Marie scarlet 01
空港を颯爽と歩く最中、通行人の注目を集めながらわたしは購入していたゲネン水を飲用した。口当たりがよく、滑らかなゲネン水はわたしは嫌いではない。健康志向な芸能人やアスリートは特に好んで飲むであろう。人の嗜好を引き付けるような何かがあるらしい。
ゲネン水に含有されている水素だが、これは我々が習うような一般的な水素(元素記号:H)とは異なる。水素の同位体であるアンハイドロゲン(元素記号:uH)。これがISIMの考案したゲネン水に含まれている物質の正体である。
アンハイドロゲンは体内に取り込まれると、血液中に吸収され、その流れに乗って体内をくまなく移動し、最終的には心臓付近に留まる。さらに一定量のアンハイドロゲンを取り込むことによって、心臓付近で留まったアンハイドロゲンはマイクロサイズで固形化し、心臓の一部となって、人々の健康管理に役立つようにプログラムされている。ここまでが民間人用にアップされた広告等の説明文章である。
アンハイドロゲンには微粒子状のデータセルを搭載しており、体内に取り込んだ時点でその個体の識別を開始し、パーソナルデータをリアルタイムにモニタリングすることができる。ISIMはこのアンハイドロゲンにより人々の精神状態を管理し、数値が異常値を示す個体には、一度目は警告を、二度目は処刑を下す、監察機構のトップレベルのバイオテクノロジーである。
21世紀初頭より、このアンハイドロゲンについては多くの学者が所説唱えていたが、誰もが架空の物質、机上の空論だと言って研究は中途半端に放棄されていた。しかし、アンハイドロゲンを見事に存在させることに成功したのがブルーノ会長であり、第三次世界大戦後から今日までの実用化及び凡庸化に至ったのである。
彼は、およそ6年前とは見かけ上は変わらないものの、その態度は180度変わってしまっていた。あれだけ穏やかだった口調は、凍てつくような刺々しいものへと変わり果て、温かいオリーヴの瞳は、目の前のものを映さず何かに囚われているかの如く濁っていた。
「早速のことで申し訳ないが」
空港傍には既に一般化している水素燃料電池自動車が待機していた。ISIM専用車のそれはリムジンと同じような構造に当たり、彼は乗り込むなり車体のARから目的地の設定とルート確保だけをして、わたしと向き合うように座った。この時代に運転免許などは何の意味も持たない。旧時代では運転せずとも身分証明の意味で所持する者もいたようだが、身分はアンハイドロゲンから発せられる微粒電子の指紋認証によって証明されるため、あえて所持する必要はなくなった。民間人は指紋を提供することで自身の身分等を公的機関に検閲する許可を与えているという認識だが、事実は異なる。つまりは公的機関職員もまた、我々と締結をしている証拠である。たまに趣味でそういう”骨董品”を集めているコレクターがいるが、それらはすでに何の価値もない。わたしは彼によって呼び出されたARを見ながら思う。その右下にはARの使用者の名前と所属、階級が小さくではあるが記載されていた。
『沓名(とうめい)ハイネ 極東支部長 中位監察官』
彼の新たな名前、新たな所属を心の中で反芻する。ISIMの規定で本部から支部、支部から支部への移籍をする際は、必ず移籍先の国籍を取得しなければならない。しかし本部の者は本来の国籍を有するため、先日わたしはバーグマン六席からの嫌味を言われる羽目になったのだ。つまりは、ハイネ・アイブリンガーはISIM本部から極東支部へ移籍をしたということ。もう3年も前の話である。彼の独断専行は当時の極東支部でも好まれざる者として忌避されていたらしいが、その有能な働きは瞬く間に功績を上げ認められ、現在は支部長にまで上り詰めたらしい。何が彼をこんな風にさせたのかは知らない【meaning:知らされていない】。
3年前忽然とわたしの前から姿を消したハイネ・アイブリンガーは今、沓名ハイネとなって再びわたしの前にいる。変わってしまってはいるが、生きていることは確認できてよかったと思う。これは本心だ。
彼は極東支部の当面の討伐任務に関する、極東自由軍の現状を簡単にかいつまんだあと、この後すぐに幹部会議があることを話す。
「沓名監察官」
「ハイネでいい」
日本名には慣れていないだろう、とあくまでもわたしの煩わしさを優先させた彼だったが、やはり冷たく突き刺すような瞳に違いはなかった。わたしはというと、馬鹿だからほんの少しだけ、ハイネが昔のハイネに戻ったような気がして、色素の薄い唇を緩ませてしまった。それに気づかれたくなくて、一度咳払いをする。ハイネはそんなわたしをやはり冷たい目で見ていた。
「前任のファン二等監察官については」
「そのことについても今からの会議で報告予定だが、結論から言うと彼の前線復帰は難しい」
