【3月刊試し読み】一角獣は楽園にまどろむ 〜ドラゴンギルド〜

角川ルビー文庫

第1話



       †



 今夜も雷鳴が聞こえる。あの雷はまた、雪と禍を喚ぶのだろうか。

 寝台に横たわるリシュリーは口元までを毛布で覆い、遠雷に耳を傾けていた。濃褐色の瞳には古ぼけた天蓋が映る。広い部屋を漂う冷気が、白金色のまつげを掠めていく。

 アルカナ・グランデ帝国は例年と違う冬を迎えていた。

 異常なほどに雷が鳴る。それは意思を持っているかのように深夜になると轟き、帝都や周辺の都市へ落雷し、人々を傷つけ火災を起こした。遠方で鳴ることも稀にあった。そうして雪を連れてくる。

 夜空に稲妻が走るたび、冬の寒さが厳しくなるようだった。

 天鵞絨のカーテンが二重におろされた窓の外へ意識を向ける。今夜の雷は一昨夜や昨夜に比べればかなり弱い。途切れ途切れの雷鳴は、じきに止みそうだった。帝都の民は数日ぶりの安眠を得ているだろう。

 リシュリーだけがいつまでも眠れずに、こうして徒に天蓋を眺めている。声を発しないまま溜め息をついた。

「………」

 アルカナ・グランデ帝国の第四王子であるリシュリーの寝台は無駄に大きく、美しい房飾りと刺繍が施された豪奢な天蓋が付いている。しかしそれは故人がかつて使用していた〝お下がり〟だった。

 色褪せた天蓋を見るのは好きではない。臥してばかりだったころを思い出してしまう。

 幼少のリシュリーは身体が弱く、貧血や発熱を繰り返していた。その原因は判明せず、王家付きの医師団も匙を投げるほどだった。

 命の危機を感じるまでの高熱が出ても、継母である王妃を始め、異母兄たちや王家の者は誰一人として心配せず、見舞うこともしない。アルカナ大帝には病状の報告すらされていなかっただろう。

 日に三度ほどしか様子を見にこない執事たちが、嫌々世話をしていることは幼心にも察知できた。広い部屋の広い寝台に一人残されたリシュリーは、四角い天蓋を見つめながら熱と苦痛を耐えるしかなかった。

 幸いなことに、成長するにつれて体調は改善され、遠出が叶うまでに体力がつく。

 二十一歳になった今は寝込むこともない。それでも色褪せた天蓋を無意識に見つめてしまうのは、リシュリーの虚しい習慣だった。

「……止んだ?」

 遠くで鳴っていた雷が完全に聞こえなくなり、身を起こす。人並みの体力を得ても細いままの肩を、冷えた夜気が撫でていく。

 サイドテーブルの置き時計は午前三時四十分をさしていた。

 また、眠れない――リシュリーは先ほどよりも深い溜め息をつく。眠れないのは連夜の落雷のせいではなかった。

 どこか、身体がおかしい。

 それは幼少のときに悩まされた不調とは明らかに種類が違っていた。

 血がざわめくと言えばいいのだろうか――深夜になると血脈の動きが盛んになって目が冴える。視覚に変化があり、嗅覚も鋭くなった。そのせいか無性に屋外の空気が吸いたくなる。

 不調と言うより異変に近いこの感覚は、二十歳を迎えたころから生じはじめ、徐々に強くなっていた。

 最近では毎夜のように外へ出たくなるが、控える日のほうが多い。

 王家の中で一人だけ立場の異なるリシュリーは嫌でも目立つ。第四王子が夜ごと宮殿内を徘徊しているなどという噂が流れでもすればアルカナ大帝に申し訳が立たない。そう思うと安易に動けなかった。

 しかし我慢も五日目になると少々つらくなってくる。一昨夜と昨夜は激しい落雷のせいで夜間も多くの者が宮殿内を行き来していたが、反対に今夜は皆が寝入っているはずだ。

 リシュリーは意を決して寝台からおりた。靴を履き、厚手のガウンを着ながら机へ向かう。

 机の上は読みたい書籍や資料が常に山積みになっていた。そこから新聞を抜き、小型のオイルランプを手に取る。ガウンのポケットにマッチ箱を入れ、防寒のためにブランケットを纏うと、オイルランプと新聞を持って部屋を出た。

