終章 夏季

 施設を離れても胸の高鳴りは止まらず、今にも嘔吐しそうな調子だったが、体は軽かった。何より私は笑えていたのだ。心から、晴れ晴れとした気持ちで。

 久々である、シワがよるほどの笑顔を表せたのは。なぜなら私よりも底辺を彷徨さまよう人間を見て、希望がうっすら湧いたから。どういう不純な理由にせよ望みが――


947:名無しさん@毎日がバケーション:2017/08/02(水) 03:33:31 ID:mito/710

  そろそろ次スレの時期か・・・過疎ってきた名


952:名無しさん@毎日がバケーション:2017/08/10(木) 15:29:42 ID:TASsan02

  それだけ職にありつけたんじゃないか? いいことじゃねーか


978:名無しさん@毎日がバケーション:2017/08/18(金) 07:09:10 ID:m9/pugya

  誰か俺を救ってくれないかなとか思っちまう

  人間として終わってるよな、勇気がなくて何もできんけどさ


999:名無しさん@毎日がバケーション:2017/09/24(日) 00:00:00 ID:all/neet

  アアアアあああああああああああああああああああああああああああああ

  ざっけあんあ嗚呼ああああああマジで得ええええええええええ

  ウカラネエッテどういう事だ世おおおおおおおおおおおおおおおおおおおお


 私はあれ以来、例のスレッドを覗かなくなった。半月後にあっさりアルバイトの面接に受かり、例の男と一切の面識がなくなったからだ。

 私は徐々に心の闇を払いつつあった。

 希望や勇気。それらの言葉は、もはや現代では不要なのだろうか。何せ、この世で最も重要なのはタイミングだったのだから。

 が、これからどうするか。安堵を貪りながらフリーアルバイターを続けられるわけがない。ようやく死に物狂いで仕事にありついたというのに、それでも人生には杞憂がべったりとくっついている。私も良い歳になる、たまに生が怖くてたまらない。

「そうか……」

 一時的に精神が落ち着いた私は、改めて答えを出した。溢れる人間が求めるものは安堵である。だから皆、あって困らないお金を求めるのだ。

 くそ、笑えない。結局は施設の連中と思考が同じだったのだ。金を持った一人の強者に縋る、大勢の弱者と同等だったのだ。


『事件が起きた商店街は今も物々しい雰囲気に包まれています。この地点からスローガンを掲げた集団が、次々に通行人を襲い始め、あちらに見えます商店街のアーチまで行進し、何十分も商店街を占拠しました。駆けつけた警察によって――』


 私はアルバイトの休憩中、休憩室のテレビでホットな報道をぼうっと眺めていた。先刻、近くの商店街に現れたのは、まとまりのないプロパガンダを叫びながら行進する集団だったという。

 そいつらは道行く人々に暴行したり、陳列された商品を壊したり、奇声を発したり服を脱いだり、排泄したり――

 人が殺傷される惨事にはならなかったが、いかれた集団が起こした怪事件は、首謀者がわからぬまま全国へと知れ渡った。

 ともあれ、死者は出なかったのは不幸中の幸いか。

「死者が出てない? もしかして、この事件ってあいつらが……」

 心から笑っているのは誰なのだろうか? 本当に誰なのだろう。

 少なくとも、私ではない。笑える心境ではなかった。


 私は数ヶ月の間、顔も知らないスレッドの皆から勇気をもらった。また、あの男に対する反骨のお陰で社会に復帰できた。

 もし彼に出会っていなかったら、もし彼の口車に乗って入信してしまったら――今では、ふたつの意味でぞっとしていた。決してお礼は述べないが、微小な感謝を胸に秘めている自分に腹が立った。

 ようやく社会には戻れたが、人間とはつくづく繊細である。パンピーになれたというのに、無職時代とは異なる不満ばかりが泡沫うたかたのように浮かんでは弾けるのだ。

 ことあるごとに、アルバイト先のスーパーマーケットで客にいちゃもんをつけられ、不満を家に持ち帰った末、私は絶叫していた。主に自室で。

 なぜ人は無粋なクレームをつけたがるのだろうか? 無職時代には即答できたであろう、子供のような自問のアンサーに言葉を詰まらせた。

 仕事を始めると、月日の流れが早く感じる。出勤以外、ろくに外出しない日々送っていた。仕事以外の会話もなくプライベートの内容は、以前と変わらなかった。


 某日、私はメンタルのリフレッシュを兼ねて無意味な外出をした。

 もうあの男には会えない、会えるはずがない。そもそも会いたくなんかない。反面、外をうろつけば数ヶ月前のように男に出くわす気がした。私を突き動かしたのは、どこまでも純粋な矛盾だった。

 この時季は人に優しくない。耳から入ってくる昆虫の不快な合唱もしかり、お天道様の攻撃的な照射もしかり。あと三十分も現代の夏を歩けば、私は干物になるだろう。道端の自販機で購入したお茶を数分で飲み干し、迷宮に入ったかのように街路を彷徨していた。

 再び水分が失われ始めた頃、無意識に足を向けていたのは、敷地全体に黄色いテープが張られた施設だった。テープには『立入禁止』の大字が強調されている。

 そこは、私があの男と最後に別れた場所だった。

 出会ったのが何ヶ月前か、正確な数字が出てこない。それでも、胸にあったのは懐旧だった。もぬけの殻となった施設が放つ不穏さは、現場ではないゆえに引き立てられており、一帯に人は居なかった。つまり誰も近づいてはいけないのだ。私は職務質問を恐れ、踵を返した。

