弱い心を押し隠して

 あの出会いから4カ月近く――僕たちは雨の日だけの不定期な逢瀬を重ね、歪な関係を続けていた。


「おい東、こっちに来い」

「はい」


 ただそれ以外は普段と何も変わったことはなく、会社に通って仕事をしている。ただ一つ最近になって変化したことは、前社長が体調を崩し入院してしまったことだ。かなり高齢の身だったから仕方のないことなのだろうが、病状の改善が望ましい。


「以前の取引先に渡した書類に不備が多々あった。ちゃんと提出する前に見直したんだろうな?」


 僕を呼び出した部長が、顔を顰めて見上げる。寝不足なのだろう、目の下には隈が巣くっており、異様な恐ろしさを醸し出す。はあと大仰な溜息を吐いたかと思えば、こちらに大量の書類を投げ渡した。

 威圧感に気圧され、躊躇いがちに口を開く。


「……はい、しっかり確認したはずですけど」

「それでもミスが見つかってるんだよ。その書類のデータはまだ残ってるな? まとめて直しておけ。それと明日の会議にはお前が出ろ」


 矢継ぎ早に言われ、頭が混乱する。

 書類にミスはなかったはずなのに、どこが間違っていたというのだろう。それに会議は今後の会社の方針を定める大事なものだ。ここに勤めて一年も満たない自分が参加するようなものではない。


「会議は部長がでるはずじゃ――」

「うるせえな、下っ端は黙って働いていればいいんだよ」

「でも、」

「文句があるなら首を切るが?」

「……わかり、ました」


 社長の不在が、あらゆる場所に影響をもたらしていた。

 その影響を大きく受けるのが僕のような新人というわけだ。例え理不尽な無理難題を突き付けられても『イエス』と答えるまでは放されない。

 ストレスで胃が痛くなってきた気もするが、上司の前でそんな素振りを見せようものなら怒鳴られるだろう。心底申し訳なさそうな顔をしてもう一度頭を下げ、上司に断りその場を離れて机に戻った。椅子に座ると、強張っていた身体から少し力が抜ける。


「天気予報聞いたか? 今週末台風が来るらしい」

「マジか、道理で最近の天気は荒れてるわけだ」

「今日も夕方から雨だってよ」

「天気が悪いと気分も下がる……」

「ああ、全くだ」


 先輩社員達の会話が耳に届く。手に缶コーヒーが握られていることから、休憩ついでに買ってきたことが窺える。

 今日も夕方から雨だってよ。

 その言葉が気になりちらと窓の方を見遣れば、分厚い雲が空を覆っているのが分かった。まだ雨は降っていないものの、降り始めるのも時間の問題だろう。

 手は先程渡された資料の元データを探しながら、頭では別のことを考えていた。


 ――運命よ、これって


 自分より年上なのに、少女のように可憐な笑顔を思い出す。最近は曇ることが多くても雨は降ることがなかったため、彼女にはしばらく会っていなかった。

 台風が来るだって? 僕からしたら嬉しいことこの上ない。

 早く降ればいいのに。あの日のように、大粒の雫に降られて寒さに震える彼女を迎えに行くから。


「――……」


 ふと手が止まり、みゆきさん、と小さく声が漏れた。

 耳元をくすぐるような柔らかい声音で、早く自分の名前を呼んでほしい。彼女の優しさに包まれて初めて、この弱い心は癒される。


 ――怖がりなのね、千尋くん


 ああ、そうだよ。僕は怖がりで臆病で仕方のないやつなんだ。

 だから君には傍にいてほしい。君の前では全て曝け出しても、許される気がするんだ。


「会いたい」


 ぽつりと呟いた声は誰の耳にも拾われることなく、日常の中に溶けた。

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