「は、……」

 リシュリーの私室は、広大なアルカナ大帝の宮殿群の片隅にひっそりと存在する。

 天井の高い石造りの廊下は殊更に冷えていて、屋内なのに白い息が見えた。思った通り人影はどこにもない。自分の小さな声が響いて聞こえるほど静まり返っている。

 リシュリーは長い廊下を足早に駆けていく。階段をおり、幾つも連なる広間を抜け、大回廊へつながる扉を開けた。

「あっ……。やはり降って――」

 美しい曲線を描くアーチがどこまでもつづく大回廊。ここにも人の気配はない。先ほどの遠雷が喚んだのだろう、等間隔に立つ柱の向こうに粉雪が舞っていた。

 今は最も気温が下がる時間だが、少しもつらくない。血のざわめく身体にはこの冷たさがちょうどよかった。ずっと欲している澄んだ空気を思いきり吸い込みながら、リシュリーは大回廊に囲われた中央庭園へ足を踏み入れる。

 アルカナ大帝の宮殿群に古くから存在する中央庭園は、大陸諸国が有する庭園の中で最も格調が高いと称されていた。その美しく荘厳な景観から〝神と英雄の庭〟とも謳われる。

 巧みに配置された常緑樹と落葉樹。冬でも豊かに咲くダフォディルやビオラの花々。緻密な浮き彫りが施された壮麗な噴水は、数百年のあいだ一度も涸れたことがないという。

 樹木や草花、水を湛える噴水、そして立ち並ぶ歴代の英雄像や肇国の三美神像にも、一様に粉雪が舞い降りる。 

「……っ?」

 ふいに、美神像の瞳が動いた気がした。三人の女神が、肩をびくりと揺らすリシュリーを見おろしてくる。英雄たちの大理石像までもが動きだしたように見えたのは、視覚に変化が生じたせいだろうか。少し恐ろしくなったリシュリーは大急ぎで中央庭園を抜け、いつもの隠れ場所を目指して走っていく。

 耳の下まで伸ばした白金髪が、銀色に煌めく雪を纏って揺れる。

 リシュリーの濃褐色の瞳いっぱいに宮殿の群れが映った。

「美しい、な」

 中世特有の重厚で美麗なゴシック様式を保持した、アルカナ大帝の宮殿群。ここには三十二の尖塔が宮殿の群れを守るように建っている。大小さまざまの塔の天辺には、アルカナ神話に登場する神々の像が翼を広げていた。

 聖剣をかざす軍神、旗や杖を掲げる神、聖杯や帝冠を抱く女神たち――しかし、美しい神々の黄金像を戴く尖塔の中で、ひとつだけなにもない塔がある。

 二十八番目のそれは〝異端と罪〟の塔だ。

 中世においては異端者や罪人を収容する牢獄であったという。現在は誰一人として近づかず手入れもされない。皆から忌諱され、寂れてしまったその尖塔が、リシュリーの馴染みの隠れ場所だった。

 そこが自身によく当て嵌まっていると思う。白い息を吐きながら、異端と罪の塔へ向かって駆けていく。

「………」

 リシュリー・エイグリース・オル・アルカナ――もう二十一年も経つというのに、この仰々しい王家の正式名には一向に慣れない。己は異端の存在だという思いが、常に付き纏って離れなかった。

 アルカナ王家は王位継承権を持つ四人の王子と二人の王女のうち、第四王子のみ庶子であると公式に発表している。しかし、たとえ公表していなくても、誰もがリシュリーの出自を疑うだろう。

 ――陛下と兄上たちは似ているのに。私だけ……。

 がっしりした体躯と男らしい顔つきをしている彼らは、揃いもののような赤茶の髪と碧眼を持つ。それに比べてリシュリーの身体は細く、髪と瞳の色もまるで違っていた。

 男にも女にも見える顔立ちは幼少のころから変わらない。『不気味で魔物のようだ』と兄たちにからかわれるたび、塔に逃げ隠れたことを思い出す。現在も、宮殿群を出入りする人間が陰で自分を揶揄していることをリシュリーは知っていた。

 ――母上に似すぎたのだろうか。……いや、私は……本当に陛下の血を、引いて……?

