02

 西暦2072年――日本

「マリア、こっちだ」

「待ってってば」

 ―――ハイネ。

 6年前のわたしはその広い背中を見つめながら、彼をそう呼んでいた。

 当時のわたしとハイネは、極東支部にいた。


 ハイネ【meaning:消したい記憶】は日本の伝統的な民族衣装である”ハカマ”というものを着ていた。わたしも勧められたがなんとも着るのが難しそうだったので遠慮した。

 わたしが18歳の頃のことである。ハイネ【meaning:思い出しなくない過去】は何やら楽し気にわたしの手を繋ごうとする。わたしはというと差し出された手の意味を分かっていながらも、初対面の相手に、それも年上の異性と手を繋ぐなんてこと、12年間手に取っていた戦術教本の中のどこにも載っていなかったから、正解【meaning:ハイネが喜ぶこと】が分からなかった。

「ほら」

 催促するように声をかけられ、オリーヴ色の瞳を見上げた。オリーヴの瞳に映るわたしは当然ことながら幼かった。ハイネ【meaning: error】のオリーヴはそこで優しく逆さまの三日月を描き、わたしのまだ大人になりきれていない手を優しく包み込んだ。


 その手は、数多の命を奪ってきたとは到底思えなかった。


「どうだ、すごいだろう」

 初めて見る光景はなんと形容すればいいか分からなかった。赤い大きな門のようなものがずっと先まで続いている。これが何なのか分からずぽかんと開けていた口は、ひゅうひゅうと無意識に空気を入れ替えていた。

「これは鳥居というんだ」

「トリイ…?」

「ああ、日本では神社の入り口に建てられているらしい」

 正直僕もよく分からないんだけどな、と彼の顔がくしゃりと破顔した。わたしは心の中で「ジンジャ…」と反芻した。結局ハイネ【meaning: error】が何のためにわたしをあの場所へ連れて行ったのかは分からなかった。

 しかし、その後交わされた会話は今でも鮮明に覚えている。


「ハイネ・アイブリンガーだ。今日から君の教官を務める。よろしく」

 そんなの知ってるよ、と思いながらも口に出せなかったのは、ハイネの顔があまりにも優しく微笑んでいたから。この人、本当にISIMの上位監査会の監察官なのだろうか、と当時のわたしですら疑問に思ったくらいだ。

 わたしの職業でもある監察官というのは、ゲネン水に含まれる物質から得られるパーソナルデータで世界中の人々を監察し、精神状態に異常値を示す個体の処理を行う者を指す。その中でも上位監査会とはISIM構成員のなかでも8名しか存在しない、いわゆるISIMの幹部という解釈で構わない。一等および二等監察官のみで構成される上位監査会には、現在先ほど名が挙がったブルーノ・ジョイス会長、エフゲニー・クーツェン次席、レイモン・コロンヴィル四席、アイザック・バーグマン六席などが所属している。

 ハイネは6年前当時、この上位監査会の第三席であった。


「よろしく」

「うん、こちらこそ」

 反吐が出るくらいに甘ったれた言葉にわたしは眩暈がした。彼はわたしをまるで都会からやって来た転校生に接するかのように包み込んでくれた。まるで家族から受ける無償の優しさに触れた気がした。

 わたしは彼から、文字だけではない本当の戦闘と戦場の実態を学んだ。学生のときにも実習で戦場に出向くことはあったが、やはり学生という身分は尊い。手厚くガードされていた実習とは違い、わたしはむき出しのままの赴く今の状況に妙な興奮と達成感を覚えた。彼がわたしに教えてくれたことは他にもあった。

「それどうしたんだい?」

 ある昼下がりのことである。聞かれたわたしの手には今にも零れ落ちそうになるくらいの真っ赤に熟れたリンゴが積みあがっていた。

「戻る途中で角のおばさんがくれた。いらないって言ったんだけど」

「それはおばさんの好意だよ。他人からの好意はありがたく受け取っておくに越したこととはない。ちゃんとお礼は言ったかい?」

「覚えてない」

 そう言うと彼は眉を下げて笑った。困っている証だ。

「まあ今は意味が分からなくても、いずれは理解できるよ。人間というのは非常に有能な生き物で、自身が入った環境に順応に適応できる柔軟な力を持っているんだ」

 その時のわたしはふうん、と薄っぺらい返事をした。彼はその後、そのリンゴをたっぷり使ったアップルパイを作って、例のおばさんにそのアップルパイをお裾分けしていた。相変わらず穏やかな表情を貼りつけた彼におばさんは心底嬉しそうに笑っていた。わたしはそんな二人の様子を、よく分からないまま眺めていた。ただ一つ言えることは、おばさんがとても幸せそうに貰ったそのアップルパイは、この日本であなたの祖国の幾千もの命を奪った男の手で作られているということだ。




