第2話...自分のためじゃない

その話は急に飛び込んできた。


三月中旬、島田 敦は上司の反対も振り切って、職場を辞めた。

少なからず自分は会社の支えとなっていたのか、退社してしまうことはかなりの痛手だったらしい。

けれどそれも知らぬふりをして辞表を突き付けた。

後悔など、もう微塵もなくなっていた。

それからしばらくして、新しい職場を見つけて、収入も安定してきた時期だった。

会社から帰ってきてコンビニ食を平らげ、風呂にでも入って明日の出勤に備えてもう寝ようかと思った夜の十時半過ぎのことだ。

就職先以外からは殆どかかってくることのなかったケータイに、着信音と共に一人の名前が映し出された。


゛野間 雄一゛


すっかり疎遠になっていた、高校時代の二つ上の先輩だった。

何で繋がったのか全くと言っていいほど思い出せない男で、微かな記憶を頼りに思い出しても、自分とはかけ離れたバリバリの体育会系でガサツな男だという認識である。

ただ、彼も皆と同じように学生時代事あるごとに俺を見つけては頼みごとばかりしてくる人だった。

三コールほどした後で液晶画面に浮かび上がる緑に縁取られた受話器ボタンをタップして耳に当てる。


「はい、島田です」

「おう!久しぶり島田ー!元気してた?俺俺、野間だよ、野間ぁ!」


相変わらず騒がしい。

眉間に皺を寄せながらお久しぶりですと応える。

居酒屋にでもいるのか、後ろでは若者たちの声が飛び交っていて、賑やかだ。

彼もそれに例外でなく酔っ払っているのか、げらげらと下品に笑っている。


「何の用ですか」

「おう、お前今からこっち来ねぇ?」


酒の誘いだった。

人脈の広い彼なら、もっと別にいい人がいただろうに、何故自分なのか。

明日仕事があることを言いわけに断ればいいかと方手で風呂支度を進めながら適当に相槌を打つことにした。


「お酒のお誘いですか。すいません、俺明日仕事なんで、」

「俺さぁ、離婚したんだよね」

「...はぁ」


そうですか、と返す。

こういう時なんて返せばいいのかわからない。

残念でしたねと言えばいいのか、もっといい人が現れますよと言えばいいのか、最適な言葉が未だに見つからない。

というか、この人結婚してたのか。

離婚したとするなら、きっと向こうから愛想を尽かされたんだろうなと考えた。

この人は昔から自分のせいなのに責任を負わない質で、前の上司に似て人に頼ってばかりの男だったのを思い出して、少しばかり奥さんに同情した。


「んでね、俺子供いんのよ」

「そうなんですか。お幾つですか」

「あーっと…五歳。女なんだけどな、あのさ、俺正直子供って苦手なわけ」

「…俺も苦手です」


「でさ、貰ってくんね?」


頭を鋭い雷撃が走る。

俺今苦手って言ったよな、話を聞けよ、ってか、え?貰え?子供を?あんたの?

散々困惑したあとに、どうして、とやっと口から言葉を溢す。

俺がそう言うのを待っていたかのように野間は黙っていた。

今思うと、鼻からやつは酔ってなんかいなくて俺が慌てるのを楽しんでいたのかもしれない。


「あいつさぁ、子供置いてさっさと男作って逃げやがって。じゃあ俺もさっさと女作ってハッピーライフ謳歌したーいの。でもそしたら邪魔じゃん?」

「は…?」

「だから、貰ってくんね?」


しょうもないクズだ。

嫁が男を作って逃げたから自分も女作って新生活を楽しみたいだ?

でもそうしたら子供が邪魔だから貰ってくれないかって?

そんな親がいていいのか。

ふつふつと腹の底が煮えくり返る音がする。

酒が入って拍車が掛っているにしても、自分勝手にもほどがある。

ギリ、とスマートフォンを握る手に自然と力が入る。


「あんた…命をなんだと思ってんだ!そんな、物を捨てるみたいに!」

「人間なんて消耗品と一緒だろ…あー!わかった、じゃあこうしようぜ!預かってくれよ!な!」

「いい加減に…っ!!」

「きーまり!じゃ、こいつ置いてくから迎えに来てやってくれよー、頼んだぜ」

「はぁ!?」

「貴重品とかはこいつと一緒に置いとくから、じゃ!…あぁ、あそこ、ジャッキーの奥の席にいっから!」

「ちょっとふざけないで、」


ツー


切れた。

…本当なのだろうか。それともからかわれているのか。

散々怒りを振り撒いた後になって、すっと頭が冷えた。

本当なのかわからない。

本当に彼は結婚していて、子供を産んでいて、そして本当に離婚して居酒屋ジャッキーに子供を置いていっているのか。

実は電話を切った後で本当はいない子供を迎えに来る俺を笑う準備を今か今かと楽しみにしているかもしれない。

じゃあ行く必要はない。

スマートフォンを下ろし、テーブルに置く。

明日も早いんだ、さっさと風呂に入って寝てしまおう。

あんな人のことなんか寝てしまえば忘れるだろう、とバスタオルを掴む。


…けれど、もしあの話が本当だったら?

子供はどうなるのだろう。


「…ちくしょう、」


゛結局お前はお人好しのままじゃないか゛


頭の奥で誰かが囁く。

でもしょうがないじゃないか、こればかりは。

゛そんなことばかり言ってるからお前は損をするんだ゛

…でも、でも。

本当に子供がひどく寂しい思いをして知らない大人たちに施設に連れられていったら、その子供はどんなに惨めな思いをするだろう。

親がいないことを責められて、一生抱えて生きて行くんだろうか。

さっさとあいつの消息がわかっているうちに返せばいい。

そうすれば…けど。

けどあいつをもし説得できたとして、その子は幸せに生きていけるだろうか。

あんな親に子供を任せるくらいなら、俺が。



゛助けなきゃ゛



脱ぎかけたシャツを着直して、傍にあったコートを羽織った。

まだまだ外は寒い。

戸締りを確認してから、俺は居酒屋ジャッキーへと走り出した。


これは自分のための親切じゃない。

そして野間のための親切でも、その奥さんへの親切でもない。



あのクソ野郎に捨てられた子供のための親切だ。



今度会ったらぶっとばしてやると、心に決めて。

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