第2章_第25話_お前が誰でも
気がつくと、出流が顔を覗き込んできていた。遠ざかっていた風景が一斉に呼び戻される。
「新哉」
新哉? 新哉って……誰だ。茜はぼんやりと頭を振る。違う。俺は茜。今は男で、黒百合隊で、大量処理班の班長をやってる。何度も胸の内でつぶやくうち、足場が固まった感覚がした。
「なんだい、旦那」
「どうしたのさ、急にぼーっとしちゃって」
「あ! もしかして兄貴、透姉ちゃんの事知ってる? そうなんだろ? なあなあ」
今度は茜が実に揺さぶられる番だった。意外と力が強い。さして身長差のない茜は、特に踏ん張りもしなかったのでゆうらりゆらりと揺れる羽目になった。
「違う、違うって……俺は何も知らない」
「そうだよ」意外にも出流が助け舟を出した。「この人は新哉。他に名前があっても透じゃないよ」
その言葉は、実の質問からずれている。茜は一瞬肝が冷えた。
「だって男だもん」
安堵。実際は女であることが、ばれたわけではなかった。胸をなでおろす茜を、猫の面がじっと見つめていた。
「えー。やっぱり知らないかあ」
残念そうに頭の後ろで腕を組む実に、出流が不思議そうに「そもそも、なんでそんな前から生死不明のお姉さんを今更探してるの?」と聞いた。すると実は、大きな瞳をくるんと煌めかせ、「会いたいんだ」と強く、強く言った。
「俺、透姉ちゃんの事知らなかったんだ。つい最近まで、一人っ子だと思ってたんだよ。母ちゃんが教えてくれたんだ。本当は、お前にはきょうだいがいたんだよって。それを聞いて俺、透姉ちゃんに会いたいと思った。会って、母ちゃんに会わせたいって。もう、長くないんだ。病弱で……」
母。茜は首を振る。そんなものは自分に存在しない。会ったこともないひとを母だと思えだなんてとても出来ないし、会えない。
「ふーん。でもそれって勝手じゃない? 育てられないって捨てておいて、今度は死にそうだから会ってくださいなんて」
そう言われた実は浅黒い肌を真っ赤に染めた。そのまま叫ぶ。
「母ちゃんはほんとは透姉ちゃんを捨てたくなんてなかったんだ! 父ちゃんも」
ああ、知っている。食料と金貨のそばでお包みに包まれて泣いていた自分。生き延びろと、痛いほどの願いに包まれていた自分。茜は思う。——今なのか。閉じた箱と、なかったことにしてきたあれこれと、見えなく『した』過去と向き合う時。
「お前ら! 手を上げろ!」
……どうやらじっくり感傷に浸らせてはくれないようだった。茜は素早く実を後ろに庇う。低い声で「出て来るなよ」と言い聞かせた。向かってきていたのは下着のみを身に纏った男六名だった。大方賭けにでも負けたのだろう。木材や鉄棒を手に持っている。
「今持ってる財産全て出せ」
全く、どうしてこれで勝てると思うのか。と思ったが、自分は身長が百五十にも満たず、実は十歳かそこら。出流も小柄でいかにも弱そうである。なるほど、いい鴨だ。
「犬は?」
短く問えば、指笛が返ってくる。二頭の犬が雑踏を縫い走り寄ってきた。男共は少し怯む。茜もケープから拳銃を取り出す、と同時に発砲した。銃口から飛び出した弾丸は、狙い違わず一人の右手に当たり、彼は鉄棒を取り落とした。
「いてええええええええっ」
しゃがみこみながら、なおも鉄棒を手に取ろうとする男。茜は無情に鉄棒を撃ち弾き飛ばす。さらに尻込みする空気になった一同を見渡し、茜は微笑む。もっとも、口元はガスマスクで見えないが。
「射撃の腕なら、俺は五木龍巳にも勝つぜ」
それがハッタリでないことは、先ほど見せた一幕だけで十分わかるだろう。さてこれで退いてくれるかと、茜は密かに期待したが、現実はそうはいかなかった。
「う……うおおおおおお」
気合いを上げて飛びかかってくる男。茜は素早く再装填し、狙いを膝に定めようと、した。
舞い踊る白。どうと倒れる男共。数瞬にも満たない間に全ての人間が倒れた。
