春の夜とお茶漬けの味〜改訂版〜

三文士

春の夜とお茶漬けの味

春になるとどうしても、茶漬けが食いたくなってしまう。


なぜかは分からないが、おそらくこの中途半端な気候のせいだろうと思っている。暑くもなく寒くなく。また暑くもあって寒くもある。そのクセ、妙に気持ちが浮き足立ってしまう春。そんな春が、僕に茶漬けを欲させる。





茶碗に盛った白いめし。多過ぎず、少な過ぎず。飯から湯気が出なくなるくらいまで、しばらく冷まして置いておく。茶漬けに熱々の飯は野暮やぼだから。


その間に出汁だしの用意。


茶漬けには緑茶や番茶を飯にかける文字通りの茶漬けと、かつお節や昆布でとった出汁をかける出汁茶漬けのふた通りがある。出汁なのにどうして茶漬けと呼ぶのだろうか。今をもって不思議である。


ぷくぷくと沸いた鍋の中に、たっぷりひと摑みのかつお節をはなす。湯の中で泳ぐかつお節を見ていると、秘かに心躍るものがある。かつおのいい匂いがぷうんと鼻をくすぐってゆく。一煮立ちしたらかつお節を取り出し、醤油をほんのひとまわし。酒を少々。適当なところで火を止める。出汁はこれで完了。


香の物を用意する。春とは言えまだ寒い。カブの美味いやつが残っていた。自家製のぬか漬けなら一番だが出来合いのものでも構わない。程よく塩が効いていればそれでいい。


出汁と飯は必ず別にしておくこと。食べる直前にかけるのが美味い。飯の上にはちぎった海苔とわさび。三つ葉があればなお良いが、なくてもべつだん構わない。


出汁と飯と香の物。その3点を盆に乗せベランダの戸を開ける。全開の戸の前に胡座あぐらをかく。外から春の夜の独特な冷たく湿った風が流れ込んでくる。そいつを顔で受け止めて、茶漬けをいただく。



