4 五月
曇天でも暖かい候。くたびれたフェイクレザーの財布から小銭を取り出し、牛丼屋で昼食を済ませた帰宅途中、
「ウソだったんですね」
「何がだい?」
「失業者の乱ですよ」
「兄さん、誰もそんなこと言っちゃいないよ」
国道の横、少し広めの歩道、ケヤキの下、私の隣にはあの男が居た。
名前も、年齢も、住所も知らない、赤の他人同然の『知り合い』と、まるで数年来の付き合いのように、何の隔たりもなく会話していたのだ。
「鵜呑みにしたかった私が悪いんです。やっぱ、捨て鉢に楽しんだ者勝ちですよ」
男が笑った。私に対してか、もしくは他の興に対してか。定かではないが、大きく手を広げ、世界を見渡すかのようにぐるりと体を一回転させると、
「この世に仕事はあると思うかい?」
取り澄ましながら私の目を覗きこんできた。辺りにちらほら人が居たし、何名かの視線もこちらに向いていたが、今の私に不都合はなかった。
「いや、仕事はあるでしょう腐るほど。圧迫面接に耐えりゃ合格ですよ」
「じゃあ、なぜあんなにも職にあぶれている人間が居るのか。そう思わないか?」
職を選んでいるからだ。選んでいるつもりはなくとも、体は無意識に動いているのだ。あるいはアルバイトをしている者が、またのアルバイトを求めているからだ。
ではなぜふたつもアルバイトをするのだろう? それは金が要るからだ。そいつらは単細胞で、金の使い方が下手だと気づかない、自分の生き方に酔い痴れている者だから、いつでも金が足りないのだ。単に、不必要なものを切り捨てる概念がない痴れ者だ。
中には、子供のために必死に働いている――と声を荒げる主婦も居るが、そんなのは論外で、端から計画性がないだけである。
だが、私はそういう人間以下の存在だ。インターネットで、恥ずかしげもなく持論をひけらかす人間と同等なのだ。
「でも、誰が悪いというわけでもないですからね。職を持った者を妬んでも……不毛なだけですよ」
「そうかい……」
男は、私の返答に期待でもしていたのだろうか。彼の口元に浮かんだのは不満の二文字だった。
「オレは今まで、生きてれば良いことがある。そう思って生きてきた」
私の返答を待たず、男が口を開いた。まさに、言葉のとおりなのだろう。先を語らず男は口元を緩めた。あくまで自嘲のようだった。
「でも、幸せってんは自分で作るものだよ兄さん。恨みもそのひとつさ、人を恨む幸せってのも悪くない」
視線を寄せながら、男が言葉を続けた。
「面白いものがある。ついてくるかい? なーに、すぐそこだよ」
私は時間に迫られている身ではない。それが答えだった。
男に言われるまま、軽い気持ちであとを追った。会話はなかったが、住宅地を進みほんの数分で、古びた集会場のような建物に着いた。自宅からは随分と離れた地点で、必然的に訪れるのも初めてだった。
靴をスリッパに履き替えたあと、建物内を歩いた。一階建で部屋がいくつかあり、居酒屋に寄るかのような気軽さで案内された一室の前で、男は「覗いてみな」とドアをスライドさせた。
「……まさか」
私は絶叫していた。両眼で捉えた光景を否定したいと、ひたすら心の中で。
室内では、パジャマのようなお揃いの衣服を着た大人たちが、座禅を組み瞑想に
眼前の光景が恐ろしくて、足がすくんだ。『同じ制服を着た者たちが、ひとつの仕事をこなしている』とは思いつけず、首を否定の動きに導いてしまった。
「みんな職を失い、ここに集まった者たちだよ。そして、同じ目的を持っている」
「いや、これって……」
確信を持った矢先、男の携帯電話が鳴った。「失礼」と一言、男はこの場を離れてしまった。彼を待つ間、付近を見回してみるが、この上なく異様な空間だった。
廊下には日本の批判をつづった、プロパガンダのような張り紙があちこちに貼られており、唸るような発声が時折どこからか聞こえてくる。
非常にまずい展開だ。私を取り囲む非現実から離れたい一心で、手に汗が滲んだ。精神が不安定になりかける中、背中から不意に足音がした。男が帰ってきたと思い顔を向けたが、
「こんにちは。あ、はじめまして? あなたも、今日からここに?」
にこやかに真っ直ぐな視線を送ってきたのは、年頃の女だった。十代には見えないが、私よりも若い。垂れ目が穏やかな性格を思わせ、肩までの奇麗な黒髪や、弓を模すような整った唇は第一印象で惚れてしまう男性も少なくないだろう。
ただし瞑想していた者たちと同じ、病衣とも形容しがたい淡い色の上下を着衣した姿は、ときめきを一瞬で忘却させてくれた。
「だったらこっちに来て。まずは、お導きの間から案内するね」
