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エディ・K・C

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 駅を降り、終電を待ち伏せするタクシーの長い行列の脇を縫い歩く。


 戦いを終えた戦士たちを出迎えるその黒い連なりはまるで霊柩車のようで、僕は無関心を装いながら内心圧倒されていた。


 すでに大通りの商店からは光が消え、車道を走る車もほとんどない。


 クリスマス・イブ。


 一人暮らしで彼女もいない、ましてやキリスト教徒でもない僕とっては、ただの平日にすぎない。でも今年は少しだけ違った。僕にはやらなければならないことがあった。


    *    *    *


「みなさん、ちょっと、聞いてください」


 一昨日の職場の会議室。


 最近、毎朝のように会議が開かれているのは、進行中のとあるプロジェクトの進捗状況が思わしくないためだ。プロジェクトのメンバーは、各自前日までの進捗状況と、当日の作業内容をプロジェクトリーダーに報告しなければならない。


 僕は、手渡された残作業リストにある自分の名前を数えて、内心で安堵した。稀に、知らぬ間に数が増えている場合があるからだ。


 他の面々も精気のない視線でリストを追っている。ポーカーフェイスが逆に事態の深刻さを物語っていた。苦笑や失笑、あるいは小さな悲鳴くらいは聴こえたほうが、この状況では人間らしいというものだ。


 ここ三ヶ月ほど繰り返してきた、同じ風景。ただ今朝は、いつも居たメンバーのひとりがいなかった。


「えーと」


 口火を切ったリーダーは青ざめた顔で続けた。


「昨日の深夜、このオフィスのトイレで向井さんが倒れました。えー、脳梗塞? いや違うか……脳溢血だそうです。んーと……一応人事の方には連絡して、今は家族が病院に行ってると思います」


 ―――えー、それで、倒れたときの状況ですが……。


 過労だ。


 それ以外に、四十前の健康な男子が突然脳疾患で倒れなければならない、何の理由があるだろうか。向井さんは太ってもいなければ、アルコールもタバコも無縁だった。倒れたときの状況など関係ない。この場にいる誰もが、その鈍足な凶器の名を知っている。


 そしてその翌日、つまり昨日、向井さんは亡くなった。


 向井さんに出会ったのは、ちょうど一年ほど前、僕がこのプロジェクトに配属された日だ。僕が仕事に必要なソフトウェアのインストール作業に追われ、午後になっても終わらないでいると、一通のメールが届いた。


〈向いの席の向井です(笑)もう十二時四十五分ですよ? そろそろお昼にしたら?〉


 机に置かれていた座席表を見ると、僕の正面に向かい合わせの席があり、狭い通路を挟んでその向こう側がすぐに向井さんの席だった。僕からだと背中を眺める格好になる。彼は僕にメールを送ったことなど素知らぬ様子で、ディスプレイに向かっていた。

 

〈ありがとうございます。お言葉に甘えて、そうさせていただきます。向井さんも一緒にお昼どうですか?〉


 僕が返すと、十秒も経たないうちに返事が来た。


〈僕はいいです。買ってきたお弁当があるので〉


「先輩」


 僕は斜め向かいの同じチームの先輩に声をかけた。


「お昼行きませんか」

「ん、行こう」


 そして先輩は部屋を出るなり言った。


「向井さんから来たでしょ」

「あ、メールですか? そうなんです。そろそろお昼にしろって」


 先輩はちらと後ろを振り返り、はぁ、と息を吐いた。


「俺にも来てるんだよ。というか、みんな来るんだよね。まあ……べつに向井さんがどうこうっていうんじゃないんだけど、あんまり返信しないほうがいいと思うよ」

「どうしてです?」

「うーん」


 先輩は唸りつつ、エレベーターに乗ると声のトーンを落としながら言った。


「だって、気味悪いじゃん。すぐ見えるところにいるのに、メールでメッセージ送りあうなんてさ。向井さんだけじゃないよ。俺もここ来てびっくりしたけど、なんかこの部屋の風習っていうか、最初っからそういう雰囲気なんだよな……」


 実際、そうだった。単なる日常の雑談、直近のスケジュールと役割分担、プログラムの不具合報告、休憩中に見つけた面白いニュース、おいしい食べ物屋の情報、上司のグチ、ほぼ全てがメールのやりとりで済まされる。最初は奇妙な感覚を覚えたが、配属後一ヶ月足らずで、僕にもその癖が身についてしまった。慣れてしまうと、意外に楽なのだ。ただでさえ作業でぎゅうぎゅうになっているところに、くだらないことで話しかけられてはたまらない。メールなら、自分が無関係だと思えば無視すればいい。