 十数年ものあいだ、不安に苛まれながら憶測ばかりを繰り返している。

 リシュリーの手元には写真や装飾品など、実母の存在を示すものはなにひとつ残されていない。それどころか名すら教えてもらえなかった。

 アルカナ大帝はやむなく実子と認めただけでリシュリーには見向きもせず、その出生に関しては断固として言及しない。過去には余計な進言をした重臣や下劣な噂を口にした者に厳酷な処分を行ったこともあるという。王妃は長年にわたり神経を尖らせている。実母の話題は極めて慎重を要するものであり、もはや禁句と変わらなかった。

『おまえを生んだ者は大嘘つきだ。陛下を脅した罪人だ。絶対に許さないぞ』――誰も教えてくれない実母については、三人の兄たちに聞かされた。彼らから酷い仕打ちを受けてばかりいた少年のころのことだった。

「ふ、……」

 異端と罪の塔へ入り、勢いをつけて螺旋階段を上る。白い息が濃くなっていく。リシュリーは黙々と階段を上りながら、兄たちに教えられた母親の話を思い出す。

 今夜のような寒い日に、その女性は乳児を連れて宮殿群にあらわれた。

『一度の夜伽で身籠もったアルカナ大帝の子だ』と騒ぎ立てる彼女のことを、最初は誰も相手にしなかった。しかし乳児を包む絹布が、大帝の個人紋章が施された部屋着と判明したことから話は一変する。それは夜伽を終えた大帝が不用意に置いて去った、私物であった。

 アルカナ大帝は、乳児を実子と公表し女性を第二妃に据えることを要求される。だが王妃が強く拒否し、当時は深刻な問題になったという。騒動の末、乳児は第四王子と認められたが、女性が王家に名を連ねることは許されなかった。

 大金を手に宮殿群を追われた彼女の、そのあとの行方は誰も知らない――。

「母上」

 リシュリーは顔も名も知らぬ女性へ呼びかける。螺旋階段をどんどん上っていく。

 母親は今どこにいるのだろう。幸せに暮らしていることを願ってやまない。

 でも、叶うなら、ともに暮らしたかった。

 もし別れずに暮らしていたら、幼いときは体調を崩してばかりで苦労をかけてしまっていただろう。しかし今のリシュリーなら母親のために働ける。父親のことは、分別がつく歳を迎えたときに教えてくれたらそれで充分だったのに。

「おまえの父親はアルカナ大帝陛下なんだよ」と言われても、最初はひどく驚いて、すぐには受け入れられないかもしれない。でも、リシュリーは母親の言葉を信じると思う。話を聞き、よく考えて、「そうだったんだね。教えてくれてありがとう」と伝えたはずだ。そうできたら、どれほどよかっただろう。

 母親は本当に地位を欲していたのだろうか。リシュリーは自分を生んでくれた女性をそのように見ることができなかった。しかし、誰も口にしなくても、多くの者が疑念を抱いている。王家の名を我がものとするために、余所の男とのあいだにできた子を大帝のローブで包んだのではないかと――。

 真実を知る術がない。だからいつも不安だった。人を寄せつけない冷淡なアルカナ大帝に、血のつながりを見出せなかった。それがなにより己の存在を異端で不安定なものにする。

 美しく広大なこの宮殿群にリシュリーの居場所はない。

「は、……っ」

 螺旋階段は長く、いつも息が弾んでしまう。天辺に辿り着いたリシュリーは追憶と思惟をやめた。

 かつて存在していた頑丈な鉄格子の扉は、今は朽ち果てて完全になくなっている。血の臭いや死臭も消えきっていて、嗅覚が鋭くなったリシュリーですらなにも感じない。ここで亡くなった囚われ人の悲嘆も昇華されているように。塔に来るたびそう願う。

 異端と罪の塔に上ると、いつも最初に北の空を瞳に映す。そうすると不安が少しだけ抑えられるから不思議だった。そしてここにはリシュリーの特別な思い出がある。

 小さな〝魔物〟との思い出が――。

 オイルランプを足元に置き、鉄柵もガラスも朽ちて窓枠だけになったそこに腰かけた。澄んだ夜気を吸いながら眼前に広がる風景を見つめる。

「あ。雪が……」

 粉雪はいつの間にか止み、風が強くなっていた。

 午前四時の帝都を照らす灯りは疎らで、アーイルス川に沿って等間隔に立てられたガス灯も、今はオレンジ色の光を消している。川に架けられた八本のブリッジや、蜘蛛の巣のように張り巡らされた道路に、蒸気自動車や馬車の影はほとんどない。

 灯りを絶やさない巨大な時計塔だけが、冬の夜空にくっきりと浮かぶ。それは産業革命を興したアルカナ・グランデ帝国の、技術改新と経済発展の象徴だった。

 この宮殿群で生まれた中世の栄華と繁栄が、産業革命の幕開けを導き出す。そして、国家の資産を莫大なものとし、科学力と強大な軍事力を手にした帝国の人間たちは――〝魔物〟との共存共栄の道を完全に棄てた。

