8月19日
8月19日
「俺の幼馴染に千和小町ってのが居てさ、楓と出会った日に獣還りしちまったんだ。そいつの家に行って、遺言みたいなのを読んできた」
「……その人って女の人?」
「今それ関係ないだろ?」
「ある」
夜空を見上げながらの会話というのは思っていたよりもずっと楽しく、俺達は時間の経過も忘れて延々と話し続けた。
本人だけ誇れる武勇伝の名を借りただけのような話も、オチのないただの日常の切り取りも、お互いに同調し、笑い、波が押し寄せるのをBGMにして、終わりはどこまで行っても見えそうもない。
「爺ちゃんの話ってした事あったっけ?」
「軽くなら。詳しくは聞いてないけど、もう死んじゃったって事は聞いてる」
「ん、じゃあ話しとくわ。神社で祭りができたのも爺ちゃんが居たからだしな」
けれど好美の家であった話をしている時だけ楓は露骨に不満そうな顔をしていた。
尻尾は逆立っているし耳はレーダーのように動いているしで、最後にしっかりと終わらせてきた、と言い終わるまでこちらの気が休まることはなかった。
「葛西ほんとむかつく! アイツなんなの!?」
「あ、そういえば俺あのジジイから金借りて返してねぇや」
「お金?」
「ああ、十万ぐらい押し付けられたんだよ。結局使ってないんだけど」
そうやって話し込み、頭上の道路を走る車もめっきり減った頃、ポケットの中でクシャクシャになっている線香花火の事を思い出した。千切れたりしないように丁寧に取り出すが、元々折れ曲がっていたのが更に悪化して火がちゃんと点くのかも怪しい有様になっている。
「それ、線香花火?」
いきなりポケットから謎の物体が出てきたにも関わらず、楓はすぐにそれが何なのか見抜いてこちらへ体を寄せてくる。
「この前のキャンプの時にできなかったヤツだよ。ライターも一緒に持って帰ってきてたから湿気ってなければ火は点くと思うんだけど……」
「ねえねえ、それアタシがやっていい?」
「楓がやりたいと思って持ってきたんだよ。これなら花火詰め合わせでも買ってきておけばよかったな。ああでもそしたら見つかっちゃうか」
花火を楓へと渡し、ポケットからライターを出して何度か動作確認をするが問題はなさそうだ。
今か今かと待ち焦がれる楓の手から垂れる不恰好な線香花火に火種を近づけ、しばらく炙っていると、パチリ、という音と共に花火の先端が小さな光を灯した。
「生きてたみたいだな……。動かしたら落ちるから動かすなよ」
「わ、わかってる!」
火種を守るように片手を風よけにし、楓は真剣な面持ちで、花を咲かせる線香花火から一時も目を離さない。言葉は無く、パチパチと己を燃やし続ける線香花火の音と波のさざめきだけが俺の耳に届いていた。
「これで、夏も終わりだな……」
問いかけるような口調だが、返事は求めていない。
この線香花火が終わったら、世間より早く俺達の夏は終わってしまう。
俺も楓もあえて口にしなかったが、俺の体はどんどん毛に覆われ、今では顎や手の甲まで浸食されてきている。
楓は骨格が変化していってるようで、花火を持つ手が段々と震えてきていた。
そうして、小さな灯は音も無く砂の上に落ち、あっという間に消えて無くなってしまった。
「あー……、終わっちゃったかぁ」
惜しむようでいて、仕方ないと楓は笑う。
それに微笑みを返そうとしたのだが、何故だか顔の筋肉が上手く動いてくれない。
ついに本格的に始まってしまったらしい。
「悪い、俺そろそろ限界っぽい」
「……実はアタシも。めっちゃお腹の中ぐるぐるしてる」
死がすぐそこまで迫っているというのに、なんとも緊迫感のない会話だ。
線香花火の儚さは自分たちの不調によって上塗りされ、せっかくの余韻も眼窩の残照も味わうどころではなくなってしまった。
「あ、太一、アタシの右肩上がんなくなっちゃったみたい」
「マジでか。俺、顔の骨格変わり始めたみたいで超いてぇ」
最後だから、最後だと知っているからこそ、いつもと変わりないように演じている。
周りから見たらさぞ滑稽な事だろう。けれど、俺達はこれでいいのだ。
何故なら俺達はセカイで二人ぼっちなのだから。
「……そろそろ、海に入ってもいいんじゃないかな」
「ああ、そうだな。ってかもう関係ないわ。歩けるか?」
「うん、なんとか大丈夫そう」
お互いに支え合うようにして、俺達は海を目指して浜辺を一歩ずつ進んでいく。
一歩踏み出す度に全身が軋み、呼吸をする度に内臓が口から飛び出そうな吐き気を催す。
それでも俺達は足を止めない。
歯を喰いしばると刺さる牙を無視し、拳を握ると皮膚を裂く爪も見ない事にした。
そうやっていくらかの時間を使い、俺達はようやく波打ち際へと戻ってこれた。
「それじゃあお先!」
「……急がなくても逃げねぇよ」
残った体力を振り絞って、楓は俺より一足早く海へと入っていく。
俺もそれに続き、寄せる波を踏みつけると、指の間を冷たい水が通り抜けて、熱された体になんとも心地がよい。
「はー! これで本当に夏は終わりだね! アタシのわがままもこれで終わり!」
まるでそうやって自分に言い聞かせるように、楓は遥か彼方から俺達を見下ろす月を仰いだ。