あっつあつにした出汁を、飯にかける。


じじじっ、と出汁の染みる音がする。


熱くなった茶碗を持ち上げ、まずはひとくち。


ずずっ


ずずっ


熱い。だが美味い。


次は海苔とわさびが乗ったところを頬張る。


はふっ


はふっ


海苔とわさびにかつお節。それに醤油と米の味。この組み合わせで不味いわけがない。とにかく美味い。


ここらでちょうど良い温度になってきたので、一気に駆け込みを始める。茶漬けはやっぱり、かっ込まなくっちゃ美味くない。



しゃぷしゃぷしゃぷ



しゃぷしゃぷしゃぷ



はぁっ


はぁっ



しゃぷしゃぷしゃぷ



しゃぷしゃぷしゃぷ



ただただ美味い。垂れる能書きは無く、ただこうべを垂れて貪るのみ。



しゃぷしゃぷしゃぷ



しゃぷしゃぷしゃぷ



すっかり口の中を火傷したところで、カブのことを思い出す。



すっ



しゃくっ



カブの香の物はコリコリとかポリポリとはいわない。ただ控えめに、しゃくっ、とだけ。キツめにきいた塩がカブの甘みを引き立たせる。また米の飯が欲しくなる。



しゃぷしゃぷしゃぷ



しゃぷしゃぷしゃぷ



灯りの消えた狭い部屋に、茶漬けの音が響き渡る。


開け放した戸からくる冷気のせいで部屋はすっかり冷えていたが、吐息は白く熱を帯び、まるで茶漬けの湯気だった。


やっぱり茶漬けはただただ美味い。





また別の春の夜に、ひとり茶漬けを食っている。


出汁の時とは違い、今夜はシンプルに飯と番茶だけ。お供はとびきり塩辛い干鱈ひだらのみ。


干鱈は読んで字のごとく、塩漬けにして干したタラのこと。こいつは元来酒の肴だが、茶漬けの共にもちょうど良い。


そのまま口に入れたら眉間に皺が寄るくらいの塩辛いやつが、茶漬けには何とも言えない味を出す。


熱々の番茶と程よく冷めた白い飯。その飯の上に干鱈を乗せ、上から思い切り番茶をかける。茶色に染まっていく茶碗の飯を眺めながら暖かくなり始めた夜風を肌で受け止める。


干鱈の塩が程よく番茶に馴染んだら、遠慮無しに口へ頬張る。



しゃぷしゃぷしゃぷ



しゃぷしゃぷしゃぷ



嗚呼、と思わず声が漏れる。



しゃぷしゃぷしゃぷ



しゃぷしゃぷしゃぷ



干鱈特有の潮の香りと、身に染み込んだ塩の味。潮の香りと塩の味。二つが番茶に溶け出して、控えめな茶の味に奥行きをもたせてくれる。



しゃぷしゃぷしゃぷ



しゃぷしゃぷしゃぷ



単純で奥深い。


干鱈の塩が染みた番茶を最期はひと息に飲んで干す。タラの出汁も溶け出して、えもいわれぬ美味さである。


嗚呼。


やはり茶漬けは、ただただ美味い。





また別の夜。



しこたま飲んでしまった夜。付き合いで出席した宴席だったが、高級そうな料理に手も着けられずひたすら酌をし、されるばかり。


結局、酒以外なにも口にできなかったが帰り際に年増の中居さんが折り詰めをくれた。


「お箸を使っていらっしゃらなかったようなので、差し出がましいとは思ったんですが、少しだけお料理を包んでおきました。手前どもの料理人の味をみてやってください」


中身を訪ねると、かき揚げと煮しめだそうだ。


これはしたり。煮しめは明日食べるとして。


かき揚げがあるなら天茶をやろう。




天茶はかき揚げに限る。海老天や茄子の天ぷらでもできるそうだが天茶と言えばかき揚げだ。


出汁をとってもいいのだが、今夜は面倒だから粉末のこんぶ茶を用意する。


飯は冷凍がなければコンビニで買ったものでいい。主役はあくまでかき揚げだから。


湯を沸かして茶を淹れる。ここは気取らずいつもの煎茶がいいだろう。


かき揚げは食べる前に少しだけオーブントースターで温め直す。表面がほんのりカリッとしてきたらすぐに取り出す。


例の如く冷ました飯にすっかり生き返ったかき揚げを乗せ、その上からさらにこんぶ茶の粉末をかける。さらさらさらと、まんべんなく。


海苔か三つ葉かワサビを添える。あればいいがなくてもいい。主役はかき揚げ。しつこいくらいに。


上からあつあつの煎茶を回してかける。



ぷちぷちぷち



ぷちぷちぷち



煎茶にコロモの溶ける音がする。煎茶の中にかき揚げの油がぱあっと広がっていく。それがまた美味そうでなんとも言えず食欲をそそる。


箸で押してかき揚げの端っこを煎茶に浸す。



ぷちぷちぷち



っと音がする。


ひたひたになった端っこを飯と一緒に一気に食う。



ずずずずず



ずずずずず



うん。美味い。



かき揚げの中の小海老から、美味い出汁が出る。揚げ物も汁に入れるとえも謂れぬ旨味になる。小海老がこんぶ茶と相まって、これがまたじつに美味い。



しゃぷしゃぷしゃぷ



しゃぷしゃぷしゃぷ



今度はまだ浸ってないところをカリカリのままいただく。


サクッ



サクッ



うん。美味い。


溶けきっていないこんぶ茶の粉末が抹茶塩の代わりになっていい具合だ。これだけ時間が経っても美味いんだ。あそこの板前さん、いい腕してる。



しゃぷしゃぷしゃぷ



しゃぷしゃぷしゃぷ



半分ひたひたと半分カリカリ。その狭間はざまの部分、美味しいとこどり。カリッとしてて、ジュワッと染みて。月並みだけど、とにかく美味い。



しゃぷしゃぷしゃぷ



しゃぷしゃぷしゃぷ



海老と昆布はどっちも故郷が海だから、こんなに相性がいいのだろうか。


かき揚げだけならサクッと終わりだが、天茶にすれば茶漬けも食えて二度美味い。


すっかり天茶を平らげたら、傍らに用意しておいた氷水をひと息にあおる。酒と天茶で熱くなった身体が急速に冷えていく。こめかみあたりにツンとしたものが来て、ゆらゆらしていた意識がはっきりとなっていくのが解る。