わたしがここに配属された理由だった。以前から勢力を増し続ける極東自由軍に対し、ISIMは極東支部を全面投入していたわけだが、支部の力では追い付かず数年前より本部は応援を行っていた。6年前、わたしがハイネとともに極東支部へいたのも、この応援によるものだ。その時こそ、縮小しつつあった極東自由軍は、その後数年の空白の時間【meaning:先導者の進退】を経て、再び勢力を増大した。ハイネが本部を抜け、極東支部へ強引に移籍したことにより、本部からはファン・スンヨン八席が赴いていたが、3日ほど前、ちょうどわたしがエジプトに赴いていた時【meaning:バーグマン卿の尻拭いをしていた時】、極東でもまた衝突が繰り広げられていた。
あっという間に着いた極東支部局は、実に6年ぶり。当時のわたしはハイネから戦場での云々と人間らしさを学ぶべくこの支部局ではなく、周辺の一般住宅街に居を構えていた。それ故にあまり記憶にはないが、当時は違和感があったことだけは覚えている。伝統的な日本という国柄に似つかわしくない虚無さえ感じさせる白亜の建物。それが今では、違和感など無く、あまりにもその空間にぴったりと溶け込んだ白亜だった。日本はあまりにも変わりすぎてしまった。わたしは地上からも見た、変わり果てた日本に反吐が出そうになった。
「これはこれは」
すでに着席していた極東支部の幹部のメンバーはわたしにとってほぼ初見である。本部にいた頃、それぞれの支部との連携を取るべくAR上で会議をすることはあるが、わたしはどちらかというと前線に赴く実働部隊であるため、種々の連絡事項や情報提供や受取については、上【meaning:エフゲニー次席など】に任せっぱなしである。
故に、繰り返しにはなるがわたしはあくまでも彼らとは初対面にあたる。
「マリースカーレット嬢ではありませんか」
しかし、どの組織に居ても一人はこういう厭味を言う人間がいるらしい。一瞥だけして視線を逸らす。それが気に食わなかったのか男はさらに続けた。
「お噂は兼ね兼ね。その名に相応しく麗しいお方だ」
マリースカーレットという言葉は一見美しい花の品種かと思われがちだが、それは全くもっての間違いである。
「その瞳もまた、マリースカーレットを擬態しているようだ」
「山縣、それ以上は上位監察官への侮辱行為とみなされ、監査会で異端審問【meaning:いわゆる拷問的尋問】にかけられるぞ」
山縣と呼ばれたその男は、にやりと嫌な顔を造ってこれは失敬、と悪びれた様子もなく空っぽの謝罪をした。わたしはハイネに誘導されるがままの席に座ると、ちょうど山縣とやらの対角線上に位置する場所だった。山縣はわたしと視線が合うと、気色の悪い笑みを零した。
マリースカーレットとは戦場で無慈悲にそして狂ったようにテロリストを駆逐し続け、血塗れになるわたし自身を皮肉った言葉である。古くから伝わる聖母マリアの花とされている”マリーゴールド”とわたし自身の名前をもじったジョークの類に値するだろうか。もちろんスカーレットとは、今みなさんがご想像の通り、わたしたちの体内を絶えず流れる真っ赤な血液のことだ。
「くだらない話はここまでにして、本題に入る。まずは先日のファン二等監察官が指揮した作戦の詳細を」
ハイネの発言に立ち上がったのは山縣の隣に座っていた眼鏡をかけた男性だった。会議室の中央に立体的に浮かび上がるARを通してふんだんに入ってくる情報は、わたしの頭にデータとして記録されていく。
「まず分かっていることは、先導者が約3年前から変わっていることです。新しい先導者になってからの極東自由軍の勢力は爆発的に躍進し、その威力は我がISIMを凌ぐ戦闘力と頭脳を持っています」
「3年前、先導者の交代…」
わたしはちょうどその頃にハイネが去ったことを思い出す。消したい記憶、思い出したくない過去ではあるが、それもまたわたしが経験した事実である。
わたしがわたしであるための、わたしを形成する記憶の一部なのである。
「その新しい先導者なんだがね」
山縣は隣の青年の言葉を遮り、ひどく歪んだ笑みを零した。
「ベルティ・アイブリンガーというらしい」
聞き覚えはないかね、と口角を釣り上げた山縣の発言にわたしの記憶は走馬灯のように過去をくまなく遡った。
赤い鳥居、たくさんの鳥居、まだ日本が伝統的な風景を持っていた頃、わたしが初めて参加した討伐任務、穏やかなオリーヴの瞳を持つ青年、袴を着ていた彼、まだ慣れない土地、慣れない任務、不慣れな職務を励ますように、優しく微笑んで差し出された彼の右手。
その時、彼は確かに言っていた。
『ハイネ・アイブリンガーだ』
と、記憶の中のハイネが笑っている。
「極東自由軍の先導者は沓名支部長の弟だ」
引き戻された現実。ハイネは横顔はどこまでも冷たく凍てつくようだった【meaning:その顔はほんの少しだけ寂しそうだった】。
[emotion] 如月 サイ @rosetta212
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