躊躇せずに近寄ってきた女が、気さくに手を握ってきた。イバラのように絡みつく手は、どこまでも安息があり、どこまでも攻撃的だった。すべすべする手を払いのけてしまった私の体には、びっしり鳥肌が立っていた。
「あ……ごめん。つい」
一歩下がることにより手に入れた、少しばかりの正気。私は不自然に謝罪した。対する女はぽかんと口を開け、状況の理解に努めているようだった。
「大丈夫よ。まだ、あの方としっかり話し合ってないのかな?」
数秒前の笑顔とは裏腹、次に見せてくれたのは悪寒が走るような作り笑いで、彼女なりの許容も窺えた。きっと私の眉間には、大きな渓谷ができていたはずだ。
これ以上の意見交換に意味はない。彼女と同じ空気を吸い続ければ、いつか爪の伸びきった手で心臓を鷲掴みにされ、心を悪戯に傷つけられるのは請け合い。
私は必死だった。自ら危険を避けるのは生存本能だ。女を無視し帰宅へ歩を進めようとしたが、疎ましい予想も過っていた。
一歩、二歩、
「……兄さん。もう帰っちゃうのか?」
三歩目で、予想は的中した。
出入口で私を妨げるように、電話を終えた男が歩んできたのだ。男の魂胆まで読めたわけではないが、私に近寄ってきた理由はそれとなく理解したつもりだ。
「宗教ですか? なかなかステキな趣味じゃないですか」
わざとらしく、女にも聞こえる声で言った。気を抜けば、唇や足が震えそうだったが、必死にそれを隠した。
「関心を持ってくれたか? 嬉しいねえ」
「でも変ですね。こういう胡散臭い宗教って、信者から金を徴収し続けるためにあるのでは? 無職を集めたって、資金稼ぎにもならないじゃないですか」
「宗教じゃあないさ。そもそも、オレの目的が金ではなかったら?」
「どういうことです……」
男はこちらの質問には答えず、信者の女に「少し席を外してくれないかね」と優しく言った。丁寧に首を垂れる女は、「失礼します」とささやき一室へ戻っていった。
「逃げ道を封じるつもりはないさ、オレは悪じゃない。外で話そうか」
言われるまま私は靴を履き、自然の匂いを鼻と口から取り入れた。花壇のパンジーが心のよりどころだった。花々は
「オレはねえ兄さん、救ってやりたいんだよ。彼らは職を失い、笑うことも失った。残された道は自殺か、生活保護か――いや、どちらもいけないだろう?」
男の選択肢はネガティブなものばかりだ。己こそが求職者のメシアと言わんばかりの、胡乱な眉の動きをしてくる。
「どんな洗脳をしてるんです」
「物も言い様さ。教えてやってるのさ」
「ありがたくない言葉を?」
「オレは教祖じゃないんだよ。ただアイツらが、社会のせいでどんなひどい目に遭ってるかを教えてやってるのさ。そこまで落ちぶれたんだ、恨んだって至当だろう?」
この男の第一目標が、施設の者たちに社会を恨ませることだとしたら、つきまとう疑念は『理由』の一点である。
「あなたは何者ですか。どうしてこんな無意味なことをします」
私の質問のあとには間があった。男はペースを掌握し続けるように、呼吸を一定に保っていたのだ。
「それを聞いてどうするね? 無意味かどうかは、兄さんが決めるんじゃあない」
男の言うとおりだった。聞いてしまっては、後戻りはできない。その答えがえげつなかったら、私の心に永遠とへばりつくだろう。男なりの忠告だとすれば素直に聞き入れるべきなのだ。私だって馬鹿ではないと自負している。
ここで、くるり背を向ければすべては元通りだ。
「……いや」
だのに足が動かなかった。男に次の一声を許してしまうのだ。
「残念だけど、現金なんて浅ましいモンは腐るほど余ってるんでね」
返答よりも先に疑問が浮かぶ。私の思考が鈍り、男に隙を見せてしまった。
「もし。もしだ、犯罪を起こすように仕立て上げられ、ムショにぶちこまれ、署内でお勤めして、更生して社会に帰ってきたらどうだ。よっぽど合理的じゃないか」
「馬鹿なことを。刑務所の連中は誰の金で生かされてると思って……」
「でも兄さん、今は働いてないだろう」
「税金は嫌でも払います」
私は抗えない自分に見切りをつけ、武器を抜くかのようにスマートフォンを取り出した。思い浮かべた番号は三ケタで、二種類の数字しか使わず、さらに他人とおしゃべりできる機関だった。
「通報するか? 学がないんだよオレは、一体どんな罪か教えてくれるかい?」
強い味方をバックにつけたつもりだったが、なぜか一言で行動を制されてしまった。学がないのは私の方だった。
「それは……」
「兄さんは、人の幸せに干渉ができるのかい? いや、誰もできないさ」
男は食ってかかってきた。