 リシュリーは首にかけている細いチェーンを引っ張り、寝衣の中から白銀のロケットを取り出す。ここには小さな魔物との大切な思い出を入れていた。

 ロケットを握り、第四王子という立場から口にできないそれをまた思い浮かべる。

 ――果たして〝魔物狩り〟は、正しい行いなのだろうか……。

 広大な土地と海洋を保持するアルカナ・グランデ帝国には、人間のほかに〝魔物〟が存在する。海には人魚や魔海獣が棲息し、陸上には名も知らぬ多種多様の魔物たちが最北の寒冷地にまで分布していた。

 そしてそれらの頂点に君臨するのが竜であり、彼らとほぼ同等の位置に、強い魔力と知恵を持つ魔女がいる。かつて竜と魔女は、魔物たちを統率し守護する絶対的存在だった――リシュリーはそう学習した。

 王子専属の家庭教師が鼻高々に語ったことを思い出す。

『産業革命の勃興期に、政府は〝魔物狩り〟を発令しました。人類の進歩を阻む魔物を一掃する必要があったからです。帝国軍は多くの犠牲を払いながら魔物を討伐し、ついに魔女を絶滅させ、竜を斃すに至るのです。じつに誇らしい! しかし腹立たしいことに、最後の魔女・ジゼルによって竜を守る組織が作られてしまいました。憎き魔女が設立したその結社は――』

「――ドラゴンギルド」

 冷たい夜風が強く吹いて、白い息があっという間に流されていく。白銀のロケットを手にしているリシュリーは、かさかさと音を立てる新聞をもう片方の手で押さえた。

 魔物狩りによって絶滅寸前へ追いやられた竜の一族。彼らは、魔女ジゼルが命と引き替えに設立した結社・ドラゴンギルドに所属することで魔物狩りを免れることとなった。

『ドラゴンギルドの竜を狩ったとき、アルカナ・グランデ帝国は滅亡する』――ジゼルが死に際にかけた凄まじい呪いは、三十年が経った今も帝国を緊縛しつづけている。

 ドラゴンギルドは組織形態を結社としたが帝国軍の末端に位置づけられた。竜は結社の従業員となり、帝国軍に所属する軍士となる。

 魔物狩りを免れるその代償は、労働による帝国への貢献だった。

「世界最強の魔物が、帝国の軍士――」

 それは断じて共存や互助ではない。竜を殺したくても殺せない政府と帝国軍。魔物の統率者でありながら、魔物狩りを行う人間を守護しなければならないドラゴンギルド。そこには決して消えない矛盾と軋轢が存在していた。

 リシュリーがいる尖塔の天辺からは、政府の中枢である議事堂のドーム屋根と、帝国軍の総司令部が入っている巨大な建物が見える。それらは宮殿群の敷地内にあり、ドラゴンギルドは宮殿群を支える岩山の裏側にあった。

 距離の近い三者の関係は、極めて危うい均衡の上に成り立っている。

 一触即発の状態が常のようだった。政府の要人が隠匿していた竜母神ティアマトーの不死卵をギルドが奪還した大事件や、人魚の一族を巡って帝国軍とギルドが大規模な海戦を行った事変は記憶に新しい。

 帝国のために働く竜たちの姿は毎日のように見る。彼らは、人間が造った天を衝くほど高い時計塔を軽々と越えて飛ぶ。ギルドの経営者である筆頭バトラーは十年ほど前に宮殿内で一度だけ見た。片眼鏡をかけた、二十歳くらいの非常に若い男だった。

『ドラゴンギルドに視察団を送る予定はありませんか? そのときは私も入れてもらうことはできますか?』

 リシュリーは視察を自分の役目として開始した十四歳のときに、そう願い出たことがある。

 しかし家庭教師に激怒され、兄たちには嘲笑された。

『ま、魔物の……不浄の地ですぞ!? そのようなこと二度と口になさいますな!』

『気味の悪い顔に相応しい不気味な発言だ。おもしろい、行かせてやれよ』

『みずから魔物の巣窟に行くとは……やはりこいつ魔物ではないか? ははっ』

『視察とは体よく言ったものだ。ドラゴンギルドで魔物どもに錬金術でも習うつもりだろう。臓物を抜かれるがいい』

 リシュリーは結社を視察したいという純粋な気持ちで願い出ただけなのに、錬金術を欲していると揶揄され、魔物扱いまでされて、ひどく傷ついたことを憶えている。

 錬金術は古代より魔女の一族が継承してきた魔の法術だった。金や金剛石の精製から始まり、不老の魔薬の抽出、個体同士の合成、果ては腐乱した死体の完全再生まで、術式の内容は忌まわしさに満ちている。