 ――途端。亡霊に会ったかのような、冷たい空気を感じた。私の目と鼻の先に、いつぞやの男の顔があったのだ。無論、体もあるし、

「やあ兄さん、久しぶりだね」

 声もあった。

 その男は確かに実体があるのだが、ジョーゼットのようにうっすらと透けていた。もちろん、本当に透けているわけではなく――私が知っている男ではないような、トケイソウさながらの顔色が原因だったのだと思う。

 行く先々で出会っていた時の疎ましさはなく、今では少しだけ嬉しさがあった。恥知らずだと思われるだろうが、私は男に対してお礼を口走ろうとしていたのだ。そんな矢先、私の瞳を見据えながらゆっくりと歩み寄ってきた男は、適度な近さで足を止めた。

「どうしていつも行き合うのか、なんて野暮なこと思っちゃあいけねえよ。実はオレはもう先が短いんでね、ちょいと兄さんと話がしたかったんだ」

 しばらくすると、まるで独り語りを始めるような適度な間をもって口を開いた。聞き慣れた声が、また私の耳に入ってくる――

「不思議なもんさ、不幸と幸運とは同時にやってくる。ちょっと自分語りになっちまうが、聞いてくれないかね?」

 私は男の願望に、黙って頷いた。

 これからこの男の――名も知らない、汚らしい男の――誰にも聞かれないだろう、辞世の問わず語りが始まるのだと思うと、否定なんてできっこなかったのだ。


「大体一年前だったかな、オレが病を患い、長くないって診断されたのは。ただ死ぬのも馬鹿らしくてさ、どうせ死ぬならありったけの財産はたいてギャンブルに溺れてみようと思ったんだ。そしたら皮肉にも大当たりしちまったのさ。で、思いついたんだ。その腐った金を活かせないかって。オレの体が砂のように崩れるのが先か、オレの希望が入浴剤みたいに溶けちまうのが先か試したかったんだ。勝手なモンだろう?

 最初にやったのはセミナーだった。湯水のように金を使い、オレの持論をただぶちまけただけだった。ところが何度か開いてるうちに、人が集まるようになってきた。落ちこぼれた、もはやオレよりも先に逝っちまいそうな老若男女がさ」

 男が自嘲の笑みを見せた。釣られて笑いそうになった私は、咄嗟に感情を押しこめた。

「次に施設を丸々借りきって、人を招いたよ。親睦会ってやつだな。でもそいつら、一向に笑顔を見せやしない。酒も飲まない、タバコも吸わない、挙句オレが用意したメシも食いやしない。ったく……どうなってんだ。

 そいつらは食事を横目でちらちら、ポケットのタバコをさわさわ、会話したそうにモジモジ――それを見てるうち、わかったんだ。そいつらは、先陣切って自分から行動を起こすのが苦手なだけなんだってな。だからオレ自ら近くの食事に箸をつけ、酒を飲み、タバコに火をつけた。すると一人、また一人とオレと同じ行動を起こしていったよ」

 まるで子が親を模倣するようだと思った。セミナーに足を運び、親睦会に訪れた連中は、どれほどの救いを求めていたのだろうか。

「オレは人になにかを説けるような生き方はしてない。けどこんなオレを頼ろうとして、自らの足で集まった奴らは救われたかったんだ。そいつらを救ってやりたい、柄にもなくそう思ったよ。どうせ短い人生だ、人のために考えるのも悪くないと思ったんだ。そうさ、オレが兄さんに声をかけたのも――

 人の顔見りゃ、そいつが無職かどうかなんてすぐわかる。人生に完全に行き詰った顔なんて尚更だ。でも兄さんは、会うたびに気色が良くなってたよ。まるで仲間が居るような、心の支えが居るような……本当は余裕があったんじゃあないか? へへっ、まあオレには関係ないってな。それから、あの事件に関して連中は口を割らないだろう。もしオレが捕まっても、どうせ獄中で死んじまうし、怖いモンもない」

 見習いたいほどの呑気さである。

 明日がないからこその強気と、明日があるからこその弱気は表裏一体のよう。男の言葉を聞かなければ、不毛な羨望なんて抱かなかったのだ。

「ちなみに、オレの誘いを断ったのはアンタが初めてじゃなかったよ。良かったな、アンタは普通さ。感謝されるのは癪だけど、礼儀として最期に挨拶だけしときたかったんでね。へへっ、これでクローズだ」

 私の発言など挟める暇もなく、男は一方的に言い終えると、街路の奥へと歩んでいってしまった。途中、幽霊のようにすっと消えたような気がした。

「じゃあ元気でな」と耳に残った、しゃがれた声はいつも以上に不快で、私はその場で大笑いしてしまった。

 見間違いに決まっている、違いない。なぜなら私は、れっきとした一般人だからだ。そんな変な男は、端から関わっていなかったのだ。見間違いでなければ、私が病んでいるという結論にいたってしまう。

「行くか……俺には明日もあるし」

 帰路につく私の足は、アルバイト帰りよりも重たかった。自分が想像する以上に、人生という旅が自由で、選択肢のオンパレードだと気づいてしまったからだ。


 アルバイト生活で塞ぎこんでしまいそうになる、十人並で、一般人の私にとって『自由』とは割と苦痛だった。


                                  了

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【倍率】バイトの面接すら受からない【十倍】 常陸乃ひかる @consan123

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