最終章 3/4 〈混沌の名〉
永久の眠りへの最中、人は夢を見るのだろうか。であれば、幸せの籠に包まれて、原初にして源水に還りたい。
僕にはどうやら幸せな夢すら許されなかったようだ。
夢と現実ともつかない空間で、僕はその最奥に引かれている。水中のようだが空気中のように抵抗が少なく、しかし空間全体を粘り気のある何かが満たす不思議な処だ。
最奥に、怪物がいた。
見るに堪えないほど悍ましい
骨がかち合い、音が鳴る。
――しゃん。
怒号のような音圧だが、間違いなく、地上でも霧の世界でも聞こえていた神楽鈴の音だった。こいつの醜い身体が震える度に音が轟いていた。
我らが崇め奉る八女津姫だ。
あんなやつを。
悍ましくて。
醜悪で。
吐き気がするほどに嫌悪感を覚える怪物を、崇め続けてきたのだ。
「は、はは……」
笑いしか出なかった。
僕にまともな身体が残されていたのなら、涙も流れていたのかもしれない。
「あはははははは」
なんだこれ。
こんなの馬鹿みたいじゃないか。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!」
叫んでいた。
後悔、嫌悪、憎悪、恐怖。
すべてを吐き出したかった。
僕に声は出せない。出せる器官がない。
これは僕の意識の、魂の、叫びだ。
完全に目覚めている。アレは覚醒している。古きものに乗っ取られたのだ。
とうに緑の神はいない。シュブ=ニグラスはいない。
我らはもはやあいつから解き放たれる機会を、永遠に失っていたのだ。そうとも知らず。盲信に奉り、供物を捧げてきた。
その結果が、あのざまだ。
明らかに肥えている。
ここでたらふく蓄えて、飛び立つ機会を窺っているのだ。
ちくしょう。ちくしょう。ちくしょう。ちくしょう。
僕の絶望に悔しさの火が灯る。父親の背中がちらつく。
こんなのってあんまりだろ。
これまで重ねてきた我らの哀しみごと、あれは嘲笑って食べ物に換えてきたのだ。
僕もこれからあいつに食べられるしかない。
人としての死を諦めて。せめて憧れに殉じたくて走ったが。
それすらあいつのスパイスにしかならないのだ。納得できない結末を見せつけられて、僕の覚悟はあっけなく砕け散った。
嫌だ。
あんな終わり方は嫌だ。
死にたくない。
僕は死にたくない。
こんな消え方を望んでいない。
だが、抗えない。僕にそんな力は残されていない。
銀の鍵亜種の身体を、あいつが食さない理由はない。
しゃん、と喧しい音が鳴る。
僕を食そうと、環形動物の身体が開かれる。どんなに覗いても深淵しか見えないそれこそ、触手が悍ましく絡み合って作られた穴こそ、あいつの口なのだ。
あそこに飲まれるしかない。
八女津姫が激しく鳴動する。もはや鈴の音の面影は消え失せ、亡者の叫びみたいな音になっていた。
そんなとき。僕の意識は何かに引かれる力を感じた。八女津姫に引き込まれる力とは反対の、どこか温かみのある力だ。既視感に似たものが僕の意識を包み込む。
鳴動する怪物から、僕の意識は遠ざかっていった。
あいつの引力より、僕を引き上げる力が勝っているようだ。
訳がわからず、だが最悪からの回避に安堵すらした。
ところが。
引き上がる僕と入れ替わる存在を、見逃せなかった。
白の同族のひとりがゆったりと隣を墜ちていった。
ちらりとそいつの横顔が布の下から見えたが、人の形をしていない。間違いなく化け物だ。黒き仔山羊だ。だが、彼女の面影を僕は見間違えなかった。
どこでわかったのかなんてわからない。感に等しい。
だが、その姿を幾度か見てきた。あいつは僕の近くにいてくれた。
そいつの左手の指に、キーホルダーが揺れていて、確信に変わる。お前が持ち出していたのかと嬉しくもなった。ピンクの蝶ネクタイの、熊の人形のキーホルダー。
僕と入れ替わりに八女津姫へ落ちていくあいつは。
成り代わりだ。