 しかし中世においてはその蠱惑的な魔術に囚われる人間があとを絶たなかった。人間が錬金術を行うためには魔女や魔物の協力が必要不可欠であり、彼女らは禁忌の術式を与える代償に、人間から臓器や性器を奪うという。魔物との交わりによって為される忌まわしい錬金術は、魔物狩りの発令と同時に恒久的禁術となった。錬金術に関する本は例外なく禁書とされ、政府によって没収された。

 異母兄たちはリシュリーの発言に「錬金術」という尾鰭をつけてアルカナ大帝へ報告したのだろう。翌日には【結社への接近を厳禁とする】という短い書状が届いた。

 だからリシュリーはその場所へ一度も近づいたことがない。

 世界最強の魔物の組織・ドラゴンギルドは帝国で最も有名で、かつ謎に満ちている。

 筆頭バトラーの許可がなければ人間はギルドに入れない。そして彼が許可することはほとんどないという。岩山を挟んで背中合わせに建つ結社が、リシュリーには異世界のように感じられた。

『魔物は絶対悪』『魔物は人間に仇なす存在』『絶対に近づかないこと』――産業革命以降に生まれた子供たちは同じ教育を受ける。しかしリシュリーはこれらの教えに完全に従うことができなかった。

 確かに魔物は得体が知れない。人肉を主食とする種族が生き残っていると聞けば恐ろしくなる。完全に廃れてもなお、錬金術という言葉には不吉で禍々しいものを感じた。その一方で、魔物狩りが正しい行為なのか疑問に思ってしまう。

「人間と魔物。共存の道は、ないものかな。難しいだろうか……」

 普段は絶対に口にできないけれど、いつも考えていた。幼少のときに一度だけ会った小さな魔物が、リシュリーに冷めることのない思いを抱かせる。

 変わらず夜風は強いが平気だった。新聞を脇に挟み、手にしている白銀のロケットに視線を落とす。

 少し大きめのロケットは、贅沢をしないリシュリーが唯一、銀の工匠を呼び寄せて作らせたものだ。欠片の形と大きさに合わせてロケットを作るよう依頼し、蓋には欠片に劣らないくらいの美しい細工を施してもらった。

 繊細な模様の浮かぶ蓋を開けて、中に入れている欠片を丁寧に取り出す。

「綺麗だな」

 手にするたび、感嘆の吐息が自然とこぼれ落ちる。欠片は、この尖塔で半時だけ一緒に過ごした、小さな魔物がくれたものだった。

 硬くて黒いそれは透き通っていて、金の砂が含まれている。光がなくてもおのずと煌めき、時折稲妻のような金色の閃光が走る。まるで欠片そのものが生きているみたいだった。

 これ以上に美しいものを、リシュリーはまだ見たことがない。古来、宝石よりも希少と謳われる、竜の鱗のようだった。

 欠片は今もまた、リシュリーの掌で黒と金の輝きを力強く放つ。

 幻想的な様子に見蕩れるその一瞬だけは、王家からの冷遇を受けるつらさも、疑わしい出自による不安も忘れることができた。苦悩に囚われずに、第四王子としてできることを行っていこう。そう思える強さまで齎してくれる気がした。

 美しい欠片を見つめながら、小さな魔物との出会いを思い起こす。

 リシュリーは七歳だった。宮殿内の茂みに魔物がいるとは思いもしなくて、びっくりしすぎて派手に尻餅をついてしまったことを憶えている。

 茂みに丸まっている魔物は黒の翼を持ち、上半身には黒い鱗みたいなものがあった。でも下半身と尻尾は黒色の獣毛で覆われていて、獅子のようにも見える。

 その後脚の付け根に、火傷をしていた。魔物は茂みに隠れ、身体を丸めて痛みに耐えていた。火傷はなにかを示す模様のようにも見えるが、幼いリシュリーには判別できない。

 それよりも痛みを和らげたいと思った。だから魔物を抱き上げ、この塔に連れてきて、自分の冷たい手で傷を冷やした。冷やしながら、魔物と一緒にまどろむ。目覚めたら魔物は姿を消していて、掌に黒く輝く欠片が残されていた。

 不思議な姿をした小さな魔物とは、それきり会えていない。

 ――元気にしてるといいな。魔物狩りにだけは遭っていてほしくない……。

 七歳のリシュリーは毎日のように、もらった欠片を握りしめながら宮殿群の中を捜した。

 週に二度ほど各地を視察する現在は、行った先でも無意識に捜してしまう。綺麗な欠片を眺めながら、彼は今どこにいるだろうか、もう一度会えないだろうかと思うのは、リシュリーの長年の癖だった。

