第3話 白百合の正体 part2
月曜日、午後七時。
会社帰りに白川の家へ向かう。
今日は仕事中もなんだか上の空で、集中出来なかった。何て言って渡そうか、道中何度もシュミレーションする。
そういえば、似た感覚を学生時代に体験したような気がする。
友達に押され、バレンタインデーに憧れの先輩を呼び出した時のような、あの感覚。
直前に急に自信が無くなって、逃げ出したいけど後には引けなくて、呼び出したことを少し後悔してしまう。
結局、黙ってチョコレートを押し付けることになってしまって、先輩に困った顔をさせてしまった。
大人になっても変わらない自分が情けなくて恥ずかしい。
胸のあたりのもやもやを吐き出すつもりで、深呼吸した。
白川の部屋へ続く幅の狭い階段を一歩一歩慎重にあがる。
少しでも気を抜くと、転げ落ちてしまいそうだ。
錆びた鉄筋はミキのヒールに不快な金属音をたて、余計にミキをどきどきさせた。
部屋に明かりはついていなかった。
呼び鈴を鳴らしても、この日は彼が顔を出すことは無かった。
渡さないままだと気分がすっきりしないような気がして、次の日も思い切って立ち寄った。
やはり白川は不在で、部屋は何年も人が住んでいないかのように静かだった。
鉄の扉もかたく閉ざされており、一昨日開いたということが信じられないくらいだ。
電球が切れかけの街灯が照らす細い道を、とぼとぼと歩いて自分の部屋に帰る。
なんだか夢をみていたみたいだ。
原稿だけ残して、白百合の君はミキの前から消えてしまった。
次の日曜日、いつものように図書館に向かった。
少し小雨が降っているため、ビニール傘をさして家を出る。
トートバッグの中は、読みかけの文庫本、スマートフォン、財布、ハンカチ…茶封筒。
原稿は荷物になるのに、未だにカバンから出すことはできない。
白川の哀しそうな目を思い出してしまった。
──もう会えないの?
雫が一つ、ミキのスニーカーに落ちた。
図書館に到着し、傘の水気を払い、濡れた頬を拭った。
午前中だからか、図書館に人は少なかった。
カウンターで顔なじみの司書に会釈して、書架の間を縫う。
ミキの指定席、日本近代文学の書架の横の椅子。
きし、とスプリングに身体を沈める。
トートバッグを広げ、読みかけの文庫本を取り出した。
長い間たくさんの人に読まれて、少し色の変わったページをめくりながら、図書館の匂いと雨の音を心地よく感じた。
読み終わったときには、時計は12時をさそうとしていた。
次は何を読もうか…谷崎がいいな。
「た」ではじまる作家の書架は隣だ。
腰を上げた時、いつ来たのか図書館の隅の椅子に誰か座っていた。
──白百合の君だ。
間違いなく彼だ。心臓がどきどきした。
聞きたいこと、言いたいことがたくさんある。
どうして家に帰っていなかったのか、どうして物語を手放したのか、小説の続きはどうなるのか…あなたは何者なのか。
ミキは上昇する心拍数と止まっていた呼吸を整えるため、一度ゆっくり元の椅子に座った。
雨が屋根を叩く音と同時に、木の葉に当たる音もする。
大きな古い掛け時計が、かち、かち、と時を刻んでいる。
今まで気に留めていなかった小さな音たちに耳を澄ましていると、だんだん落ち着いてきた。
…覗いてるって思われたら嫌だな、気づかれないように「た」の書架の裏へ回る。
白川は、パーカーにジーンズという格好で、やはり頭はボサボサ黒縁メガネをかけて、足を組んで椅子にもたれていた。
髭だけはそってあった。
本に夢中でこちらの様子は気づいていないようだ。
改めて観察すると、本をめくる指先や伸び放題の髪がかかる横顔は、薄暗い館内に浮かび上がっているように白い。
まるで雨に濡れて咲く、一輪の百合のは…
ぼーん、ぼーん、ぼーん
時計が12時を指した。
突然の音にびっくりして、ミキは我に帰った。
ぱっとトートバッグをとり、中の茶封筒を取り出した。
今こそこれを返す時ではないか、今を逃せばもう会えないかもしれない、勇気を出せ。
書架のかげから一歩踏み出し、彼に近づいた。
「あの…」
白川は驚いた顔をぱっとあげた。
「急に声かけてごめんなさい。あの、やっぱりこれ…」
なんて言っていいか分からず、もごもごいいながら差し出すという、バレンタインの時と同じになってしまって、情けなく感じた。
白川は戸惑ったように茶封筒とミキの顔を交互に見た。
「すみません、ここじゃあれですし外にお茶でもどうですか。」
白川は読んでいたハードカバーの本をそっと閉じ、立ち上がった。
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