第3話...ひとりの人生を預かった日

「ここ、だよな…」


居酒屋ジャッキー。

大学生の頃から住んで、もう八年になるアパートから普段利用している最寄の駅の方へ走って約七分。

途中で右へ曲がって商店街に入ると、ジャッキー、と黒地に白文字で書いたのれんを下ろして、赤い提灯をぶら提げている店へ辿り着く。

行った覚えがあるのは一度きり。

大学に入学したとき、入学祝いだと言って野間に連れ込まれ、危うく未成年飲酒をさせられる所だったあの日以来だ。

案の定後日彼のレポートを手伝う羽目になったいらぬ思い出もくっついている。

外でも聞こえるほど中は賑わっているようで、本当にこんなところに子供を置いて行ったのかとまた怪訝に思いながらも、その戸に手をかけた。


「いらっしゃーい!」


がらがらと音を立てて木製の引き戸を開けると、店員たちの元気な声に迎えられた。

ちらりと目だけで辺りを見回してみると、若者たちがアルコールを摂取して騒いでいる様子が各テーブル席から見受けられる。

忙しそうにバイトの店員が手にジョッキやつまみを持ってその合間を幼いころ買ってもらったプラレールのようになめらかに駆け抜けていた。

個人経営の店で、もうあれから大分経つが相変わらず繁盛しているようだ。


「いらっしゃい、おひとりですか」


頭に赤い三角巾を巻いた女の子がメモを片手に駆け寄ってきた。

にっ、と綺麗に笑う子だなと思った。

しかし飲みに来たのではない。

野間の言っていた五歳の女の子を探しに来たのだ…が、なんとなく見渡してみたがそれらしい姿は見当たらない。



「あの、五歳くらいの女の子、ここに来ませんでしたか」

「えっ…女の子ですか?」

「はい」


一瞬考えて、少々お待ちください、と女の子は離れて行く。

しまった、もしかしたら迷子を捜している親に見られたのかもしれない。

いや、それはそれで都合がいいのだが他に聞いてみるとか届け出を出すと言われたら少し面倒だ。

不服だがお父さんと来てたみたいなんですけどとか言えばよかった。

いないようなら今のうちに帰ってしまおうかと思ったが、それよりも先に従業員の出入りする奥の扉から女の子とひとりの爺さんが出てきた。

その爺さんには見覚えがあった。


「よう坊主じゃないか。元気してたか」


スポーツ刈りの白髪交じりの頭に、にんまりとした口を携えた男。

この店、居酒屋ジャッキーの店長だ。

たった一度しか来ていない俺を覚えているのかと目を見開く。

毎度思うが接客業をしている人の中にたまにものすごい記憶力の人がいる。

小学生の頃スイミングスクールに通っていたのだが、高校生になって懐かしくなって遊びに行ったら当時と変わらない受付嬢がいて、俺のことを名字から名前まで間違えず覚えていたことがあった。

バスを利用したりしていたのもあったが本当にあの時は驚いたものだ。

それはさておき、と少し縮んだ爺さんを見下ろす。


「あ、どうも」

「あれからなんともないか?また酒飲まされたりしてんじゃねーだろなぁ」

「いえ、あれからはなんとなく付き合い方覚えて断れるようになりました」


そうか成長したなぁ、とがっはっはと笑う。

先ほど言ったが、俺はここで未成年飲酒をするところだった。

それを止めたのがこの爺さんである。

バカモンがと言って野間にげんこつを後ろからお見舞いしたのを今でも鮮明に覚えている。

それがまた客にも評判いいんだろうなぁと思いだしながら少し痩せた爺さんのぎょろりとした目に視線を向けた。


「それで、子供だって?」

「はい。でも俺のじゃなくて。あの、たぶんここに前に俺に酒飲ませようとしたやつが来たと思うんですけど…覚えてますか」

「あぁー、来たね、覚えてるぜ。確かに子供連れてやがったよ。んで後で戻ってくるっていいながら出て行きやがった。友達呼んでくるとか言って」

「え、そうなんですか」


なんだ戻ってくるのか。

じゃあ俺は結局からかわれただけかとほっとしたような調子が狂うような感じになる。

けれどそれも束の間。

爺さんはやれやれと頭を振った。


「あぁ。ただバイトに聞いたら支払い済ませて行ったんだと。戻ってくると思うか?」

「…」


いえ、と苦しげに溢す。

どうやらあいつがここに子供を置いていったのは事実だったらしい。

本当になんて親だと胸ぐらを掴んで揺さぶってやりたい衝動に駆られるがあいつは今此処にいない。

はぁ、と額に手を当てて息を吐く。

俺は何のためにここに来た?

