第二十六呪 楽園へのさえずり
どれくらい走っただろう。
こんなに走ったのは学生の頃以来だ。
着ているシャツが肌に貼り付くほどの、頬や額が痒くなるほどの、僕の肌に染みだす汗が。火照った身体が。一気に冷やされる感覚を味わった。
曲がり角を曲がり、広い空き地が見えた。
そして、空き地に佇む細身で長身の男と、座り込んでいる女性が見えた。
男はカラスを連想させるように黒ずくめの恰好をしていて、女性の方は月明りのように銀色な髪をしていて。
その二人の姿を視た瞬間に僕は、背骨の中身を氷で出来たナイフで撫でられたように感じた。
「……はじめまして。
「久しぶりだね。
これは本能だろうか。10mほどその二人と距離があるが、僕の脚は前へも後ろへも動かない。全身に寒気がはしり、うなじの辺りの髪の毛が逆立つ。
この二人は、何かおかしい雰囲気を出している。
男の方も、女の方も、
僕の眼に汗が入り込んでいるからだろうかそれとも、この二人のノイズが異様なのか。
「怯えてしまっているな、彼は。」
「そりゃあ怯えもするさ、化け物を目の前にしてるんだからな」
僕は走ったせいで乱れていた呼吸を整えながら、精一杯気持ちを落ち着かせて頭を回転させる。
僕は、桜にここへ行くように言われて来たんだ。僕がここに来れば、みんなが死んでしまうという未来を回避できると言われて。
あの男。あの黒ずくめの男。初めて会うけれど。
あいつが、
「化け物呼ばわりは失礼だな。私もお前も変わりないだろう。」
「俺たちとお前は別物だよ、呪いの質が違う」
口の中がすごく乾く。声を出したくても出せない。
脚が震えて、いまにも膝を折ってしまいそうだ。
「……呪錄、よく来てくれたよ。ようやく俺の計画が達成できる」
黒ずくめのカラスが、僕の方へと一歩ずつ近づいてくる。
一歩ずつ、一歩ずつ。僕らの距離が縮まるたびに、心臓がうるさいくらいに跳ねる。
「桜には本当に感謝してるよ……なんだかんだ言いながら、俺のことを拒絶しながらも、やっぱり俺が喜ぶことをしてくれる。長かったなぁ呪錄……紆余曲折を経て、ようやく、ようやくだ」
「……ぁ……う……」
赫遺はポケットから折り畳み式のナイフを取り出して、刃を出す。ナイフを手に持ったまま、赫遺は僕のすぐ目の前まで近づいてきた。
ナイフを持った手を僕の前に出してくる赫遺。だけど、僕に向けられたのはナイフの切っ先じゃなくて、柄の方だった。
「ぇ……?」
「さぁ呪錄。俺を殺してくれ」
優し気な微笑みでそう言う赫遺。僕にはさっぱり意味がわからなかった。
てっきり僕は、僕に何かされるだろうと警戒と緊張、恐怖していた。ナイフを取り出されたときには、よくて脅迫、悪くて有無を言わさず殺されるだろうと思っていた。
赫遺は目を細めて僕の眼を見つめている。その光の無い瞳の奥に、僕は底知れぬ闇を感じた。
「ん? どうしたんだ、はやく殺してくれ」
「な……なに、言ってるん、だよ……」
「説明してる時間が惜しいんだ。はやくしないとまた邪魔されるからな……なに難しい事じゃないさ。このナイフをお前が握って、俺の首でも胸でもいい、刺すだけだ」
「はぁ……!? 意味が、わからないっ……!」
咄嗟に、僕は身を引いた。あまりにも不明瞭な赫遺の行動に、体が反応を示してくれた。それをきっかけに、脚の震えも止まってまともに思考が出来るようになり始める。
喧嘩もまったくしたことがないけど、自然に体が強張っていた。臨戦態勢とでも言えばいいんだろうか。赫遺に対して半身になって、身を守るように腕を身体の前に構える。
丁度僕がそんな、不格好な臨戦態勢を取った瞬間だった。
僕らの元へ走り寄ってきた人影が、赫遺に飛び掛かる。
「っ!」
「な……
赫遺に抱きつくようにして飛び掛かったのは
「呪錄さん! お願い、です……! 逃げてください!」
「なんで哭栖がここに……!?」
「……
