たとえ狼であっても

ちよ

第1話

わーっ


最後に奏でた音符が絶えた瞬間に薄暗い客席からステージへその叫び声が風のように吹いてきた。池袋にあるWOLF’S DENライブハウスで演奏していた三人バンドが最後の曲を歌い終えたところだった。


ベースギターを持ってステージの中心に立った男の子が肩まで伸びている赤茶い髪を目から押しのけた。観客に向かって「皆さん!来てくれてありがとう!」と挨拶しながら天井からステージに注がれている光の向こうを見ようとした。数百人のはずの会場にところどころ空席が目立っているのを見た。


――いつまでこうして歌い続けられるだろう…


そう思いながらいつも通りに笑顔で手を振った。その笑顔を崩さずにベースギターをスタンドに戻し、客席へ手を振りながらステージから降りる階段へ向かった。


――いつまでだろう......


明るいステージから暗い階段の下まで降りながらその考えが頭から離れなくて、笑顔が階段の一歩一歩と共に消えていった。


後ろで話しているギタリストとドラマーのことも、階段の下で挨拶したマネージャーのことも、全部が彼の目と耳に入らなかったように男の子がそのまま廊下を進んだ。


――いつまで.........


蒼逢そうあ!」


その声と同時に肩が軽く叩かれた感覚に気づいた。

蒼逢は考え事をしながら楽屋まで歩いていた。少し驚いて振り返ると、そこで優しく微笑んでいるドラマーが立っていた。


「お疲れ!」 と言いながらまた蒼逢の肩をドラムスティックで軽く叩かった。


「お、お疲れ、達矢!」 と蒼逢が明るい表情で挨拶した。


「はい、タオル。マネージャーが渡そうとしたが蒼逢が全然気づかなかったよ」


達矢は手に持っている二枚のタオルから一つを差し出した。


「あ、サンキュー」と蒼逢は言いながらタオルをもらって、楽屋に入った。


「やあ〜。今日は熱かったね。観客は少なかったけどいいライブができた」


そう言って達矢は自分のタオルで長い黒髪を拭きながら蒼逢のあとに楽屋に入った。


楽屋は4帖ぐらいの広さで、鏡の壁に短いカウンターがあって椅子が二つ並んでいた。蒼逢は一番奥の席にずーんと体を下ろした。


「よくできたか・・・?」


「よくできたよ!蒼逢はすごいよ!今空席のこと心配してんだろう?それは蒼逢のせいじゃねえよ。気にす―」


隣の席に座った達矢が言い終える前に急にバーンと楽屋の扉が蹴り開かれた。ワイルドな金髪の男の子が入ってきた。ギターピックをカウンターにぽいと投げて残った椅子を取った。


「俺たちも落ちたな〜。こんな楽屋になってさ。あいつが抜けなければこうならなかったんだな〜」


「ミ・ノ・ル、あいつの話はちょっと。。。」


達矢が入ってきた男に向かって注意するような口調で言った。


隣でだまって座っていた蒼逢はゆっくりと立ち上がり、椅子にかけたパーカーを手に取って出口へ向かった。


「いいよ、達矢。本当のことだから。二人ともお疲れ〜」


そう言って楽屋をあとにした。


   *       *       *


蒼逢は暖かいたい焼きが入った紙袋を持って池袋駅のホームに立った。


彼はスマホをポケットから取り出し、電話をかけた。


「もしもし」


優しくてなつかしい声が耳元で響いた。心がじわっとあたたかくなるのを感じた。


「もしもし、おばあちゃん?僕だけど」


「そうちゃん!元気?ちゃんと食べてる?」


「うん、食べてるよ。ね、おばあちゃん、うまいもんを見つけたからそっちに持っていくね」


「あ、そう?おいしいもんだって?ありがとう、待っているね」


「じゃな」


電話を切って電車に乗った。一時間ほど ぼんやりと外の変わっていく景色を眺めながらバンドの状況をくるくると考え続けた。



「西武線をご利用くださいましてありがとうございます。次ははんおうはんおう終点ですー」アナウンスが流れ始めて、蒼逢は現実に戻り、携帯を見た。


――バスまでちょっと時間あるようだ。なんか缶コーヒー買おうか。


駅を出てバス停の一番近くにある自動販売機の前で小銭のパウチの中をかき回して捜した。


するとパウチの中身がちゃりんちゃりんと散らばってしまった。


「サイヤク・・・」


蒼逢は言いながらしゃがんでお金を拾い始めた。その間ブシューという音が背中から聞こえた。


――あれ?バスはもう来た?


蒼逢はすばやく自動販売機のボタンを押して「バッ」と取り出し口に手をつかんだ。お釣りを残したまま、動き始めたバスへと走り、「待って!」と声を上げた。


しかしバスはそのまま角を曲がり、行き去った。


蒼逢が缶コーヒーを落として携帯の画面に浮かんだ日付を見つめた。


「休日のダイヤだ!忘れてた・・・今週ついてないな、俺」


力なく缶コーヒーを拾い、忘れたお釣りを取りに自動販売機に戻った。あのバスは今日の最後のバスであり、後はタクシーに乗るしかないと蒼逢が思いながら、ポケットに手を入れてタクシー乗り場へ向かった。


「あれ?……忘れてた!ライブ中マネージャーに財布を預けていたんだ」


慌ただしく小銭パウチの残りを確認し、1刷の千円と小銭合わせて2000円ぐらい。


――厳しい……隣の村までは行けるかな。 行けるところまで行ってみるしかない。


もう冷めたたい焼きが入った紙袋を握りながらタクシーに乗った。


タクシーは飯能の町を通り、右左に曲がったりする山道を進んでいった。お祖母さんが住んでいる町に入る前の最後の谷に下りた時に、蒼逢はメーターを見た。後数十円2000円を超えるところだった。



「ここで結構ですよ。」


「ここで本当にいいですか?」


「ここから歩けるし、いい天気ですし」


「そうですね・・・かしこまりました」


運転手が畑や田んぼの谷へ行く道の入口でいったんタクシーを止めた。


支払いを済ませて下りようとしている蒼逢に「気を付けてくださいね」と言って、タクシーをUターンさせて山道へ戻った。


一人残された蒼逢は山の道を後ろにして畑への道を下りていった。


――いつも山の道から見えるんだけどここを通るのは初めてかも。


目の前の谷には植えたばかりの田んぼと、ところどころに集落を作った数軒の家といった100人も住んでいない村であった。この谷を囲んだ山の森は黄緑の葉っぱと小さな花に覆われた。


「これいい気分転換になりそう・・・」


蒼逢が山風に乗った甘い香りをした春の空気を吸って言った。



目指している町に入る前の森の近くの集落まで歩いて、ある一軒の石の壁を通りかかったとき、急に立ち止まった。


心に響く歌声が耳に入った。


――だれだ?聞いたことがない綺麗な声だ。


壁が高すぎて中の様子は分からない。だが、どうしても歌声の主を確かめたかった蒼逢はそこで壁の上に飛びつき、腕の力で体を引き上げた。


壁の向こうは木や石や水の完璧に揃えた和風の庭であり、とても静かな場所にであった。しかし数秒前に聞こえた歌声とそれの持ち主の姿もどこにもいなかった。

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たとえ狼であっても ちよ @KitsuneChiyo

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