縋る腕を探した先に

 私には、何もなかった。

 夫はいるものの嫁として何かを望まれたことはなく、ただ家の方針に従ったまでのこの婚約。不自由はない。逆に束縛されることもない。

 女性ならまだしも、愛されたいと望むだろう。しかしこのような婚約では、相手もそんな気が起きなくて当然である。彼は仕事ばかりで、私に見向きもしなかった。

 愛したいけど愛せない。愛されたいのに愛されない。

 自分の中には、ただ虚しさがあった。


「今日も帰ってこないのね」


 広々としたリビングで一人呟いて、壁にかけてあるカレンダーをちらと見る。今はもう無いが、数か月前の今日の日付には、赤ペンでつけておいた印があった。

 その日は結婚記念日――彼が気付くとも思えなかったが、ちょっとした訴えのつもりだった。そして案の定、カレンダーを見たにも関わらず彼はいつもと何ら変わりない様子だった。

 それが悔しくて無理に約束を取り付け、翌日に駅前で待ち合わせをした。その時の私は、柄にもなく純粋に楽しみだったのだろうと思う。彼が来てくれると信じて疑わなかった。


「……だめね、最近は本当に……」


 そこまで思い出したところで、心臓が掴まれたような痛みが襲ってくる。苦笑してかぶりを振った。寂しさのせいか独り言が多い。


 ――しばらく帰らない


 いくら待っても、彼は来なかった。それどころかこんなメールまで届いて。『帰れない』のではなく『帰らない』。意志的なものだと悟り、唇を噛んだ。

 そこまで私が嫌なのか。

 嫌悪するまでに私が彼に何かしたことがあるだろうか。思い当たる節はない分、どうしようもなかったのだ。


『本日は夕方からかなり冷え込むようです。雨が降り続き、今週末には台風が太平洋側に接近すると見受けられ――』


 おもむろに点けたテレビから天気予報が耳に届く。雨、と聞いてぴくりと反応する。


 ――美幸さん


 ひどい雨が窓を打ち付ける中、躊躇うように名前を呼んだ彼の声を思い出す。東千尋あずまちひろ――彼は自分の名前を呼ぶとき、恥ずかしさからか目が泳ぐ。

 弱々しく縋るような声音で名前を呼ぶくせに、敬語は使わない歪さに気が惹かれる。彼の不安定さには、誰かがついていないといけないという危うさがある。だから必要とされているんだと、彼と共にいると強く感じられる。彼に求められる度に満たされ、全て受け入れてあげたいと思う。

 ここ最近は曇りが多かったものの、雨が降るまでは至らず会えない期間の方が長くなっていた。

 一度考えると居ても立ってもいられず彼の電話番号へとコールする。


『はい、東です』

「千尋くん」

『っ、美幸さん……?』


 名前を呼ぶと、はっとした声で名前を呼ばれる。それだけでも胸が高鳴った。


「ごめんなさい、急に……驚いた?」

『それは、まあ……驚きは、したけど』


 電話の向こうでガサガサと音がする。もしかしたら移動しているのかもしれないと思い、口を噤む。背後の音が止むと同時に、千尋くんがほっと息を吐くのがわかった。

 

『でも今美幸さんの声が聞きたかったから、ちょうどいい』

「そ、そういうことを……」

『ごめん、今日来れない? 今まで雨が降らないからってずっと何もなかったけど夕方から降るらしいし、今日はいいかと思って。本当は僕から連絡しようと思ってはいたんだけど』


 彼には何か後ろめたい理由があるときに頼み事をすると、饒舌になる癖があった。言い訳がましく続く言葉に、微笑みが零れる。


『それに、もう――限界』


 熱を帯びた声音に、かっと頬が熱くなる。顔に身体中の熱が集まる感覚。やっぱり彼は私を必要としてくれている。居場所を与えてくれる。


「ええ、ええ……会いに行くわ、勿論」

『待ってる』


 弾んだ声に、こっちまで嬉しくなる。彼が望むなら、本当は雨の日じゃなくたって行ってもいいくらいなのに。でもそれはこの歪な関係の上では言えないことだから、いつも雨が降ればいいと祈っている。

 切れた通話画面を見て、千尋くんへの愛おしさを募らせる。


「――早く、雨が降ればいいのに」

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