赫遺は華奢な哭栖の身体を面倒そうに振り払う。哭栖はそのまま倒れこんでしまい、痛みに小さく呻いた。
「あ、ぐ……ぅ」
「っ、哭栖!!」
「わざわざここまで来たのはいいけどさ、今さら呪錄の仲間面かい?」
「―――ニャァァァッッ!!」
倒れこんだ哭栖の側から、次はハチワレの猫が赫遺に飛びついていった。
瞬発的に飛び掛かった猫が、鋭い爪で赫遺の頬を切りつける。
「ッ……お前もか、
「
「桜からすべて聞いたぞ赫遺!! 吾輩たちは、お前の道具なんかじゃない!!」
全身の毛と尻尾を逆立てながら、猫の姿の嘛气が叫ぶ。
どうなっているのか、頭が追いつかない。二人がこの場に現れたのも驚いたし、どうして二人が赫遺に対して敵意を持っているのかもわからない。
僕はただ、桜にこの場所に辿り着いて、赫遺と会えと言われただけだ。
それ以外には何も聞いていない。赫遺がどういう人物なのかも、僕が何をすればいいのかも聞いていない。
どうなってるんだ。誰か、誰か僕に説明してくれ。
……恐怖と混乱が混じり合って、思考が無化していく。
「はぁ……ヘヴン、俺たちの邪魔をなんとかしてくれないか」
「ああ。お前の邪魔は私の邪魔でもあるからな。」
まばたきの間に、空き地の奥にいた女性が赫遺の隣まで移動していた。ほんの一瞬のうちに10m近くを音もなく移動した彼女は、虚をつかれて動くことが出来なかった嘛气を思い切りに蹴飛ばす。
「に”ゃッ……っ!」
「私、昔から猫が嫌いでね。」
勢いよく嘛气の身体は宙を飛び、空き地を取り囲むブロック塀に叩き付けられた。
口から血を吐き、苦しそうに震えている。
「強く蹴りすぎたか。死んじゃったかな。」
まるで感情の無い口調で銀髪の女性が呟く。赫遺も相当異常な雰囲気だけど、この女性も同じくらい、あるいはそれ以上に異常だ。
痙攣するように震えている嘛气は、確かにかなりの勢いで叩きつけられていたけど、
いや、でも、ディスオーダールームでみんなのノイズが急に飛んだことを考えると、今となってはノイズなんて信用できるものでもないけど。
哭栖と嘛气のノイズは00:19:44:20を示している。たぶん、まだ死なない。
「な、なんだよ! やめろよお前ら! 一体なにが……っ!」
「呪錄う……ここに来るまでに何があった? 何があってお前はここに来た?」
「はぁ……!? なに言って……」
「ディスオーダールームの住人のノイズが急に減って驚いて。桜に言われてここに来たんだよな?」
「なっ……!?」
どうして赫遺がそのことを知っているんだ。
なんだよこいつ。なんでこんなに不快感を覚えるんだ。
初めて会ったはずなのに、赫遺の声を聞いていると吐き気と頭痛がしてくる。
「とりあえず落ち着いてくれよ。ノイズが減ったのはこいつの仕業さ、お前も
「ま、さか……そいつが……」
以前、蜂惑から聞いた話。
僕らの呪いの元凶。つまり、僕らに呪いを振りまいた張本人。
何百年前から生き続けている、吸血鬼。僕の目の前にいるこの銀髪の女性が、その吸血鬼だって言うのか。
「だから失礼だよさっきから。私は化け物でも吸血鬼でもない。血なんて飲んだことないしお前たちと同じ呪われた側なんだよ私は。」
「便宜上そう言った方がわかりやすいかと思ってな。何百年と生きている事に変わりはないだろ」
「……お前が……僕らに呪いを……?」
僕らに呪いを振りまいた元凶、魔術を使える吸血鬼。
ゆっくりとその化け物が、僕へと近づいてくる。
「ああそうさ。すぐお別れになるだろうけど名前くらいは言っておこうか。私の名はヘヴン。ヘヴン・ハミングバードだ。」
無表情のまま名前を告げた銀髪の化け物は、すれ違いざまに僕の左肩の肉を握力でえぐり取った。
傷口の熱さを感じたと同時に、真っ赤な血が噴き出す。
銀髪の化け物に飛び散る僕の血。その夥しい量は、僕の傷の深さを物語っていた。
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