あいつが本当に子供をここに置いて帰ったか興味本位で確認しにきただけか?

違う。

子供を助けに来た。


「子供、今どこいますか」


ついてきな、と爺さんはくるっとさっき来た道を戻って行く。

ついていくと従業員の部屋の横の扉を開けて消えて行った。

覗いてみるとそこは階段になっているようで、扉を閉めて、一段目に足をかける。

ミシっと音を立てるが気にせず上がって行く。


「なんだ坊主、あいつに扱き使われてんのか」


顔を上げると、二階に付いた爺さんが俺を見下ろしていた。

二階に明りがついているからそれをバックにしている爺さんの顔は見えない。

どんな顔して聞いてるんだろうか。

でも、声音はふざけているようだったが、どこか真面目な話に入るときの雰囲気があった。


「違いますよ。俺、その子のために親切しに来ただけなんで」


親切、と爺さんがオウム返しに繰り返す。

近くまで登ってやっとうっすら見えた爺さんの顔はにんまりと笑っていた。

ぎょっとして思わず身を退くと、爺さんはくつくつと喉を鳴らせた。


「がっはっは!そうか、親切しにきたんか!」

「…繰り返さないでください、なんか俺すごい上からみたいで、」

「上からだろぉ、そりゃ。くっくっ、そうか、親切しになぁ」


何がそんなにおかしかったのかずっと嬉しそうに笑っている。

すっと言葉になって口から滑り落ちたが、なかなかに恥ずかしい。

なんだ、親切しにきたって。おこがましいにもほどがあるだろ…。

いや、確かに自分のためじゃなくてその子供のために親切するわけだから間違ってはないけど、別にはい扱き使われてますって言うのが嫌なんじゃ…いや、嫌だけど。お人好しって認めるのが嫌とか別に…。

考えているだけだったはずがいつの間にかそれも口に出していたようで、また爺さんに笑われた。


くそう、恥ずかしい。


耳まで熱くなるのを感じながら、爺さんの後をついていく。

二階に上がるとそこは住居スペースだった。

ずっとここで暮らしているのか、ちゃぶ台や電気をつける蛍光灯から下がるひも、カーテンもどれも年季が入っていた。

少し奥に仏壇が見えて、おや、と首を傾げる。

写真の中の女性に見覚えがあった。


「坊主」


自分の胸辺りにある後頭部に目を下ろす。

小さくても逞しい背中をしている。

俺が、なりたかった優しくて強い、誰もが憧れる人物像みたいな。


「お前、引き取るつもりなんだろう」

「…はい」

「子育てはやったことあんのか」

「ないです。結婚したこともないです。下に兄弟もいません」

「そうか」


爺さんが振り返る。

笑った時に目尻にできていた深い皺は消えて、にんまりと吊りあがっていた口元は一つに結ばれていた。


「お前がやろうとしてんのは、言い方は悪いが里親と同じだ」

「…里親」

「託児所とか、保育園とかと同じ考えじゃいけないぜ。あいつぁ子供を捨てたんだろう。まぁ引き取るにももしかしたらまだ法的に色々あって返すことになるかもしれねーが、やっぱ返してくださいなんて少ないだろ」


がしがしと頭をかきながら居心地悪そうに言う。

そうか。


「短い時間かもしれねぇ、でもただ預かるって考えじゃいけないぜ。お前はひとりの子供を育てるんだ。

ひとりの人間を育てるんだ。」


自分の掌を見つめた。

そうだ。




俺、ひとりの人生を預かるんだ。





「おじちゃん、お父さんは?」


障子の隙間から覗く眠たげな目が、俺を見つめた。


「…だぁれ?」


爺さんの陰に隠れて、女の子が不安そうに問う。

…最初はわからないことだらけだ。


正直不安だ。

だって何も知らないんだ、無知なんだ。

子育ても、この後の手続きも、この子の名前も、どんなものが好きなのかも、お母さんはどんな人なのかも。

でも知らなくて当然で。誰しも本や先人の教えを元になんでも手探りでやっていくものだから。

もうこの子に愛を注いでくれる親はいないんだ。

今いるのは、俺だけ。


すー、はー。


深く、深呼吸をする。

これからゆっくり知っていけばいい。

そして丁寧に、慎重に。

俺の出来る限りの愛をこの子に。



「…初めまして。俺、君のお父さんのお友達の島田敦っていうんだ」



まずは、




「君の名前はなんていうの?」




君を知ることから。

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愛花 浅倉 @asakuradesu

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