映画館の見た夢

工藤 流優空

第1話

 真夜中。シャッターが全て降りたスーパーマーケット。静けさが包むその空間を、一つの足音が切り裂いた。足音は、スーパーの外側に取り付けられた専門店へと続く階段を上がる音だった。


 階段を上りきると、そこは小さなバルコニーのようになっていて、簡易喫煙所が設けられている。煙草の吸殻が溜まっている吸殻入れ。隣には、小さな箱が置いてある。アルミ製のその箱には紙が貼りつけられていた。


「映画館へお越しのお客様は、備え付けの紙の裏にご希望の作品名を明記のうえ、箱の中にお入れください」


 走り書きの汚い文字。それを見て、先ほどの足音の主である少年はごくり、と唾を飲み込んだ。


 噂は本当だったんだ、本当だったんだ。……その現実が彼の頭の中で理解できたとき、彼は箱の上に置かれていたペンを何の躊躇いもなくその手に握りしめたのだった。


 「存在しない映画館」の噂は、少年の学校では、まことしやかに語られてきたあまり有名でない噂だった。その噂の内容は、しごくシンプルだった。


「スーパーの中にあったずいぶん昔に潰れた、映画館が真夜中にだけ現れる」


 噂の大筋はそれだけ。しかし映画館に入場する方法の噂も存在していた。


「上映してほしい作品名を記入する箱があり、その箱に作品名を書いた紙を入れることで、映画館へと続く道が開く」

 

 というものだった。しかし、元々この噂を信じる者は少なく、また面白半分に試した人間はいくらか少年の学校にもいたようだが、その全てがことごとく失敗に終わったようで。今では誰も、少なくとも彼の通っている学校で信じている者はいなかった。そう、この少年以外は。少年は、幼いころこの映画館で何度か映画を観た。最初は、近くにある映画館がここしかなくて、それで仕方なく、当時でもすでに古ぼけていたここにあった映画館で観たのだ。しかし。今近くにある大きな映画館とは違った魅力が、言葉では形容できない魅力が、その映画館にはあった。もちろん、それは無くして初めて気づく心の痛みでもあった。

 スクリーンはたった一つ。チケット売り場の受付も一つだけ。チケット売り場の窓に劇場グッズなどの販売リストが貼ってあって、ほしいものがあれば、チケットを買う時、受付のおばちゃんに頼む。チケットもぎりの係員もいなければ、劇場内にいるポップコーンやらナチョスを薦める係員も、上映中の注意事項を大声で話す係員もいない。静かで映画に集中できる空間。それが彼の知っている映画館の姿だった。


 しかし、スクリーン一つの映画館がつぶれた後、彼の近くにできた映画館、そしてそのほか彼が夏休みなどで観に行く映画館は、その「当たり前」の概念を全て覆してしまった。

 大きなスクリーン。それが幾つもの部屋に配置され、作品の人気によって大きいスクリーン、小さいスクリーンと振り分けられる。椅子の数も、それこそミュージカルでもやるかのような数が並んでいる。売店とチケット売り場は別だし、チケットもぎりの係員もいる。スクリーンで映画本編をやる寸前に、散々上映中のマナーについての注意事項を説明するCMを流して観客を焦らす癖に、劇場内でスタッフがわざわざご丁寧にそれとは別に口頭で繰り返し説明してくれるところまである。


 しかし、彼自身もその映画館に次第と慣れていき、いつしか小さくて古ぼけた映画館の存在があったということすら忘れてしまっていた。彼がその小さな存在を思い出したのは、その映画館で観た作品をテレビで見たからだった。それを見て、彼は記憶の隅に引っ込んでしまっていたその存在を思い出し、そしてそれにまつわる小さな噂を、思い出したのだった。

 こうして彼は今、噂の真夜中の映画館を訪れるべく閑散として冷たいシャッターの降りたスーパーの二階の前にいる。古ぼけた小さな映画館、その映画館で作品を再び見たくて。彼は握りしめていたペンをくるり、と一回転させて、あの思い出の作品の名前を綴った。そして、その紙をしばし見つめたあと、箱の中に放り込んだ。そうして、祈るようにしてゆっくりと箱のふたを閉じた。するとスーパーに取り付けられているスピーカーから声が聞こえてきた。


「このような真夜中に、ご足労頂き感謝感激です。只今シャッターを開けますので、しばしお待ちください」


 その声が途切れるとシャッターがゆったり開き、フロアが見渡せるようになった。フロアの電気はついており、元は映画館があった場所、今は音楽教室のある位置に、まるでその場所だけ時が戻ったかのように、そしてまるでそこにあるのが当然であるかのように、映画館があった。隣の塾やダンス教室は今現在の姿のままであるのに。映画館だけが、昔のままの姿を保ち、異彩を放っていた。

 少年は、半ば映画館の姿に魅入られるようにして、少しずつ歩を進める。そして懐かしい、古ぼけたチケット売り場の前に立った。そこには、ちゃんと人がいた。しかしそれは昔よくいたおばちゃんではない。あのおばちゃんよりは、随分若い女性だった。女性の傍らには、高く積み上げられた本の山とノート、筆箱が乱雑に置かれている。女性は、少年の姿を認めると、すっと微笑んだ。