〈突然だけど、サンタさんって、何歳まで信じてた?〉


 だから、向井さんからそういうメールが送られてきたときも、構わず無視をした。忙しかったのだ。たぶん、他にも同じメールを送られている人がいるはずだから、誰かが返信するだろう。そう思った。


 向井さんが亡くなる三日前、僕は同期の送別会を理由に定時であがり、久々に行く職場近くの本屋で小説の新刊をチェックした。好きな作家の新刊を持ってレジに並んだところで、偶然向井さんに遭遇した。


 プロジェクトに配属されて一年、向井さんとは仕事以外の接点はなし。向井さんだけでなく、このプロジェクトの人間のほとんどがそうだった。そもそも仕事以外の時間なんてないに等しいので、職場内の飲み会すら皆無。アルコールが全くダメな僕にとってはさしたるデメリットもないが、要はそれだけ忙殺されているということだ。


 その中でも向井さんは特別だった。いつも終電で帰っている僕ですら、帰る姿をほとんど見たことがない。


「あれ、向井さん?」


 そのときは定時を回った直後。正直、最初は向井さんにそっくりな別人かと思った。


 僕が声をかけたとき、向井さんは、漫画本を何冊か持っていた。少年誌で連載している有名な漫画のコミックスだった。


「向井さんもそういうの読まれるんですか?」

「え? あ、いや、子供にね」


 ああ、そうか、と納得すると同時に、軽い衝撃を受けた。僕は無意識のうちに、向井さんは独身だと思っていたのだ。


「ということは、クリスマスの?」

「いや、サンタさんからのはまた別に用意するつもりなんだけど……」


 それから、少し向井さんの子供について話した。


 小学三年生のひとりっ子。漫画とサッカーとゲームが好きな、腕白少年のイメージだった。サンタに頼むプレゼントは、新しいサッカーシューズとゲームソフトの間で揺れているらしく、それが向井さんを焦らしているようだった。もしゲームなら、早く予約しないと買えないかもしれない。クリスマスまで、もうあまり日がなかった。


 向井さんが差し出した携帯のディスプレイには、芝生にしゃがんで植木鉢の花の匂いを嗅ぐ男の子の姿が映っていた。


 向井さんとまともに会話したのは、これが最初で最後だった。僕がサンタを信じていたのは小学二年生までです、というのは、結局言えず終いだった。


 その翌日、僕が飲み会明けの寝不足の身体に鞭打って出勤すると、昨日と同じ背広を着た向井さんがコピー機の前に立っていた。


 席に座ってパソコンを立ち上げると、僕の問いを遮るかのように、向井さんからのメールが届いていた。


〈帰ってません(苦笑)〉


 本屋で僕と会ったあと、呼び戻されたのだろう。


〈障害ですか?〉


 返ってきたメールによると、他のシステムから流れてくるデータの形式に、想定していたパターンと異なるものが紛れていたらしい。不備が発覚した部分のプログラムは別の人間の担当だったが、そこで処理されたデータを向井さんのプログラムが利用していた、ということだった。


 幸いなことに、僕のチームには関係のない話だった。こういう、ほとんど天災のような障害が、このプロジェクトにはよくある。先輩に言わせると、こういうのは天災ではなく「二人災(ふたりさい)」というらしい。上司と部下、顧客側の担当者とこちら側の担当者、設計者と実装者、直接的に関係する二者のやりとりだけで仕事をしているから、無意識のうちにその仕事内容の影響範囲を狭く考えてしまうのだ、と。


「向井さーん、ちょっと昨日のバグの話、お客さんに説明してきて」


 僕より少し遅れて出社してきた向井さんのチームのリーダー、相田さんがつっけんどんに言い放った。この人が来ると、途端に場の空気が険悪なものに変わる。僕や先輩がここへ入るずっと以前からこの部屋に居座っているメンバーで、この部屋の終始ピリピリした雰囲気の源泉が彼であることを、おそらく誰もが認識していた。その証拠に、この部屋で相田さんだけが、メールのやりとりの輪から外れていた。


「はい、今資料印刷してます」

「急いで」


 相田さんはそれだけ言うと、あとはもう関係ないという素振りで自分のPCに向かった。


 結局、向井さんは朝の会議にも出ず、お客さんに対する弁明のために午前いっぱいを費やした。お昼前、飲み物を買いに休憩所へ向かうと、向井さんが窓際のベンチに座ったままうとうとしていた。