 人の気配に後味の悪い夢から目を覚ます。

「クラインハインツ卿、もうすぐ着陸いたします」

 ISIM専用ジェット機の中にはわたしと今声をかけた添乗員と操縦士の3人だけしか乗っていない。この”悪”を排斥するこの世界では、環境汚染も悪に分類される項目の一つである。現在搭乗している専用ジェット機も改良に改良を重ね、現在ではほぼ環境及び人体に無害の気体が複数種類混じって排出されているらしい。残念ながらこれは専門外なのでわたしもあまり詳しくは知らない。テーブルランプの明かりだけしかないこの狭い個室は、少し窮屈に感じた。ドアの向こうからわたしの起床を確認した添乗員は、空港に到着後のスケジュールの確認をしているが、わたしは正直ARを見れば一目瞭然の為、全く耳に入れず明かりを点け、身だしなみのチェックをしていた。

 

 約6年ぶりの日本。だんだんと空港へ近づくにつれ、ずいぶん変わってしまった日本が眼下に広がっていた。活気のない真っ白な高層ビルが立ち並ぶ。首都のイメージシンボルであった二つの塔すらも、真っ白に染まっていた。

 白は善の象徴だった。ISIMは白をイメージカラーとし、世界各国の主要都市はその街並みを善の象徴に染め上げた。だいたいどこの国を訪れても同じ景色が広がる。鬱陶しいくらいの白、白、白。6年前まで日本はまだお国柄を維持し続けていたが、この有り様だ。

 6年という時間はあっという間だった。国のイメージを覆し、信頼されていた人に裏切られ、憎しみ、昇進した。そして6年という時間を違う断面から見るとすると、

「ISIMの黒コート…!死ねええぇえ」

 降り立った空港内を歩いているだけだった。ただでさえ目立つ黒いコートを目がけて突進してくる無精ひげを生やしただらしない中年男性が叫んだ。ARが鳴らすけたたましい警告音はわたしの脳内のみに響いている。しかし同じくらいの悲鳴がそこら中から聞こえてきていた。わたしと男を残してまるで舞台に二人きりのような新鮮な環境だった。

 わたしの脳内には警告音や悲鳴の他に、責め立てるようなピアノの音が鳴り響く。

 呼び出したARを確認するに、突進してきたのは鴨田枯葉、46歳、土木建築業を自営で営んでいる妻子持ちの男性。異常値を示しているのは興奮と怒りを示す数値だった。真っ赤に染まりついにはみ出した鴨田氏のグラフを隅に追いやり、ARは鴨田氏の警告【meaning:何らかの要因で精神状態の異常が見られた個体へ勧告する、所謂最後のチャンス】を飛ばして処刑命令【meaning:つまりは殺処分】を必死に掲示している。

「止まりなさい。あなたは周囲に対し多大なる恐怖心の植え付けおよび公的機関であるISIM監察官に刃を向けるという愚行ですでに処刑の執行対象となっている」

「知るかそんなこと!」

 すでに処刑命令が下されているということをあえてかみ砕いて教えてあげたのに、鴨田氏はわき目も振らずに、一生懸命にナイフを振り回していた。わたしは一応通常の手順は踏んだことをAR上の記録に残し、全く引こうとしない鴨田氏に対し、第二フェーズへと移行する。

 パン、パン。

 最初に足首を、次いで心臓を弾丸が貫いた。デジャヴのように血しぶきをまき散らしながら鴨田氏が倒れる。この前のエジプトのときと違うのは、背景が砂漠のこんがりと焦げた砂ではなく、むせ返るほどの白だということ。

 周囲からはぱらぱらと拍手が起こる。わたしたち、ISIM監察官は旧軍人には忌み嫌われているが、民間人にとっては無条件【meaning:悪を制御することを、人々は苦に受け止めていない】に平和と幸福を与えてくれる神のような存在である。それゆえに、こうやって自身の目の前で自分たちと同じ民間人が殺害されようとも、彼らはその個人に対する感情よりもISIM監察官の優秀さに感嘆しているのだ。拍手が大きくなり、まるでわたしは舞台を演じ終えた女優のように思えた。

 そろそろピアノの音がまた滑らかなものに変わっていく。

 パン、パン またしても乾いた音が響く。

「静粛に」

 その声が発されると同時に、一切の拍手が鳴り止んだ。

 その瞬間にわたしはぞくりと悪寒がする。きっと今自分の精神状態グラフを見ると、さっきの鴨田氏のように憎しみ【meaning:つまりはわたしの消したい記憶、思い出したくない過去】の項目だけが真っ赤に跳ね上がっているだろう。

「随分なお出迎えがあったようだな」

「…そのようね」

 真っ白な世界に対のわたしと同じ真っ黒なコート来た男が立っていた。

 忘れもしない、その顔【meaning:忘れたい穏やかな日々】。

 今でも耳に馴染む、その声【meaning:わたしの頭に木霊している】。


「お待ちしておりました、クラインハインツ卿」

 一度かしこまって敬礼をし、一礼する目の前の男【meaning:あまりにも違和感を覚える】。わたしたちの関係はあまりにも変わりすぎ、わたしの彼への感情はあまりにも変わりすぎ、そして何より彼自身があまりにも変わりすぎていたのだ。


 そっと差し出された彼の手袋が外されたまっさらな手。6年前のあの頃【meaning:真っ赤な鳥居がたくさん連なっている】からは想像もつかないくらい自然な流れで、わたしも自分の手袋を外し、その手を握る。


「久しぶりだな」

 6年という時間は人格すらも変えてしまう。握った彼の手は驚くほどに冷たく、それはおよそ数多の命を奪ってきたような手をしていた。

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