呪錄記(仮題)

第二十七呪 楔

　背後（はいご）からかかる声（こえ）は私（わたし）の耳（みみ）に届（とど）かない。

　私（わたし）に聴（き）こえるのは今（いま）にも張（は）り裂（さ）けそうな胸（むね）の鼓動（こどう）。

　黒煙（こくえん）のように視界（しかい）は潰（つぶ）れていき、あの男（おとこ）の姿（すがた）だけが浮（う）かび上（あ）がる。

　白煙（はくえん）のように感情（かんじょう）は薄（うす）れていき、殺意（さつい）の慟哭（どうこく）だけが心（こころ）を支配（しはい）する。

　脳裏（のうり）を過（よぎ）る朱染（しゅぞめ）の愛（いと）しい人（ひと）。

　思考（しこう）を遮（さえぎ）る黒衣（こくい）の忌々（いまいま）しい男（おとこ）。

　刃（やいば）は私（わたし）の腕（うで）となり、風（かぜ）は私（わたし）の脚（あし）となる。

　刹那（せつな）を抜去（ぬきさ）り、憎悪（ぞうお）を抱（いだ）き、殺意（さつい）の機鋒（きほう）を鋭（するど）くさせる。

　静謐（せいひつ）と喧騒（けんそう）を内包（ないほう）した命（いのち）の匣（はこ）がその色（いろ）に、明眸（めいぼう）すらも染（そ）め上（あ）げる。

　意識（いしき）を刀鋩（とうぼう）に収斂（しゅうれん）しろ。

　終天（しゅうてん）を孕（はら）む瞬刻（しゅんこく）に、九百（くびゃく）九千（くぜん）の死（し）を刻（きざ）め。

　私（わたし）の愛（いと）おしい人（ひと）を苦（くる）しめ続（つづ）ける光（ひかり）を持（も）たぬ赫眼（かくがん）の鴉（からす）。

　その身（み）を斬（き）り刻（きざ）んだ瞬間（しゅんかん）に、命（いのち）の楔（くさび）は穿（うが）たれた。