「は……犯罪を行う方がおかしいんです。要するに、あなたが私につきまとったのは、こういう理由だったんですね。入信ならお断りしますよ!」
私は魔の手を振り払おうと必死だった。
大声を出せば優位に立てるわけではない。逆に大声を出すのは、己を強く見せたいからだ。どうやら、私はペースに乗せられていたようだ。
「兄さんに無理強いはしちゃあいないよ? ただ、それだけ現代人は追い詰められてるんだよ。人が犯罪に走る動悸が今ここにある。それだけだ」
求職者、休職者、失業者。
この三者に、各々の意味があったとしても、すべては仕事に就いていない括りに属する。我々が欲しかったのは、職ではなく自分に賛同してくれる人間だったのか? まだわからない、答えが出なかった。
では求めていたのはお金ではなく、慰めだったのか。そのためだけにチープな悲劇を探し、そしてすがりついていただけとでも言うのだろうか。
「オレと一緒に居れば、みんなハッピーエンドなんだよ」
にやつく男は、胸ポケットからはみ出す、潰れたソフトパックを手に取り、一本を取り出すと火を点けた。むせながら、生い先を映し出すような仕草で。
「まさかとは思いますが、ここの信者たちは……あなたが面倒見てると?」
紫煙が消えてゆく。現れては消えてゆく。さながら人の一生の早回しだった。
「さっきも言ったが金はある。それに人間は、大まかに分けて犯罪者と一般人の二種類が居るだろ?」
「なにを馬鹿な……大まかに分けたら、男と女でしょう」
「生物学的な話じゃあない。お利口さんの答えなんか要らないんだ。オレには常識はよくわからないんだよ」
一般人と犯罪者の違いなんてないのだ。基本的に人間はどちらも同じである。だからこそ、人間を二種類に分けるならば強者と弱者が正解なのだ。
この男がやっていることなんて、『
「葛藤ってやつさ。煩わしいモンが生き甲斐なのさ」
「えっ……」
男の声で我に返ることができた。男の声が『歓迎の声』として迫っていたからだ。
私は咄嗟に、握り締めた拳を自分の太ももに打ちつけた。二度、三度、四度――右足に力が入らなくなってきた。
きっとあとで、青なじみ(方言。一般で言う青あざの意)になるだろう。お陰で、意識を男の思想から逸らせた。
「な、悩んでません。夢ならとうの昔に捨てた。今は職に就くことが第一目標です。俺は、ここに居る者たちとは違う! 求めてるものも違う!」
「そこさ。さて、何が違う?」
私は無我夢中で意識を取り戻したが、結局ふりだしに戻された。
「そ、それは!」
連中との差異――生きる希望とか明日へ向かう勇気とか、鳥肌が立ちそうな発想はない。家族や知人の有無、私有財産の差、食生活。どれもこれも、連中と変わりないだろう。
さしあたり、共通点といったら社会からのはみ出し者という点だ。
この世が仮に『一般人』と『犯罪者』の二択しかなかったら、私は後者に含まれるのだろうか。罪状は、働かない罪か、親不孝罪か、彼女ができない罪か、言い出したらきりがない。
「答えられないか」
「……答える必要はありません」
私は言いきった。なぜならこれは、会話などではないからだ。相手を言葉で言い負かしたかどうかの、満足度を競っているのだ。男をどかせば、現実に戻れる。仕事を求めるだけの、苦痛に満ちた世界へ。
一歩が重い。
二の足を踏んでいるのではない。
四の五の言っていないで逃げなくては。
五里霧中になる前に。
けれど、本当は施設の連中から得られるものが――本当はあるのかもしれないと、自身で
しばらく間があった。男が、白と黒を混ぜ合わせた空を眺めたあと、「おっと」と、わざとらしく声を上げ、ズボンのポケットから厚さのある長方形を地に落とした。初めは目を疑ったが、見れば見るほど『それ』は私の欲求を駆り立ててきた。
男が地面に落とした(捨てた)のは紛れもない札の束だったのだ。ゴムでまとめられた、一センチから二センチほどの一万円札である。
「ああ、すまんね、オレは腰が悪いんだ。ちょっと拾ってくれないか? 拾ってくれたら礼として、その半分――いや、四分の三をあげるよ」
どうして私は震えているのだろうか、自問した。世間は初夏に差しかかっているのに、身の毛立っていた。業務用冷凍庫に半袖半ズボンで放り込まれたかのように、顔から太ももにかけてのラインに鳥肌がひしめいた。謝礼の数十万に怯えていた。
「俺――わ、私は拝金主義じゃありませんよ」
物乞いなんてまっぴらごめんだった。ましてや、男を突き飛ばして全額を奪おうなんて考えていない。思いついただけで、決して行動に移すわけがない。
――お金が欲しい!