「雪白…………」
思わず黒百合隊としての名を呼ぶ。彼がそこにいた。
「サトウ!」
彩は、自分から男性に声をかけるのが苦手だった。男はみんな、自分を値踏みするような目で見るから。だけど、二度自分に水を引っ掛けたあの青年とは、もっと話して見たいような気がした。だから、往来を通りがかった青年に思わず声をかけてしまったのだ。おそらく声は震えていたが、彼は振り返ってくれた。
「どうしました」
「シンヤと一緒じゃないの? あ、シンヤはさっき立ち寄ってくれたんだけど……」
「知っています」
すぱんすぱんと、青年の返事は短い。何か不快にさせているのかと彩は冷や汗をかいた。心地よい悩みだった。普段こんな風に接し方に悩むことなどない。思えば彩はいつも自分を守ることで精一杯で、誰かのことを考えるということがなかったな、と思った。
「もしかして急いでる? それなら、引き止めちゃってごめんなさい」
「いえ。……あの猫は知り合いですか」
「あの猫? ああ、イヅルか……知り合いっていうか、なんて、いうか。なんなんだろう。最初大喧嘩っていうかね、やりあっちゃって……それから常連さんになってくれたの」
青年の首が傾げられた。彩も我ながら要領を得ない説明だと思う。しかし、それ以外に言いようがないのだ。
「多分、サトウと似ている人だよ」
彼はそして、彩とも似ている人なのだ。だから衒いなく話すことができる。
「誰かに、傷つけられた人」
サトウが目を見開く。それを視界に、でも、と彩は続ける。
「二人共強いね。それを乗り越えてる。乗り越えて今を生きてる。……私は負けっぱなし」
サトウは彩の肩が落ちていくのを黙って見ていた。そして、露店の絵を手に取る。真っ青な空に白い鳩が飛んでいる絵だった。
「この絵は、負けているのですか」
彩ははっと顔を上げる。負けていないと声を大にして言いたかった。あのヘドロのような過去を越えた先に今、見えている景色がこれだと胸を張りたかった。
彩の半眼に光が宿ったのを見た雪白は薄く、本当に薄く、口元のみで微笑んだ。
「……ありがとう。サトウがそんなに強いのは、シンヤがいるから?」
そう言われたサトウは今度はわかりやすく顔を顰める。彩はくすくすと笑ってしまった。そして、何度か口を開き、言葉を飲み込む。サトウは待ってくれていた。
知ってしまったことがある。記憶を洗い、出て来たパーツが告げた秘密がある。
(……でもこれは多分、あたしから言うことじゃない)
「サトウ。シンヤを大事に思うなら、守ってあげてね。シンヤ自身からも」
サトウは曖昧に頷いた。当然だ、こんなにもあやふやなアドバイスかもわからないものを真に受ける方がおかしい。
「はあ。ああ、これは買います。いくらですか」
そうして会計を終えた瞬間、ぴくんとサトウの肩が揺れた。顔を上げた彼の目は鋭い。
「用ができました。それではこれで」
言うなり風のように去っていくサトウを見つめていると、彩の唇からは自然と「がんばれ」という囁きがこぼれていくのだった。
あの猫の面が同行したことも、巻き込まれたがりを発揮して面倒なお荷物を背負いこんだことも雪白の耳には聞こえていた。どれも想定外だ。あの班長は想定外ばかり巻き起こしてくれる。そんな目立つ風態をしていたら襲われる可能性があることくらい、自分よりも重々承知だろうに、と雪白は走った。案の定できている人集りを搔きわける。繰り広げられていた光景は想定していたうちの最悪よりかは随分マシだったが、男が木材を振り上げる動作がだめだった。
勿論、茜ならばあんな無法者の六人くらい一瞬のうちに片付けてしまうだろう。射撃では雪白は茜に滅法敵わない。
だが万が一があったら? 甦るのはビルの中、後ろから頭を思い切り殴りつけられる茜の姿。眠り続けた樒。あれが永遠に続いたら?
