最終章 4/4 〈この町で。〉

 お盆には早いが暁登の墓参りで彼に謝った。

 許しなんて求めてない。ケジメだから。本人が生きていたら殴られていただろうし、殴って欲しかった。

 同窓会の参加の返答も投函した。不安しかないがなんとかなるだろう。

 彼女に言われたやるべきことを終えて数日後の夜。榊木町は花火大会を開けていた。

 私は自宅の二階の瓦屋根から花火を眺めている。

 毎年夏祭りに矢部川河川敷から上がる花火は、藤棚で屋台のかき氷やたこ焼きを食べながら河川敷から見上げるのもいいが、私は昔から自宅の屋根から見るのが好きだった。

 大勢の人間がいるところが苦手なのもあった。

 また一つ花火が上がる。

 花火を華やかに思うのは、誕生の瞬間に焼き付いた記憶が忘れられないからだろう。混沌からこぼれ落ちたとき、はじめて目の当たりにする、己もその一部だったはずの巨大で広大で圧倒的存在を覚えているからだ。

 混沌の権化。

 それは世界の誕生であり、終末だ。

 私たちは喜びにしろ絶望にしろ、感動をはじめて体感したのだ。

 つまるところ、花火とは、自己の再認識だ。最後は燃え尽きて消えてしまうところなんか、お似合いだ。

 いけない。卑屈が混じってしまっている。

 私はため息で気分を改める。せっかくの賑やかな雰囲気が台無しになってしまう。

 二日にわけて準備した祭りがようやく開催されているのだから、楽しむことに努めよう。

 今ごろ百合ちゃんは、母親と一緒に祭りで楽しんでいるだろう。宏太もいるかもしれない。この日のために準備していたお気に入りの赤い浴衣を着て、遠慮がちに笑みを溢しているところだろう。

 実際に見ていないが、そうだとわかる。

 彼らが人らしい日常を送れていることを、誇らしく自惚れる。

 グラスの麦茶を一口飲んだ。

 隣に有子が居てくれたら、たまの昔話を、今なら素直に楽しく話せたのかもしれない。

 花火の上げられるテンポが早くなっていく。どうやらもう夏祭りは終わりのようだ。夏はまだはじまったばかりだというのに、穏やかに気分が落ち着いていた。



 最近記憶が飛んでいる。

 足が地面から剥がすみたいで歩きづらい。蝉の鳴き声に隠れて、足下からべりべりと音が聞こえている。

 八月初旬。真夏の昼間を、私は軽装で散歩していた。日差しは強いから、たぶん今日はかなり暑い。

 夏の鬱陶しさは今年も変わらずだが、この町が閉鎖的で退廃的で、過疎なのも変わっていなかった。

 それでも変化らしい変化は確かにある。

 めざましいものを見つけると、特に実感するのだ。

 丹波百合。

 今年で確か中学一年生だったか。まだ成長途中なのだろうが、私の目にはすっかり成長してしまったようにも見える少女がいた。夏服使用の白と紺のセーラー服がよく似合っている。

 彼女とこうして出会えるのも久々、なのかもしれない。


「やあ。元気そうだね」

「……」


 いつかの無表情ではなく、言葉に悩む少女だ。そんな彼女を嬉しく思う一方で、申し訳なくも思う。私は、百合ちゃんに哀しんで欲しくて声をかけたわけではないのだから。


「学校は夏休みのはずだけど、何か部活動でもやっているのかい」

「私は部活をしてないです。今日は、学校では勉強をしていました」


 なるほど。どうにも彼女と会うのは久しぶりのようだ。

 数日、あるいは一ヶ月。最後に百合ちゃんと話をしたのはいつだったか。あのときは春先で百合ちゃんは紺のセーラー服を着ていた。進学したのを知って、祝いの決まり文句しか言えない自分を恥じたのだ。そのあと、彼女に謝られた。

 いや。あのとき以外も見かけることはしていたはずだ。確か、梅雨の時期、夕方に母親と一緒にスーパーで買い物しているのを見つけている。

 私の日常の記憶が穴だらけなのだ。気がつけば一週間以上の記憶がないことなんてもはや珍しくもなくなっている有り様だ。


「宏太君は一緒じゃないのか」

「今日はバスケ部の練習がありましたから」

「…………」


 まいったな。話が続かない。

 これは私に問題がある。気が利かないし、話もうまくないからだ。年下の彼女にうまい話を求めるのは、大人としてもどうかと思われる事態だ。


「一緒には帰らなかったのかい」


 小学生のような子どもの頃でもなければ、昔のように一緒にいたい誰かと歩くのも難しくなるのは、いくら私でもわかっている。当人たちの問題であまり踏み込むものでもないだろう。

 ただ、彼女たちの今の関係性を知るための手段が他に思いつかなかったのだ。


「はい。宏太は、友達と一緒に、友達の家に寄っていくそうです」

「一緒に行けばよかったのに」

「……そうですね。でも。私は、そういうの、苦手だから。友達も、宏太以外よくわからないし」


 言葉を選びながらでたどたどしい印象だが、百合ちゃんは私と会話しようとしてくれていた。

 宏太以外の友達と帰っていないところから、彼女がひとりであるのは、言葉で聞かなくても窺えていた。昔から誰かと遊ぶのことに慣れていないと、ひとりのほうが気楽なのだろう。