神山有子の成り代わりなんだ。有子が死んでから何食わぬ顔で本人に成りすました化け物なんだ。
なぜ。
どうして。
まだ有子の意思を演じているのか。
そのような疑問を僕は浮かべながら。彼女を呼ぼうとした。
短い時であれ、僕に寄り添って、支えてくれた事実はあるからだ。ただの成り代わりであっても。まったくの別人でも。その事実から目を逸らすことができなかった。
声を出す器官はない。
意思を伝える術はある。
だから。
でも。
「あ…………」
彼女の名を知らない。
神山有子は、彼女の名ではない。
呼べない。
間違っても呼べない。神山有子と呼んでしまってはいけない。
だが、その躊躇いが彼女との最後の機会を奪ってしまった。
赤灰色の怪物が食事を待ちきれなくなったのか、深淵の口から触手が伸びて、彼女を捕らえた。あっという間に包み込んで、深淵に沈めた。
「ああ……!」
たった一言すら、許されなかった。
名を呼ぶことができないばかりに。
ありがとうも。
ごめんなさいも。
僕の意思を伝えられなかった。
最期に、触手に捕まる前に振り返った彼女は、白い布が取れていた。触手で模られただけの顔は人間とはかけ離れたもので、口は縦に顔の大部分を占めていて、残りの空白を無数の目が埋めていた。
それでも。その顔が穏やかに微笑んでくれていたようだった。
――頑張ったね。格好よかったぞ。トモ。
縦に裂けた口が告げた意思は、彼女が深淵に飲み込まれてから、僕に届いた。
「バカヤロウ。あいつの声じゃなくてもよかったんだよ……」
僕は、この哀しみと後悔とも、意思から溢すまいと抱きしめて、浮上するしかなかった。
†
この世界はいったいどこから生まれたのだろう。
卵と鶏の論。二極化の時点でナンセンス。
世界は混沌ゆえ、生まれも死も、はじまりも終わりも全てを内包している。
まだ知識が何であるかを形成していない幼き頃、世界の中心はまるで自分で、すべてをいつかは掴み取れると自惚れていたことはないだろうか。それこそ知識の檻を越えた極地だ。
まだ知識がそれとして形成していないからこそ得られる感覚なのだ。
個に収まらず全を見つめて、これまでといつかの繋がりを無自覚に得ていたのだ。
だが、知識を得ることで幻想にまで堕とす。意味を変質させてしまう。確かな感覚すら泡沫に消えて、人類はそれを夢と蔑むのだ。間違ってはいない。知識の生き物はそれ故に決して世界を掴めないのだから。
しかし、確かな覚えがあるはずだ。
混沌から溢れ落ちた雫は個となりて、生命になる。
我思う故に我あり。
個として確立した瞬間に、その眼で混沌を目の当たりしたはずなのだ。
だからだろう。僕がソレを眼前に捉えても既視感を拭えずにいる。
生きているか死んでいるかもわからない境地にて、僕は再び混沌を感知するに至っていた。偶然か必然かどうかさえ僕の認知するところではないが、幸福以外の何かなのはわかっている。
嫌悪が止まらない。
忌避でいっぱいだ。
自分の汚物がまだ愛おしいくらいだ。
排泄物よりも汚らわしいものがあるのは衝撃よりも恐怖に近いのだと知る。
アレは形容しがたい。というのも、常に形を保とうとしていないが其処にあるという事実だけで存在しているからだ。液体なのか固体なのか、それとも物質なのかさえ僕には計れない。
異形というのも正しく当て嵌まらない。
無秩序の秩序を内包する無形の最高位体。
この世界を奏でる混沌そのもの。
もしも神というものがいるとすれば、僕たちは名付けて呼んでいるだろう。
――アザトース。
邂逅は刹那で。
知覚には膨大すぎて。
記憶には至らない。
人を捨てて尚、計り知れない存在があった。
地上で肉体を得るまでの瞬きで、僕は確かにソレを知覚していた。
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