川を見上げた。

「白川さん…?」

 ミキは、あれ?と思った。

 白川は珈琲色の瞳を伏せて、黙って差し出された茶封筒を受け取った。さっきまでの穏やかな雰囲気はなく、ピリピリとした異様な気配を醸し出していた。

 表情は消え、冷たささえ感じた。

「しら、白川さん、どうなさって…」

「すみません、続きは書きません、この物語はここで終わりなんです」

 淡々と呟き、白川はミキに背を向けた。

「封筒、届けてくださってありがとうございました」

 白川は最後に振り返って、ちょっと微笑んで人混みに消えていってしまった。

 ミキは、白川の背中を呆然と見送るしかなかった。

 なんだろう、あの表情…仲良くなれたと思ったのに少し怖かった。

 まだ心臓がどきどきして、秋だというのに冷や汗をかいている。

 最後に「今度いつ会えますか?」って聞こうと思っていたのに、そんな隙さえ与えられなかった。





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