「バイト、」

「うん?」

「バイトしてるそうですね。その、……調子、どうですか」


 中学生の女の子に気を遣われてしまっている。

 本格的にダメな男だ。有子が見ていたら間違いなく後で軽く説教だな。

 彼女に喫茶店〝月の黒〟でアルバイトをはじめた話をした覚えは無いが、どこかで話したのだろう。


「調子良いよ。マスターもいい人だし。最近はカウンターでコーヒーも入れさせてくれるようになったんだ。あと、メニューもね。僕が作った野菜を出していいようになったんだよ」

「はい。野菜の話は前に聞きました。今度、行ってみていいですか」

「いいよ。そのときはごちそうするよ。まだちゃんとお礼したことなかったし」

「っ! いいえ! ちゃんと自分で支払います。お礼だなんて、私は、何も……あなたを……救えなかった」


 失敗した。

 心からの言葉だったが、言わない方がよかったものだ。

 私が感謝していても、百合ちゃんは悔やんでいるのだから。私の望んだ結果にならなったのは事実で、それでも私は満足しているのに。この子は、まだうまくできたはずだ、と。


「ごめんね。まだ知人を招いた事なんてなかったからさ、そういう意味で受け取って欲しい。私の気に入っている店でもあるから百合ちゃんも気に入ってくれると嬉しいな」

「……あの、お母さんと来ていいですか」

「構わないけど。その時は、私のおごりにするなら、ちょっと事情の説明がいると思うよ。財布拾って貰ったことにしていいかな。免許証の顔写真でわかったということで」


 中学生の娘におごる二十代の男は、もしかしたらあらぬ誤解をされるかもしれないからだ。母親の亜美さんとも顔を知らない仲ではないのだが、娘が関わってくると話は別だろうし、何より気を遣わせたくなかった。

 それに、宏太君に余計な心配もかけたくない。


「……奢りに、本当におごりにしなくていいです。ちゃんと払います。お願いします」


 まずい。

 頭まで下げられてしまった。いよいよ彼女の心境がわからなくなる。

 ここは一端引き下がろう。百合ちゃんにお礼をするのは別の機会にすべきだと思い直す。


「わかった。そうするよ」

「いつがいいですか。できれば、あなたがいるときがいいです」

「木曜日と水曜日以外ならいいよ。あ。月曜日は定休日だからお店自体が空いてないからね」


「わかりました。じゃあ、今週の土曜日の夕方に母と伺います。ちゃんとお金払いますから、奢りにしないでください」


 誰かに施されることの拒否反応かもしれず、私はこれ以上踏み込めなかった。

 母子家庭の境遇を考えるに、失礼だが、思い込んでいるところがあるかもしれない。


「わかったから。今週の土曜日だね」

「あなたがいてくださいね」

「善処するよ」


 宏太君と一緒に来ないのかと聞くのは無粋だろう。

 この年齢になると、誘うのは特別に意味が帯びてくる。

 彼女のこれから先に誰かが寄り添ってくれるのなら、私はあの少年がいいと思っていた。彼ならば、この子を救えるかもしれない。


「じゃあ。またね。元気そうで安心したよ」

「私もです。必ず、伺います」


 うん、と応えて歩き出す。私は彼女の隣を過ぎた。

 百合ちゃんの視線を背中に感じている。また、謝っているのだろう。もういいのに。私は救われているのだから。

 最近、記憶が飛んでいる。

 私以外の人格が、着実に肉体に芽吹いて活動している。緑の実の人格だ。櫟朝一があとどれらい残されているかもわからない。家に着くころには、たぶんまた眠ってしまうのだろう。百合ちゃんとの約束は果たしたい。

 書付を残して置こう。別人格に配慮して貰わねばならない。

 べりべりと、足を地面から剥がす音がする。百合ちゃんにも、見えていたはずだ。私の軀から根が伸びているのが。もはや八女津姫からは逃れられなくなっていた。

 あの化け物の力が私を支配している。

 ほとんど私というものが無くなっている。正直、百合ちゃんが私を櫟朝一と認識しているのかさえ疑わしいくらいなのだ。私でさえ櫟かどうかなんて、あやふやだ。

 べりべり。うるさい。

 丹波百合の前で高揚していた自分にも腹立たしい。

 八女津姫の支配は着実に私を捉えている。丹波百合の成長を祝福していたのだ。彼女の未来は決まっている。

 八女津姫としての君臨。

 この星に根付く、支配者だ。その時が約束されているのだ。

 なんと。喜ばしいことか。

 苛立ちを覚えながらも歓喜が止められない。もうだめなのだ。

 べりべりと、蝉にも負けない雑音が止まない。家に着くまでの辛抱だ。もうすぐだ。


「……ただいま」


 玄関の戸を開ける。ようやく休めると思ったとき、私の意識は暗転する。別人格に乗っ取られようとしているのだ。

 ……やっぱりね。――――どうしようもないのだ。

 それでも私は救われているのだと思える。後悔もあるし、恨みもあるし、弱音だって吐きたくなる。逃げたくなるし、泣きたくなるし、叫びたい。

 でも私は、救われたのだ。

 何もできなかった人間が、誰かに支えられながらも、ひとりの女の子を救うために、一瞬でも憧れに向かって歩けたのだから。

 だから。

 最期まで胸を張れる。

 誰に誇れるかなんてわからない。

 もしかしたら笑われるかもしれない。

 それでも。

 この町で。は、死んでいくと決めた。

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この町で。 白風水雪 @Minayuki_sirakaze

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