 ひとしきり物思いに耽ると、欠片を丁寧にロケットに入れ、それを寝衣の中にしまう。

 二時間ほどここで過ごし、夜明け前には私室へ戻ると決めた。澄んだ空気を身体に詰め込めば、血のざわめきも治まるだろう。そう考えながらオイルランプへ手を伸ばしたとき、持っている新聞の文字が目に飛び込んできた。

「………」

 また見える。気味が悪い――伸ばしていた手を引っ込め、新聞をくしゃりと握る。

 午前四時の宮殿群に灯火はほとんどない。空は雪雲に覆われて、月明かりも星明かりもなかった。まだオイルランプをつけていない尖塔の内部には濃い暗闇だけがある。

 それなのに、見えないはずの新聞の小さな文字が、はっきりと見えた。

 夜目が異様に利くようになっている。おかしいのはそれだけではない。リシュリーが毎夜のように外へ出たくなるのは、宮殿内が人間の臭いで満ちていて息苦しく感じるからだった。

 初めてそう感じたとき、ひどく驚愕した。人間の臭いが息苦しいとはどういうことだと自問してもわからない。鋭くなった嗅覚が勝手に匂いを嗅ぎ分ける。人間の臭いと、なんの匂いを嗅ぎ分けているのか、リシュリー自身が理解できていないから不気味だった。

 リシュリーは恐る恐る額に触れる。

「……っ」

 あの嫌な感触があった。額からすぐに手を離す。

 得体の知れない感覚は、いったいいつ治まるのだろうか。不安でしかたなかった。

 不調ではなく、明らかな変異を起こす身体。異様なほど鋭敏になった視覚と嗅覚。夜になると騒ぐ血。そして、日を追うごとに違和感が増す、前頭部にできた瘤のようなもの――。

 もし、一人の人間が持っている特徴として、これらを羅列されれば、リシュリーはその者のことを魔物と思うだろう。

「違う。そんなことは絶対に起こり得ない。私は……陛下と、母上の子だ。――陛下、……」

 なんの証拠もなく頼りないばかりのそれに縋る。

 気概に乏しい自分が本当に嫌だった。出自に確証がひとつもなくても、第四王子として堂々としていればいいものを、異母兄たちに繰り返し言われてきた『不気味で魔物のようだ』という言葉にまで翻弄されている。

 ありもしないことで悩むなど愚かしい。忍び寄る暗い不安を追い払うために、急いでオイルランプをつけた。

 狭い塔の内部がオレンジ色に染まる。暖かな色を瞳に映しながら、澄んだ夜気を胸いっぱい吸い込んだ。そうして気持ちを落ち着かせ、リシュリーは新聞を読みはじめる。

【黒い竜あらわる。雷を以て都民を殺傷。落雷による火災多発】

 第一面の大きな見出しが伝えてくるそれは、今、最も帝都を騒がせている噂だった。

〝黒い竜〟と呼ばれる有翼の巨大な魔物が帝都や周辺の都市に姿をあらわすようになったのは、秋の終わりのことだ。この魔物が人間や家屋を狙って雷を落としているという噂――連夜の落雷に怯える人々は、黒い竜が異様な冬を連れてきたと口にする。

 しかし噂に過ぎなかった。巨大な魔物は夜にしか姿を見せず、闇夜に溶け込むその全貌をはっきりと確認できた者は一人もいない。それが雷を操っているかも定かではなかった。

 新聞の第一面には、時計塔の天辺に降り立つ魔物のモノクローム写真がある。新聞社は特種として大々的に掲載しているが、真夜中に撮影された写真は非常に不鮮明で竜かどうかは判別できない。なにより竜母神ティアマトーが産む竜は四種類と決まっていて、その中に黒色の竜はいなかった。

 永生の竜母神ティアマトーとは、すべての竜の母御のことを指す。

 アルカナ・グランデ帝国が興る遥か前よりこの地に棲む彼女は、永きにわたって息子たちに世界を守護させていた。生と死を永遠に繰り返す不滅の身体は虹色の鱗で覆われているという伝説があるが、その姿を見た者は誰一人としていない。

