振り返れば闇

 どのようにして彼女――高峰美幸たかみねみゆきと出会ったのかと問われれば、ただの偶然だったのだと答えるしかない。


「あの、大丈夫ですか」


 その日も雨が降っていた。かなり大ぶりの。それにも関わらず、彼女は傘も差さずに駅前の時計台の前に立っていた。

 僕は会社へ向かう途中、朝にもこの駅を通り彼女を見た。今朝は全く気にも留めていなかったのだが、状況が違う。腕時計を見れば針が示しているのは18時32分。優に10時間は越えている。まさかこの長時間、立ちっぱなしでいたのだろうか。

 巻いてあったであろう亜麻色の髪はすっかり解けて、上品なパステルブルーの花柄ワンピースは水を吸って濃くなっている。華奢な肩は震えていて、あまりに寒そうな姿に僕は思わず声をかけてしまっていた。


 「え、あ、ああ――大丈夫よ。ごめんなさい」

 

 彼女は声をかけた僕を見て目を丸くすると、ふわりと微笑んだ。遠目で見ても美人だと思っていたが、近くで見ると尚更だった。凛とした声も彼女の姿に似つかわしい。大人びているのにどこか可憐で、僕は眩しさに目を細める。

 ただ唇は青く変色し、寒々しい印象を与える。全く大丈夫そうじゃないのに気丈に振る舞う彼女が心底心配で仕方がなかった。

 自分が持っていた傘と、鞄から今日はまだ未使用のタオルを取り出して彼女へ渡す。


「ありがとう! ……でも、あなたが濡れてしまうわ」

「大丈夫です。予備がありますから」


 鞄から折り畳み傘を取り出して広げて見せれば、困った顔をしていた彼女の眉根がほっと緩む。


「今朝もここにいましたよね。誰かと待ち合わせですか?」


 アクセサリーがまた華々しく、今日が何かの記念日で誰かと待ち合わせており、着飾っていたのかもしれないなとぼんやり考える。

 何気なく尋ねると、彼女の表情が曇る。口は微笑みの形をとってはいるが、伏目がちになったのを見て僕は失礼なことを言ったと内心で反省する。


「……ええ。でも、もういいの」


 時間になっても来てくれないんだもの、きっと怒っているんだわ。

 そう続けた彼女の声音が、寒さからなのか酷く震えていて。僕は顔も知らない待ち合わせ相手に苛立ちを覚えた。


「僕の家に来ませんか」

「え」

「このままだと風邪引きますよ。ここから近いですし、少し休んでいってください。シャワーでも浴びて温まった方がいい。ここで会ったのも何かの縁ですし、あまり気を遣わないで結構です」


 彼女を引き留めようと、長々と言葉を重ねる。それが逆に言い訳がましく聞こえてしまって、自分の頬がかっと熱くなる。初対面の人間にここまで迫られても、気色悪い以外の印象を持たれることがあろうか。

 何を言ってるんだ僕は、と羞恥心を感じ始めた刹那、スーツの袖が引かれた。


「ありがとう、優しいのね」


 今思えば、かなり強引だったと思う。それなのに彼女は、どこか安心したような顔をして小さく頷いた。


「――お言葉に甘えて、失礼してもいいかしら?」


 動揺のあまり、勿論ですと答えた声が震えないように一生分の気を遣った心地がする。まさか承諾されるとは思わなかった。


「こっちです」


 彼女の足取りは重い。それも当然だ、長時間待っていたなら疲れが溜まっているだろう。

 僕は折り畳み傘を畳んで、渡した傘を左手に持ち替える。右腕で支えるように腰に手を回すと、彼女は驚いたようで瞬きを繰り返した。


「すみません、失礼なことを!」


 はっと我に返り謝った。女性の腰に手を回すなど、普通に考えれば失礼に値する。今日の自分は一体どうしたのか、少し考えればわかるようなことをやらかしてしまっている。


「っふふ、いいえ。少し寄りかかせてもらうわね」


 言葉通り、そっと寄りかかった彼女が愛しい。自分に預けられた体重に頼られている気がして誇らしくなる。くすくすと笑った彼女が本当に可愛くて、僕はこの時点で既に頭がやられていたんだろう。

 冷静でいれば、彼女の左手の薬指に指輪があったことなんてすぐ気が付いたのに。

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