その後ろ姿はとても神秘的で、俺も一瞬だけ体の痛みを忘れて、その神々しい輝きに目を奪われた。それはもうすぐ失われてしまう尊さ故か、月の光に負けないような煌めきを楓は全身から放っている。
「……ねえ太一、実はもう一個だけわがままがあるって言ったらどうする?」
楓は俺に背を向けたまま、そんな事を言う。
今までの流れから答えは分かっているだろうに、なんとも意地が悪いヤツだ。
「……言えよ。叶えてやる」
「やっぱり。太一は優しいね」
俺の答えに満足そうに頷き、楓はスカートの裾が濡れる事を気にせずどんどん沖へと足を進め、腰まで海に沈めてから立ち止まった。夏の虫が篝火に誘われるように、俺もその後姿をただただ追いかける。
「……こういうの頼める人ができるなんて思わなかったなぁ。あ、でも太一が獣還りするのも同じタイミングだから言えるのかも」
叫びたくなるぐらいの痛みが全身を駆け巡っているだろうに、楓の声はどこか楽し気で、振り返ったその表情も優しく、あまりにも真っ直ぐで、それ故かどこか非現実めいていた。
初めて出会った、あの祭りの日のように。
「アタシね、太一が先に死んじゃったらどうしようってずっと思ってた。だって誰も理解してくれない事を理解してくれる人がいきなり消えちゃったら、それってパパやママの時よりずっと辛いと思うから」
背後で浜に打ち寄せる波の音が聞こえる。ざざんざざんと規則的なそれはいつの間にか随分遠くに行ってしまった。
「太一と出会えて、構ってもらえて、遊べて嬉しかった。理解してもらえて嬉しかった。頷いてもらえて嬉しかった。だから、だからこんなことは太一にしか頼めない」
静かに、波の動きと同調するように楓はこちらへと手を伸ばした。
「太一、海の向こうに行ってみたくない?」
ああ、これじゃああの時と真逆じゃないか。
かつて自分自身が誘った少女は、今その相手に対して手を差し伸べている。
神社でもうすぐ死ぬのだと告白した時と同じように、楓は笑っていた。
「アタシは太一がいない世界は耐えられない」
楓が本当に欲しているもの、それが俺なのか、それとも価値観を共有できる誰かなのかはわからない。けれど今俺はここにいる。俺にだけその言葉は向けられている。
その事が何よりも嬉しく、そして悲しくなった。やっぱり俺達はどこまでも行ってもこうなのだと。
「……俺もだ。俺も、こんな世界で一人は嫌だ」
だから、離れないようにしなくてはいけない。
きっと一人ぼっちだと、倒れてしまうから。
折れそうに痛む足を一歩前に進める。
手を伸ばせば届きそうな気がするのに、どこまでも楓は遠く、一向に彼女の側に辿り着く気がしない。
「……ありがとう」
楓は笑っている。だから俺も笑った。
俺や楓が獣になっても世界は変わらない。
世界だけでなく、取り巻く環境も、人も、家族も、誰もが変わらない。
それは千和小町という存在が自らを持って証明してくれた。
そんな世界は狂っている、絶対に間違えている。
それでも世界が正しいと言うのなら、俺は、そんな世界は欲しくない。
それに俺はもう覚悟を決めたのだ。エゴを押し通すと決めたのだ。
ならば、俺のエゴに同調してくれる楓の頼みは、叶えなければならない。
「これから死んじゃうのに、随分あっさりしてるんだね」
「こえーけど、最後ぐらいかっこつけさせてくれよ」
世界は俺達を否定した。ならば、俺達も世界を否定する。
生まれた時からあまりにもどうしようもなく、それは今日まで何も変わらない。
けれど、今俺の隣には仲間がいる。理解してくれる人がいる。
それだけでいい。それだけでよかったのだ。
「……月、綺麗だね。花火も綺麗だったけど、違う綺麗だ」
空から照らす月を見上げ、楓はふっと大人びた笑い方をする。
その横顔は月なんかよりもよっぽど綺麗なのだが、そんなにいいものなら自分も見て見たいと、楓を真似して月を仰いだ。
中途半端に欠けた月は、夜間照明もないこの砂浜を自らをもって照らし、その輝きはまるで海の奥深くに俺達を誘い込むような冷たい魅力があった。
「……そろそろ行こうか」
「……おう!」
ニカッと笑う楓に負けじと笑い返して、俺達はお互いの手を握り、月を目指す。
少なくとも俺は、俺と楓は、この選択肢を選んだことを胸を張って自慢できる。
何故ならこの世界で唯一の仲間を信じ、最後まで共に居ることができたから。
そんな俺達を何も言わずに見つめ続ける頭上の月は、少しだけ欠けているのが俺達を嘲笑っているようにも見えて、けれどほんの僅かに祝福してくれているような、そんなよくわからない気分にさせてくれる。
そうしてそれは、気がつくと朧月のように揺らめいて霞んでしまう。
何故だろうと考えるより早く、全身の体温が奪われて月以外が見えない状況に、体が水中に深く沈んでいっているのだと理解する。
その中で固く結ばれたままの左手が、何よりも力強く、そして幸福なのだと。
俺の最期は、何よりも誰よりも、幸せなまま終わりを迎えた。
了
セカイはたった二人ぼっちで 能登ヒロノリ @hi-nori-ro
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