 世界でたった一匹の雌の竜であるティアマトー。竜母神は雄の竜だけを産み落とす。彼らは赤色の火竜、水色の水竜、琥珀色の土竜、緑色の風竜の四種に分けられた。

 だから黒い竜など絶対に存在しない。そう言いきれる。

 また強い夜風が吹いて、新聞がバサバサと大きな音を立てた。ばらつかないよう押さえながらページをめくり、紙面に目を走らせる。

【フェンドール地方の山にて雪崩発生。村が呑まれ数十名が死亡。帝国軍、ドラゴンギルドともに間に合わず】――それは派手に掲載された黒い竜の記事とは正反対の、見落としてしまいそうなほど小さな記事だった。

 深い溜め息が出る。リシュリーが各地を視察するようになって七年になるが、最北端の地・フェンドールへは二、三度しか行けていない。この冬こそは視察へ行くと決めていたのに、雪崩の発生を知ったアルカナ大帝から即座にフェンドール視察禁止の書状が届いた。

 リシュリーはひどく落胆した。第四王子の身を心配しての禁止命令ではない。王家の者が事故の起こった場所へ行くためには多くの人員を動かす必要がある。リシュリーに充てられる護衛も世話係もいない、余計な行動を取るな、という理由からだった。

「一人で行けるのに……実際に現場を見なければ意味がない」

 人を寄せつけない冷淡なアルカナ大帝。まともに会話した記憶はほとんどない。

 幼いころは、父親であるはずの男性を遠い場所から見ることしか許されていなかった。十四歳のときに視察を始めたのは、大帝に少しでも近づきたい一心からだった。

 帝都から離れた土地の様子を確認し、書類にまとめ、アルカナ大帝に謹んで提出する。そのときのリシュリーは誰よりも大帝に近づいている。もしかしたら言葉を交わしてもらえるかもしれない。そのような期待を抱いて書類の提出に臨んだ。

 だが希望はあえなく潰された。普段は鉄面みたいに表情を変えない大帝が、嫌悪に満ちた顔をする。期待していたその分、リシュリーの衝撃と落胆は計り知れないものになった。当然ながら、いつまで待っても書類に関しての言及はしてもらえない。

 リシュリーはこれまで二百を超える書類や書簡を提出してきた。でもきっと、一度も目を通されないまま処分されているのだろう。

 報われないことが悲しくて、何度も挫けそうになった。しかしそれを堪えて視察をつづけるうちに、リシュリーの中に変化が訪れる。

 僻地に足を運んで現状を知り、人々と会話を重ねてともに思い悩む。問題を持ち帰り、書類にまとめながら、なにか策はないかと考えた。考え抜いた対策に必要な資金を試算し、ふたたび僻地を訪れて住民に提案する。それが上手く功を奏し、問題が解決した瞬間に、これまで得たことのない大きな喜びがあった。

 アルカナ大帝に近づきたくて始めた視察は、いつしかリシュリーの大切な仕事になっていた。賑やかな街と寂れた村、田畑と工場、養護施設――現在は、さまざまな施設や土地へ赴く。

 大帝への書類の提出もやめていない。でも、現状を自分の目で確かめることに重きを置いていた。

 リシュリーは新聞の片隅に載った小さな記事をなぞる。

「遠く離れた土地こそ、帝国の大いなる力や恩恵を受けるべきなのに……」

 帝国軍もドラゴンギルドも間に合わなかった、最北端の地・フェンドール。

 北の果ての暮らしは殊更に厳しい。それでもリシュリーは、一年の半分近くが雪と氷に覆われている北端の地に惹かれていた。特別な縁があるわけでもないのに、なぜだろう。少年のころからずっと抱いている憧憬に似た思いが、どこから湧いてくるのか自分でもよくわからなかった。

 リシュリーはいずれ、帝都から最も離れた領地を治めることになる。

『おまえも支配者になれるんだ。片田舎のな』と、長兄から繰り返し聞かされていた。

 行き先はまだわからない。東の果ての、隣国との国境に広がる砂漠かもしれないし、西の端の、人魚や魔海獣が多く棲む海に浮かぶ孤島かもしれない。

 それは事実上の追放だった。ある日突然、アルカナ大帝に命じられるか、新王となった長兄に「今すぐ行け」と言われるか――いっそのこと自分から願い出たいと、いつも思っていた。

 また癖が出る。リシュリーは衣服越しに白銀のロケットを握りしめた。

 つらいことや悲しいことがあったとき、不安になったとき、そしてなにかを願うときも、リシュリーは美しい欠片を入れたロケットを握る。塔の天辺に着いてすぐに、白銀のロケットに触れながら北の空を見るのは、少年のころからの癖だった。