「向井さん?」

「……ん。ああ……」


 向井さんはふらふらと立ち上がり、ミネラルウォーターを手に部屋に戻っていった。僕も部屋に戻り、すぐに向井さんにメールを打った。


〈相田さん、人使い荒すぎ。マネージャーに言って、他のチームに作業振り分けてもらうのって無理なんですか?〉

〈大丈夫です〉

〈そういえば、息子さんのプレゼントは決まりましたか?〉


 返信はなく、そのまま昼休みになった。


「向井さんとこのチームって、相田さんと向井さんと、あと派遣の人の三人だけでやってるでしょ」


 昼休み、近くの定食屋で、先輩がアナゴのてんぷらをタレに漬しながら言った。


「マネージャーから聞いたんだけど、アレって結局、向井さんが仕事しすぎてて、追加で人を入れても振れる仕事がないらしいんだよ」

「でも、向井さんに直接仕事振ってるのは相田さんなんでしょ? 相田さん昨日も早帰りしてたし……その辺のボリュームはマネージャーがコントロールしないとダメなんじゃないですか」

「うーん」


 先輩はアナゴを咀嚼して唸る。


「そう、まあ、そうなんだけどね……」


 そして午後も、向井さんはプログラムの修正にかかりきりだった。


 僕は自分の作業で手一杯で、周りを気にしている余裕など全くなかった。終電の時刻になって逃げるように職場を去るとき、ちらっと向井さんの席を見やった。


 ディスプレイの光を浴びた青白い顔がまだそこにあった。


 向井さんが脳溢血で倒れたのは、その数時間後だった。


 向井さんが亡くなった翌日、作業の引継ぎをどうするかで会議が行われ、僕たちのチームに白羽の矢が立った。理由は単純に、抱えている修正作業の少なさだった。


 とりあえず、今週いっぱいは、作業の現状を確認することに費やされることになった。それほど、向井さんが抱えていた作業の量は膨大だった。


 向井さんの作業データは、一旦全て僕が引き受けることになり、僕は一昨日まで向井さんの座っていた椅子におそるおそる腰掛け、パソコンの電源を入れた。BIOSパスワード、OSのログインパスワードは、キーボードの裏に付箋で貼ってあった不規則な文字列で正解だった。セキュリティもくそもない。


 傍らでは、先輩が引き出しを全部デスクから出して、会社のものと向井さんの私物の選別を黙々とやっている。IT関連のセミナーやイベントの開催案内だけでなく、なぜか向井さんの自宅の住所宛の年賀状まで入っているようだった。


 眼を戻すと、表示されたディスプレイには、壁紙も設定されておらず、無駄なアイコンの類も一切なく、あまりにも几帳面に整理されていた。


 ふと画面の下の方を見ると、メールソフトのアイコンが点滅していた。他人のメール、しかも亡くなった人宛のものを開くのは気が引けたが、仕事意識という膜で覆われた好奇心が勝った。


〈受信箱:未読1件〉と書かれた下線付きのメッセージをクリックすると、受信済みメールのリストが表示された。


〈failure notice〉


 それがリストの一番上に太字で表示されている、未読メールの件名だった。内容を確認すると、向井さんの送ったメールが宛先不明となり、戻ってきたようだった。さらに画面をスクロールさせると、元のメールの本文が現れた。


〈こんばんは。明日、僕は家には帰れませんが、サンタさんは来てくれると思います。いい子にして寝ていること〉


 ふと閃くものがあり、僕は先輩が席を外した隙に、向井さんの私物が詰められたダンボール箱を漁った。プログラム関係のマニュアルに混ざって、青い包装紙に包まれた、薄くて四角い物体が見つかった。持った感触から察すると、中身はゲームソフトに違いない。


 ひっくり返してみると、隅に張られたピンク色の付箋に、向井さんの息子の名前が書かれていた。


    *    *    *


 夕飯を食いそびれた。


 そう思いながら、シャッターの降りたファーストフード店を横目に、大通りの商店街を行く。赤、白、緑―――色素を闇に沈着させたクリスマスカラーの垂れ幕が、黒いスーツのサンタたちを出迎えている。


 まだケーキを売るのを諦めない商売熱心なコンビニの隣、静かになったパチンコ屋の脇道をすりぬけると、踏み切りが現れた。

 

 サラリーマンらしき男が一人、その前に立ち、肩に溜まった空気を抜くように、ほぅっと白い息を吐いた。彼にとっては、この踏切をくぐり抜ければ家に着いたも同然。こきこきと首をならす仕草に、そんな安堵感が見て取れる。


 向井さんにとっても、ここはそういう場所であったに違いない。それなのに―――冷たい空気を身に纏わせた最終電車が通過し、感傷を断ち切った。コートの襟元から容赦なく冷気が潜り込む。