気付けば雪白は飛び出していた。五人を隠し持っていた刀で峰打ちにする。全員が倒れたのを確認して、茜の方を向いた。
「雪白…………何やってる! よりによってこの時期に配給品以外を使うなんざ……」
「お前が誰でも!」
詰め寄っていた茜は、叩かれたように立ち止まった。雪白が怒鳴るところなど、初めてみたのだ。昼下がりの西日が暗く赤い空を縫って降り注いでいた。雪白の白髪の縁が燃えるように赤く染まる。その色は、いつかの彩の絵で見たような茜色だった。雪白に強く手を引かれ、茜は倒れこむ。雪白のケープからは砂埃の匂いがした。耳元で、低く小さく囁かれる。
「私にとっては茜です」
心が震える。頭から爪先まで電流が走る。茜は無意識に雪白に縋り付いていた。
「それ……それ、意味が分かって言ってるのか?」
「分かっていないかもしれない。けれど、言ったことは本当です」
向き合おう。茜は強く思った。封印してきたものを開こう。例えそれで傷付くのが自分だとしても構いはしない。何故なら、雪白は自分が誰でも今の自分を認めてくれるらしいので。
「えーと、告白現場?」
出流の声で我に帰った。慌てて雪白から身体を離す。
「お熱いのも男色も結構だけどね、警備隊もうすぐ来るよ。その雪白? さんは隠れないとやばいんじゃないの」
「追いかけっこは勘弁したいな……」
出流に茜がそう返すと、どこからかパンパンと柏手が聞こえた。そちらを向くと、背のあまり高くない男が、廃墟の壁に軽く寄りかかって手招きをしている。
「それならこっちおいでー、匿ったげるよ。ついでに酒もご馳走しちゃうぜ」
その男は奇妙な風態をしていた。身体中に包帯を巻いており、着ている明らかに配給品でないコートには必要以上のボタンが引っ付いている。どうするか、と茜が逡巡する間に、出流が「あ、そう? じゃあお願い」と言って廃墟の中に入っていってしまった。ええいままよと茜と雪白も続く。実は帰した。
廃墟はごく普通の民家だった。よく手入れが行き届いており、調度品などが置いてあるところから、茜はこの男が裕福であることを察した。一行はリビングに通される。
男は酒を注ぐと破顔して両腕を広げる。
「さて! ようこそ我が家へ。さっきは俺がぶちのめした六人のとばっちりを受けさせてわるかったね」
「あそこまで搾り取ることはないだろ。あんた鬼か」茜は酒には手をつけなかった。出流はくいっと干して美味いよ、などと言う。
「ノンノン、あんたじゃねーよ。俺はツムギ。紡ぐに生きるで紡生さ」
茜は咳き込みそうになった。ツムギと言えば、先程彩が紹介してくれた男の名である。結局会うことになってしまった。なるほど裕福である。
「一応オレも知り合い。埋葬屋では一番大手なんだよ」
出流が言い、雪白が埋葬屋、と繰り返した。紡生がくすりと笑う。
「お犬くん、まさか死んだ人間はしゅっと黄泉に往くなんて思ってないよな? 屍肉はやがて腐る、そして堪え難い死臭……まあ腐臭だな、それを垂れ流し始める。ぐずぐずの肉は見るに耐えない。それを埋めてやるのが俺らの仕事ってわけ」
「そのまま埋めるのですか」
「まあ同族にはそういう奴もいるね。てかそういうのばっかさ。ところがうちは安心安全! なんときちんと火葬しまーす。死体を見かけたらご贔屓にね」
茜はまずい、と思った。雪白の機嫌が急降下している。表面上は何も変わっていないように思えるがあれは刀を抜きかねない顔だ。ところが紡生は喋り続ける。
「それにしてもお犬くん、君は強いねえ。よかったら俺の用心棒にならない?」
「仕えている主がいますので」
「高い給金出すぜ? 今の環境よりずっといい待遇を約束しよう。ああ、もしかしたらこの姫さんが主かい? 彼も強いし、雇っていいぜ」
雪白がゆらりと立ち上がった。柄に手を伸ばす、刹那、どこからともなく駆け寄って来た少女が雪白と紡生の間に立ちはだかった。紡生は笑って酒を煽っている。
「斬ってもいいぜ?」
「……この、娘は」
「奴隷でしょ。こいつの」
出流が少し赤らんだ顔で言う。茜は歯を軋ませ、低い声を捻り出した。
「奴隷は政府で禁止されてる」
「その刀も禁止されてる。俺がいなくなったら困るから、連中何も出来ないんだぜ。俺は奴隷を堂々と連れて歩いてるけどね」
「あんたは……なんでそんなに力を求める。用心棒に俺たちを雇いたい理由はなんだ」
紡生は密やかに笑った。奴隷の少女の手を取り、抱き寄せる。彼女はなされるがままだ。
「政府を転覆させたい。お仕着せの平等を押し付ける奴らの化けの皮を剥いでやりたいね。自分が得することしか考えてねー連中だってことがわかるだろうよ。所詮この世は弱肉強食だ。その理を思い出させてやるんだ。君らも聞いたろ? 警備隊が最強の傭兵を雇ってた上、配給品以外の武器を市民にぶっ放したって噂。そう言う奴らなんだよ」
そこまで聞いた茜は、酒をぐいと干した。グラスをだんと置く。
「それが仮初めでも、秩序に救われる人間がいるんだ。あんたには賛成出来ない」
紡生は興醒めだと言う顔をして、そう、ならいいよ。と言った。
「迷惑料に一つ情報を上げる。なんでもいいよ、知りたいことある?」
茜は少し悩み、顔を上げた。その唇が一瞬震えた。
「先達という人買いの居場所がわかるか」
「ああ、勿論。教えよう」
「ねえ、それオレも知ってた」
不満気な出流を尻目に、茜は広げられた地図に目を凝らした。
茜に揺れる 一匹羊。 @ippikihitsuji
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