ああ。と声にならないため息が出る。


酔い覚めの水、値千両。とはよく言ったもので、極上に美味いかき揚げの天茶がそれを更に感じさせる。


だからつくづく、茶漬けは美味い。




またまた別の夜。



ベランダから見える桜の木がすっかり花を咲かせている。今夜は春のど真ん中。


しかし今夜は珍しく、茶漬けではない。盆の上には冷めた飯。そして急須きゅうすに入ったお湯である。湯漬ゆづけをやろうというのだ。お供は塩昆布と、きゅうりのぬか漬け。



用意なんて手の込んだことは無い。ただ飯を茶碗に盛り、ただお湯を沸かすだけ。あとはいつもと同じように、飯にかけるのみ。


白い飯の上にかける白湯さゆ。そこに塩昆布をぱらり。昆布の塩が溶け出す前に勢いよくかっ込む。



しゃぷしゃぷしゃぷ



しゃぷしゃぷしゃぷ



はふっ



はふっ



外気が暖かくなってきたせいか、余計に湯漬けが熱く感じる。



しゃぷしゃぷしゃぷ



しゃぷしゃぷしゃぷ



米と白湯。淡白極まりない茶碗の中だから、昆布の塩気と旨みがひときわ目立って美味くなる。


間髪入れずにきゅうりのぬか漬けを掴もうとしたその時、真っ白な指がにゅっと伸びてきた。指はきゅうりをひと切れ掴んでいってしまう。


「あっ、ドロボー!」


と言いかけて止める。目の前には彼女の不機嫌そうな顔。


「呆れた。さっき外でご飯食べたのに。またそんなお茶漬けなんて食べて」


彼女はもうひと切れきゅうりを奪っていく。


「湯漬け」


「え?」


彼女は怪訝な顔をする。


「茶漬けじゃなくて、湯漬け」


一瞬困ったような顔をする。


「ふうん」


べつだん興味無さそうに、彼女はひと言そう言った。


「あたし、お茶漬けって嫌いだわ。なんだか貧乏臭くって」


思わず顔が緩んでしまう。茶漬けを食う男の前で、「貧乏臭くて嫌い」だなんて。まるで映画みたいなことをいう。


「そう。俺は好きだな」


とだけ言ってまた黙々と湯漬けをかっ込む。



しゃぷしゃぷしゃぷ



しゃぷしゃぷしゃぷ



彼女はきゅうりを頬張りながら、黙って桜を眺めている。



しゃぷしゃぷしゃぷ



しゃぷしゃぷしゃぷ



彼女が茶漬けを嫌いでも、僕らは夏に結婚する。



しゃぷしゃぷしゃぷ



はふっ



はふっ



残った白湯を流し込むと、まるで喉を春の小川が通っていくようだった。さらさらと、ただ流れていくのが気持ちいい。



しゃぷ



しゃぷ



しゃぷ



嗚呼。



春の夜に食う茶漬けは本当に美味い。


茶漬けは素直で、淡白で。


受け手の広い飯である。


やはり茶漬けはただただ美味い。




ある日の午後。いつもの窓から外を眺めている。


桜もすっかり散ってしまい、枝々には新緑が芽吹いている。半袖のシャツで寒さは感じず、心なしかほんのり汗ばんでいる気もする。


昨日夕方、ダンボールに包まれた大量の荷物が届いた。中身はまだ開けていない。僕は今、この窓から見えるあの道を歩いてやってくるはずの彼女の姿を待っている。


顔にかかった湿り気のある風が妙に心地良い。


もうすぐこの家に、彼女と夏がやってくる。



しゃぷしゃぷしゃぷ



しゃぷしゃぷしゃぷ



頭の中に茶漬けをかっ込む音が聞こえる。


あの春の夜に食った茶漬けを思い出して、僕は不思議な満腹感に包まれていた。


次の春もきっと僕は茶漬けが食いたくなるだろう。



やはり茶漬けはただただ美味い。



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