 住宅地へ入ると、とても静かだった。職場でプリントアウトした地図を見ながら、整然とした住宅地を歩く。迷うことなく、住所の示す場所へたどり着いた。


 黒い槍を並べたような門。表札を確かめ、もう一度住所を確かめる。僕は困惑し、次に息を呑んだ。


「佐藤」と書かれている。


 住所が間違えているのだろうか? 両隣二、三軒、向かい側の家を一通り回るが、やはり「向井」の表札はない。


 再び「佐藤」の玄関を前に、チャイムを押そうとする手が震え、そして止まった。


 門の隙間から視線を飛ばし、庭の向こうのカーテンに覆われた広い窓を覗く。明かりの落ちた部屋からは、何の気配も感じられない。さすがに寝ているだろう。


 僕は、引き返そうとした。きっと住所を間違えたに違いない。しかし最後に振り向いたとき、柵の隙間から、植木鉢が見えた。そこから生えた丈の低い、しかし大きな白い花が、その下のコンクリートに印された無数のサッカーボールの痕を見下ろしている。


 向井さんの携帯で見た、あの花だった。名前も知っている。こんな冬に、大きな白い花を咲かせる――たしか、クリスマスローズという名前だ。


 ぼんやりと霞んだ光のなかで、それは残酷なまでに美しく輝いていた。


 向井さんの家はここに違いない。


 でも、どうして……。


 佐藤の表札をいくら眺めても、向井にはならない。


 僕はカバンを漁り、向井さん宛の年賀状のコピーを取り出した。住所はこのハガキで知ったのだ。宛先には明朝体で向井さんの名前と、奥さんの名前、子どもの名前が並べて印刷してあった。住所も間違いない。


 この一年の間に、引っ越しをしたのだろうか? あの忙しい最中に?


 ふと、胸騒ぎがした。


 僕は会社に電話をかけ、人事部に繋いでもらった。時間的にダメ元だったが、帰り際の人事部員が面倒くさそうな声で応対した。「向井」の名前を口にすると、緊張が走った。住所のことを問い合わせると、人事部員はひとしきり唸ったあと小声で答えた。


「実は……向井さん、半年ほど前に離婚してるんですよ。それまで住んでいた家は、奥さんの親が建ててくれた家なんですって。だから、向井さんが出ていった形になってます。新しい方の住所が必要ですか?」


 僕は、必要ありません、と断りを入れ、通話を切った。


 向井さんは、帰るべき家を失っていたのだ。それを周囲には伝えていなかった。相田さんはもちろん、プロジェクトの誰にも。


 脳裏にあのメールの文言が甦った。


〈僕は家には帰れませんが、サンタさんは来てくれると思います〉


 あのメールは明らかに、向井さんが息子に宛てて書いたものだった。倒れる直前に送信したせいで、エラーで戻ってきてしまったことを知らなかったのだ。


 もしかすると、書いている途中から脳溢血の兆候は出ていたのかもしれない。息子のメールアドレスを間違えたのも、きっとそのせいで―――。


 僕の頭は、もう一つの可能性を必死に押さえ込もうとしていた。即ち、向井さんの息子が自分でメールアドレスを変え、それを向井さんには知らせていなかったという可能性を……。


 僕の背筋が、冬の外気ではない何ものかによって冷えていた。


 家庭内で何があったのかは解らない。ただその一端には、彼から最終的に生命をも奪うことになったものが深く関わっている。それは疑いようがない。


 眼に見えない瘴気、そうとしか呼べないものが今もあの職場に沈殿している。僕はすでにその空気を一年間、肺に取り込み続けてきた。


 向井さんの残した仕事が片付くのは、いつになるだろう。あとどのくらい、あの職場に居なければならないのだろう……。


 そのとき、ポケットの中の携帯が振動した。職場からの着信だった。


「運用テストしてた夜間バッチ止まっちゃってさ……そう、俺らんとこのプログラム……」


 先輩との通話を終え、僕は叩きつけるように携帯を閉じる。今から、タクシーで職場に戻ることになった。気が付くと、クリスマスローズを一輪、茎の根元から千切りとっていた。


 クリスマスローズの花言葉はいくつかあり、その中に「慰め」という言葉があることを僕は思い出した。


 もし何か「慰め」があるとすれば、それは何だろう―――。


 僕は鼻腔に花を近づけ、呼吸する。花らしい香りはほとんどなかった。


 少なくとも今のところ、僕はあの職場に戻るしかない。


 結局、僕がしたことといえば、かじかんだ手でゲームソフトを郵便受けに突っ込んだことと、クリスマスローズの花を一輪くすねたこと。そして次の日に部屋に帰り着くまで、泣くのを我慢したこと―――。


 職場へ戻るタクシーの後部座席で、僕は夢の世界に半身浴をしながら、向井さんの息子がまだサンタを信じているかどうか、そのことだけを妙に気にしていた。


―――了―――

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