全て正しいとは限らない

 分厚い雲から、また雨が降り始めた。周りが文句を垂れるのを聞き流しながら、僕はどんよりとした空模様を見上げて胸を高鳴らせる。


 ――やっとだ。やっと会える


 先ほどの彼女からの電話を終えてから、早くも四時間経った。いつも長い長いとは思っていたが、今日ほど退勤を待ち望んだ日はないだろう。


「帰るのか?」


 心なしか浮足立った気分で帰りの支度をしていると、後ろから声をかけられた。一度手を止めて振り向くと、普段は見ないがどこか見覚えのある顔の男性が立っていた。身長が高く、顔は笑みの欠片も見られない真顔である。整った柳眉がなおさら見る者に厳しそうな印象を与えていた。

 曖昧な記憶だが、彼は部署は違うものの、この会社の上層部の方だったような気がする。


「はい、待ち合わせがあるものですから」


 今日の分の仕事は終わったため、何も隠すことはない。迷うことなく首肯すると『そうか、ご苦労』と淡々と返された。

 その返答に内心で首を傾げる。ただこれを言うためだけに声をかけたのだろうか。新人である自分が早く上がることに不満でもあったのかもしれない。


「すみません、お先に失礼します」


 気まずさと若干の申し訳なさを覚えつつも、帰り支度の終わった鞄と上着を持って頭を下げた。先ほどのように上司に絡まれたらたまったものではない。そそくさとその場を後にしようとしていると、また声をかけられた。


「東」

「っ、はい?」


 唐突な声に驚いたのか、自分の口からは上擦った声が漏れた。

 上司と思われるその人は、窓の外を眺めながら続ける。


「――明日は晴れるといいな」

「そう……ですね」


 また挨拶をして扉を閉め、足早にエレベーターへ乗り込む。自分の映る姿見をぼうっと見遣りながら、今自分の頭の上には見えない数十個の疑問符が飛んでいることだろうと考える。


 ――明日は晴れるといいな


 どういう意味なのか、ぐるぐると脳内が回転を始める。

 普段話さない人間同士が会話するとき、天候については話しやすい話題の一つだろう。ただ、彼の話はあまりにタイムリーすぎる。

 この後控えているのは、待ちに待った彼女との逢瀬。雨の日しか会わないという暗黙の了解の上で成り立っている関係だ。


「まさか、な」


 普段話したこともないあの人がいたのは偶然で、彼女との関係を悟られたわけではない。そう考えるのが普通のはずなのに、この頭は嫌な方向へと独り歩きを始める。

 どうしてあの人はこっちの部署に来ていたのか。どうして自分に声をかけたのか。どうしてあんな言葉を自分に言ったのか。話しかけるのが自分でなければならなかった理由があるのでは?

 考えているうちにいつの間にかエレベーターが一階へ着き、出口へ向かう。

 ざあざあという雨音に、独特な雨のにおい。 

 一度息を吸い込むと、何だか落ち着く気がする。


「……」


 別に晴れなくていい。雨でいい。ずっと雨のほうがいい。

 雨でなければ、美幸さんと会えないのだから。


 傘を開いて、雨の降る街中へと歩みを進める。

 彼女と会えることは嬉しいのだ。僕は、心の中にどこか暗い影が落ちたことには気付かないふりをした。

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雨が許してくれるから 育波 @starlight1004

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