それでも解けない
「んん……」
朝日がカーテンの隙間から覗いて、瞼へ光を伝える。呻き声に似た声を漏らして伸びをする。うっすらと目を開けば、僕の腕枕ですやすやと眠る彼女の姿。年齢不相応な美しい寝顔に、僕は息を吞んだ。
彼女と出会った翌朝、起きてからの気分は最悪だった。
生まれてこの方ナンパなど一度もしたことのない、地味で平凡を具体化したような人間がその日のうちにお持ち帰り。さらに相手は三つ年上の人妻ときた。ここまで罪作りの人間がいるだろうか。
後悔に苛まれ、頭を抱えている時だった。
「おはよう、早いのね」
いつの間にかぱちりと開いた目の前の双眸に、一瞬動揺する。
黒目が大きくて可愛いなあなんて考え、また頭を抱えた。だから相手は人妻なんだって!
「すみません、起こしましたか?」
平静を装って尋ねると、ふっと微笑んだ彼女が僕の頬を撫でた。
その手つきにも面白いぐらい反応してしまう。彼女は何も考えてないのかもしれないが、慈しみのこもった眼差しで見つめられるとくすぐったい。母性の塊のような人だ。他人のはずが、何でも受け入れてもらえるんじゃないかという気になる。
「敬語なんて使わなくていいのに」
「いや、その……敬語は外しま……外すけど、美幸さん、とだけ」
「あなたみたいな若い子にそう呼ばれると何だか恥ずかしいわ」
そう言って恥じらう姿もまた可憐だ。酒でも入っているのかというぐらいの褒めっぷりだが、目の前にいる彼女は素面でも褒め倒したくなるほどの美貌の持ち主なのだと思ってくれていい。
少なくとも、僕の今までの彼女よりは遥かに可愛らしい。僕のタイプかにもよるかもしれないけれど。
「
「ええ」
「千尋くんは、今日は仕事お休み?」
「ええ」
「悩み事があるなら、是非私に聞かせてくれない?」
「ええ――って、え?」
夢見心地で相槌を打っていたら、途端に予想外の質問が飛んできて目を白黒させる。
悩み事? そんなことを彼女相手に話しただろうか。出会って間もない相手なのに口を滑らす真似をしたとは思えない。
「これ、話してしまってもいいのか少し悩むんだけれど……あなた、昨晩うなされていたから」
「うなされてた?」
こくりと頷いた彼女が、目を伏せて瞬きをする。先ほどの微笑みと一変した憂い顔に、胸がどきりと痛んだ。
「とても苦しそうだったわ……何か、私に手伝えることはない?」
聖母のような囁きだと思った。どうしてここまで優しく接してもらえるのか意味が分からず、困惑する。
その優しい声に、今までの彼女の別れ際の言葉が重なり、唇を噛んだ。
――ちー、ごめんね
――千尋の愛は大きくて、包まれてて幸せだったよ
――でも少し、苦しかったんだ
「……そんな、大きな悩みじゃないから大丈夫だよ」
「私は昨日、あなたに救われたも同然なの。だからあなたの力になりたい、ならせてほしい」
意志の強い瞳が向けられ、少し居心地が悪くなる。真っ直ぐな感情を向けられるなんて何年ぶりだろうか。
美幸さんの左手を掬い、さながら本物の騎士のように薬指に口づける。そこには昨夜と変わらず鈍く輝く指輪があった。これは僕と彼女を隔てる最大の壁。この先には進めない。
「僕たちは、干渉し合う仲じゃないはずだ」
「怖がりなのね、千尋くん」
「……そんなことない」
怖がりと言われ、心に刺さった棘には気付かないふりをする。確かにそうだ、美幸さんは正しい。寂しそうに微笑まれても、実際にそうなのだから仕方ない。僕はしがない新社会人で、君は美しい人妻なんだ。
いつだって、新しい関係を築くのは難しい。距離を縮めるのも難しい。心の弱い僕は、拒まれたら立ち直れない。
「もし――これから少しずつ話していくって言ったら、どうする?」
怖がりで臆病な僕は、こんな聞き方でしか君を誘えない。言い訳をするなら、少し気が向いただけだ。美幸さんならもしかして、と淡い期待を抱いただけ。
不安に揺れる心を抑えつつ恐る恐る伺い見ると、彼女は花のように顔を綻ばせた。
「とても、嬉しいわ」
これからも会ってくれるのね、そうよねと念を押すように確認する美幸さん。その喜びようは修学旅行前のそれで、僕は拍子抜けする。
「本当はいけないことなんでしょうけど……千尋くんとなら、いいかなと思ってる」
「……偶然だね、僕もそう思ってた」
「運命よ、これって」
「そうかな」
お互い、くすくすと笑みを零す。穏やかな朝。人肌に触れている温もり。目の前の嬉しそうな笑顔と、僕を呼ぶ甘い声。
この幸せを知ってしまった。
いけないことだと知っている。それでも、僕は彼女と繋いだ手を解けない。
昨晩から降り続いていた雨は、少しずつ止み始めた。
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