「遠くへ行くなら、フェンドールがいいな……」

 やはりどうしても北端の地に惹かれる。リシュリーはこれまで何度か想像してきた、雪深い村で暮らす自分をまた思い浮かべた。

 雪崩の発生を止めることはできない。でも、対策は立てられるのではないだろうか。

 ――複数の観察隊を編制して、二十四時間態勢で観察すれば、早めの避難も促せる……。

 そのようなことを考えながら、北の夜空を眺めた。

 真っ白な連峰の頂は厚い雪雲に覆われている。

「……っ!?」

 ふいに、ドクンッと血脈が弾んだ。冷たい空気に包まれて落ち着いていた身体が、無理やり高揚させられたようになる。今までにない激しさに驚いたリシュリーは新聞を取り落とす。

 同時に下のほうでなにかが動いた。複数の人だとわかる。とっさに座っている窓枠からおりて身を隠し、オイルランプを消す。

 しかしそのあとすぐに、自分の行動が不要のものだったとわかった。

 窓枠から顔だけを出し、見おろして驚愕する。数人の男たちとリシュリーのあいだには、普通なら互いに気づけないほどの距離があった。

 たとえオイルランプの光があっても、男たちは絶対に気づかないだろう。それ以前に、尖塔の天辺にいるリシュリーこそ、暗闇に溶け込む豆粒ほどの人影を認識できるはずがなかった。

 それなのに、よく見える。また夜目が異様に利いている。

 こんなにも見えるのはおかしい。その思いとは裏腹に、リシュリーの瞳は男たちが着ている軍服の色までとらえた。

 ――カーキ……陸軍だ。なんだろう、なにを運んでる……?

 陸軍は頻繁に宮殿群を出入りする。ただ、午前四時という時間と運ばれている物体が不審を色濃くした。

 軍人たちは八人編制の小隊を組んでいた。四人が大きな箱を担ぎ、その前後に付いた二人ずつの軍人が小銃を構えながら周囲を見張る。

 箱にはカーキ色の布地がかぶせられていて、その中身を知ることはできない。しかし、小隊が非常に疑わしい任務にあたっていることは充分にわかる。

 ひどい胸騒ぎがして、リシュリーは白銀のロケットを握りしめた。

 また強い風が吹く。突風に近い。床に落としたままの新聞が奥のほうまで飛ばされる。そんなことは少しも気にしないで大箱を凝視した。

 突風を受けたカーキ色の布地が舞い上がる。変異を起こした視覚のせいだろうか、その一瞬が、やけにゆっくりとして見えた。

「あっ!」

 リシュリーは大声をあげる。布地が一部だけめくれたそこに見えたのは、鉄格子だった。

 檻だ。陸軍小隊は檻を運んでいる。中には人間が――裸の人間が入れられている!

「なんだっ、あれ! 酷い、なんということを……!」

 もはや声を出すことにも身を乗り出すことにも躊躇しなかった。

 どくどくと騒ぐ血がうるさい。心臓が痛むほどの動悸がする。

 リシュリーには檻の中の男が鮮明に見える。

 冬の夜気を撥ね返すような褐色の肌。隆起した筋肉と長い脚。首筋を伝う黒色の髪。

「嘘だ、そんなっ」

 男がリシュリーの視線に気づいた。信じがたい。檻の中でおとなしく座っていた男が、にわかに動きだす。鉄格子を握りしめる。その手も美しい褐色をしていて、とても大きかった。

 軍人たちは静かに驚愕し、めくれた布地を懸命に戻そうとする。それを阻むように、男が檻を激しく揺らした。限界まで鉄格子に顔を寄せ、見上げてくる。

 リシュリーは息を呑む。絶対に見つからないほど遠く離れているのに、男にとらえられた。

 縦長の瞳孔をした、眩いばかりの金色の瞳。その鋭い視線が、リシュリーの瞳の奥まで入り込んでくる。

「うぅ、っ……!」

 弾丸で打ち抜かれたような錯覚に陥った。勢いよく後ずさりをし、尻餅をつく。

 恐ろしい、でも断じて見逃すわけにはいかない。彼がどこへ運ばれるのか確認しなければならなかった。

 震える脚に力を入れて立ち上がり、リシュリーはふたたび窓枠から身を乗り出す。

「あっ……、どこに――」

 男を運ぶ陸軍小隊は、宮殿の群れの合間に消えて見えなくなっていた。

 あれほど強く吹いていた夜風がぴたりと止む。

 リシュリーに見えたのは、風もないのに揺れる不自然な木々だけだった。

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【3月刊試し読み】一角獣は楽園にまどろむ 〜ドラゴンギルド〜 角川ルビー文庫 @rubybunko

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