「ご希望の作品は、こちらでよろしいですか」

 女性は首を傾げて尋ねてくる。そしてガラス窓の隙間から、チケットを差し出す。そこには、先ほど彼が書いた作品名が印字されていた。少年が頷くと、彼女は体を少し乗り出してきた。


「ちなみに、貴方はこの作品を当劇場でご覧になりましたか? もし別の劇場でご覧になられたのでしたら、こちらで「再現」することは出来ないかもしれませんのでご了承ください」


「『再現』?」


 今度は少年が首を傾げる番だった。すると女性は慌てて付け足す。


「あ、えっと。……そうですね、どうお伝えしたらよいのか……。すみません、あまりお客さんが来ないものですから。この劇場について、詳しく説明をする機会が、今までなかったのです。ですから、もし今からお話しする内容が分かりにくければ、教えてください。出来うる限り、分かりやすい言葉に変えてお話しますので」


 彼女は一呼吸おいて、話し始めた。


「この映画館は、ご存知の通り何年も前に閉館しました。それが真夜中に、必要な人の前にだけ現れるのか。それはこの映画館の「記憶」を私が媒介して繋ぎとめ、「再創造」しているからです」


 難しいことは省きたいので、シンプルに言うと、と女性は苦笑しながら言った。


「この映画館の想いが、記憶が、この場所には残っていて。その気持ちを共感できる者だけがここにきて、映画を観ることができるのです。ですから、この映画館が体験したもの、つまりこの映画館で上映された作品しか見ることができませんし、ここで一度も映画を見たことがない人は映画を観ることができません。そして何より」


 女性はここで言葉を切り、真剣な表情で少年を見た。


「面白半分にここを訪れようとする野次馬根性のお客さんは、お客さんではないのです。ですので事前に入場をシャッター前でお断りさせて頂いてるのですよ」


 彼女の説明を聞いてもまだまだ分からないことはあった。閉館したはずの映画館を復活させているこの女性自体がどういった存在なのか、など。しかし、少なくとも噂は本当で、チケット売り場まで辿り着いた者が少なかった理由は、彼にも理解できた。

「映画を観るのには、貴方と、そして映画館……、彼の記憶だけあればいい。貴方の記憶を元に、「彼」が勝手に映画を上映してくれるでしょう」


 そう言って、女性は窓口から出てきてスクリーンのある劇場へと続く大きな扉を開く。そして、少年を招き入れながら言った。


「ようこそ、当劇場へ。ごゆっくりとお過ごしください」

 少年は劇場へと足を踏み入れた。その空間は、幼いころ彼が映画館へ来たあの時と、同じだった。埃っぽい座席、狭い室内、小さくて横長のスクリーン。それから、後ろにある、これまた小さな映写室。その懐かしい姿を目にしたとき、彼の眼には、自然と涙があふれた。少年は、涙を拭って中央列の中央の席、彼が最後にこの映画館で映画を観た際に座った座席に腰を下ろした。女性も当然のように劇場へ入ってくると、彼の斜め後ろの席に腰を下ろした。少年は後ろを振り返って聞く。


「窓口は、無人でいいんですか」

 すると、女性は軽く少年に向かって頭を下げる。


「お気遣い、恐れ入ります。当劇場は、一日一作品、一組様限定で上映することをルールとしております。……どうぞ、ごゆっくりお楽しみください。私も、じっくり鑑賞させて頂きます」


 そうして女性は少年ににっこり微笑んで静かに言った。


「さあ、映画が始まります。貴方と、彼の記憶と共に……」


 その声と同時に映画開始のブザーが鳴り響いた。するとなぜか二人しかいないはずの劇場に人が現れ始める。彼らは、まるで自分の席を知っているかのようにすぐに席についた。人が全て座席に座った後、スクリーンに映像が流れ始める。スクリーンに目を向けながら彼は考えた。そして、気づいた。この空間自体が少年自身の記憶であるということに。隣に座っているお客や斜め前で頭をかく男性の姿はあの時の記憶と同じだ。映画館が彼の記憶を元に、あの日のあの上映を再現しているのだ。少年は、答えを知ることで満足し、作品を観ることに専念することにした。


 映画が終わると女性は立ち上がり、扉を開けてくれた。少年はしばらく、映画を観終わった余韻で、立ち上がれずにいた。彼はやっと我に返ったあと、素直に感じた疑問を投げかける。


「映画館の記憶と想いを繋ぎとめて再現する君は、一体……?」

 少女はふふ、と笑って答えた。

「私? 私は貴方と同じ、この映画館を愛していた人間の一人だよ」

「それだけ……?」

 首を傾げた少年の肩を、女性は軽く叩いて言った。

「冗談と思うか、信じるかは貴方次第。……だって、ミステリアスな方が、楽しいでしょう」


 こうして映画館の一日は、終わる。明日はどんな作品が上映されるのか、それとも上映されないのか。それは映画館にも、女性にも、今日のお客さんだった少年にも分からない。


 それは映画館が、この映画館が好きだったという女性に人知れず、頼んで見せてもらっている永遠の夢……なのかもしれない。

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