「冷たいねえ。オレを突き飛ばして拾えば全額手に入る、なんて思ったかい?」
「しませんよ! いい加減にしてください! 俺を……いや、人々を弄んで楽しいですか! 自分で拾ったらどうですか、釣り銭口を漁るように腰を屈めて!」
余韻はすぐに風にかき消された、私の主張を拒むかのように。
「――あたしが教えてあげるわ」
にわかに背中で捉えた音があった。美人という表面的な意識以外、すべてがぶっ壊れていそうな先ほど女の肉声である。そいつはまるで奇襲のように、自然と会話へ介入してきたのだ。
そのうち空気のように場に馴染み、端から三人で会話を進めていた錯覚に誘われた。受け入れたくはなかったが、私は人として受動した。
「……何を」
「さっきの答えよ。ほら、あたしたちとあなたの違い」
にやつきながら女は歩み、男の目前で膝を折った。札束をそっと両手で包むと、男に手渡した。どうも見返りを求めている風ではなかった。男へ一礼すると、すぐに私を睨みつけてきたのだ。
「あなたは他の人と違うと思い込みたいだけなの。人々の中に紛れるのを恐れてる」
気に入らない言い分だ。会って数分の他人に性格を決めつけられれば、誰でも憤るに決まっている。
「俺はこれでも以前は就職してた。社会不適応者という仲間意識はやめてほしいな」
「えー? あたしだって、そのくらいできるもん」
この女が語る『そのくらいできる』は、せいぜいスーパーでの買い物程度だろう。ニンジン、ジャガイモ、タマネギ、ブタニクを購入できたことで一般人を気取っているのだ。こういう奴こそ、しれっとカレールーを忘れるに決まっている。
――私も決めつけだろうか? 構うものか。
「だって、こないだ、店員さんと、二分も、お話したし」
女の笑顔にぞっとした。
女がたどたどしく語る行動履歴と、私の予想(決めつけ)がほぼ一致したあと、ようやく自分が馬鹿だったと悟った。余計な思索をするからこうなるのだ。いかれた人間なんて端から相手にするべきではなかったのだ。
「でも、ここでは自分の弱さを偽る必要もないの。あたしたちはみんな目的を持って、そしてみんなで団結して、ひとつのことを成し遂げようとしているんだから。世界のみんなが、そうだったら素敵じゃない? そうすれば、いざこざなんて起こらない。そんな世界をあたしたちは作れるわ。それにはちゃんとした礎が必要で、やっぱりみんなが――」
女の思想もたけなわの頃、限界を感じた私は意識的に『人』から目線を外した。
帰宅へ意識を向けた私を見据えるように、短くなったタバコを咥えた男は、お世辞にも綺麗とは言えない黄色がかった歯を見せた。
出口へ向かおうとする私を見送るかのような視線は、もはや女の言い分には興味を持っていないように、一種の育児放棄にも見えた。
「兄さん? その一歩が正しかったかどうか、あとで教えてくれよ」
「……失礼します」
男に一礼して、私は異界をあとにした。
彼の『人を救う第一歩』は明らかに偽善ではなかった。そうであれば、どんな形であっても、彼を慕う者たちは喜んでいるのかもしれない。
施設内からは、依然として人の執念を具現化した化け物の咆哮が聞こえてきた。おぞましい重低音は、地鳴りを起こしているかのようだった。
あの男には情があった。一般人――私のような者には、到底理解できない恩情が。
「……はははっ。関係ないし」
国道の横、軽い足取りで帰路につく途中、背中の鳥肌は消えていた。きっと、車の騒音さえ心地良かったからだ。現実に戻ってきた証拠は、不快にあった。
私は一切関与しない! あいつらが何をしようと無関係だ!
言い聞かせない限り、連中が起こそうとしている『何か』も、人が秘める善行や悪業の良し悪しも見失ってしまいそうだった。通報なんて馬鹿げている。好きなようにやらせてれば良い。
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