8月18日 PM8:00

 花火大会終了のアナウンスがスピーカーから周囲に響き渡る。

 それを合図にして河川敷に居る人々が一斉に立ち上がり、さっきまでの祭りの熱に浮かされた喧騒とは全く異なる現実的な雑踏に俺達は埋もれていた。


「花火綺麗だったね! 最後の大きいのとか、本当すごかった!」

「そうだな、でも俺は途中の上から火花がいっぱい落ちてくるヤツが驚いたな。あんな花火があるなんて知らなかった」


 人がある程度掃けるまでここで待っていようと、俺達はさっき見たばかりの花火の感想を座ったまま交換し合った。出店の多さ、そして神社での祭りとは一線を画す花火の気合の入りように楓は終始はしゃぎまわっていたはずなのだが、未だ元気を余らせているようだった。


「あの大玉もすごかったなぁ、あの大きさの花火っていくらぐらいするんだろ? 店で売ってる花火とは全然値段も違うよね」

「いくらぐらいだろうな。ウン十万の世界になるとは思うけど」

「さすがにアタシ達だけじゃ買えないかぁ」


 とりとめのない会話をしながら、俺達は夜空を見上げていた。

 祭りの灯から見上げる夜空はいつもより明るく、目を凝らさないと星の輝きは地上の光に打ち消されて姿を隠してしまう。それらを探しながら、俺達は言葉同士を繋げて会話を続けていく。俺も楓も、どちらも帰ろうとは口にしなかつた。


 少しずつ、少しずつタイムリミットが近づいてきている。

 無性に心がざわつき、筋肉が固くなってきているような感覚。

 自分以外の何かが体の中に入ったような気分で、気持ちのいいものではない。


 それを誤魔化しがてらペットボトルのお茶を飲んでいると、楓が視線を空から俺へと移しているのに気がついた。河川敷にまだ残る祭りの装飾が放つ光を受け、爛々と輝く双眸がじっと俺を見つめている。


「……どうした? 腹でも減ったのか?」

「さっき散々食べたじゃん。話し辛くなるからあんまり茶化さないでよ」

「悪い悪い。それで、どうしたんだ?」

「ん……」


 そこで楓は小難しい顔をし、尻尾を体に巻き付けた。何か言い辛い事があるようだ。

 楓が口を開くまで待とうと、俺は再び夜空を見上げる。

 屋台が光を消す度、どんどん夜空は広がって、あるべき姿に戻ろうとしていた。

 すっかり日は暮れているというのに、これからようやく夜が始まるのだと思える不思議な景色だった。


「その、さ、太一はあとどれぐらい時間が残ってると思う?」


 しばらくの後に、楓は自らの尻尾に顔を埋めてようやく口を開いた。

 好美の家から帰ってから、俺の体の浸食は明らかに早まっていた。

 体毛の範囲もそうだが、牙はもう鋭く尖り、爪の形も楓のように巻き爪のような形状へと変化している。

 昨日までは残り二日ぐらいだと思っていたが、この様子ではそうも言ってられなさそうだ。


「……もうすぐだと思う。それが明日の朝か、夜か、それとも今日かまではわからないけどそんなに遠くない。明後日は……無理だろうな」

「……そうだよね、アタシもそうなんだ。なんか胸がムズムズするし、体が変」


 もふもふとした尻尾から顔を上げた楓は、残り火と化した眼下の明かりを眩しそうに見下ろしている。その声からは、体を蝕む獣還りに対する恐怖よりも、祭りが終わってしまう事に対する寂寥感の方が強いのだと感じさせた。


 そう、まるであの夏祭りの日と同じように。


「もっと時間あると思ったのになぁ。結局キャンプも途中であんな事になっちゃったし、海にも行ってないし祭りも終わっちゃうし。花火もいいところだったのに……あ、太一が悪いわけじゃないよ、これほとんど独り言だから!」


 自分の言葉が俺を責めているように聞こえたのだろう、楓はバッと顔を上げると慌てて弁明し始める。けれど、それは俺も同じように考えていた。


 楓の願いを、まだ全て叶え切れていないのではないかと。


「……海、行くか」


 ならば、今からやればいい。今から叶えればいい。

 その為に、俺はこの世界全部を否定して楓を肯定したのだから。


「え、だってもうこんな時間だよ? アタシは別にどうでもいいけど、太一には家族がいるじゃん。智代とか、その、きっとすごい悲しむと思う」


 俺の言葉の指し示すところを悟ったのか、楓は必死に俺のやろうとしている事を止めようとしている。

 けれどこちとら朝から大波乱な一日だったのだ。今更この程度どうってこともない。 それにどうせ人生最後の日になるかもしれないなら、俺は俺のやりたいことをやっていたい。


「……いいんだ家族は。俺が獣還り嫌いな事は知ってるし。それにどうせもうすぐ死んじまうんだから、オールで海ぐらいやっておかないとつまらないだろ?」

「……でも」


 本当は、姉さんにも父さんにも不義理であると思う。

 今の言葉も自覚していないだけで強がりかもしれない。

 けれど、それよりも何よりも、俺は世界で唯一の理解者となった楓の悲しむ顔を見たくないのだ。


「いいんだよ。楓がやりたい事なら、俺はできるだけ叶えてあげたい。最後の我儘を聞いてあげたい。俺がやりたいからそうするんだ。だから今から海に行く事は、楓のためでもあり俺のためでもある。だから楓――」


 ポケットの中には、キャンプの日にできなかった線香花火が入っている。くしゃくしゃになってしまってはいるが、これもまだ俺達は出来ていない。


 すっかり周囲には人気が無くなり、辺りには撤収作業の金属音とほんの僅かな人の声。


 その中で立ち上がり、見目麗しい金髪の少女に手を伸ばす。


「海に行こう。楓が行きたいのなら、どこだって連れて行ってやるさ」


 主人公としては随分不恰好だな、なんて俺は照れ隠しに笑った。

 どこへだって、なんて見栄を張っても、結局車もバイクもない俺が連れて行けるのは電車で動ける範囲だけだ。それでも残された時間の間は笑顔で過ごしてほしいと、精一杯虚勢を張る。


 楓はいきなり張り切り出した俺をぽかんと口を開けて見上げていたが、しばらくして我に返るとニタニタ意地の悪い笑みを浮かべた。


「どこへだって、って言うならハワイとかグアムの海に朝日が昇るのを見たいな~」

「……そういうのは、サービス外だ」

「うそうそ、そんなもの見に行く時間ないし、今は近くの海で我慢してあげる」


 しょうがないなぁ、と楓は俺の手を取る。

 小さくてひんやりとしたこの手を握るのは何度目だろうか。少なくとも、こんな気取ったやり取りから手を握った記憶は一切ないけど。


「それじゃ、海までエスコートよろしくね王子様」

「おう、任せておけ。馬車は電気仕掛けの快適仕様だ」

「なにそれ、変なの」


 俺を見上げてにっこりと笑う楓に、俺も笑顔で返す。

 これでいい。こうやって俺達はやってきたじゃないか。

 だったら最後までそのままで、このままで。


 人通りの少なくなった河川敷を手を繋いだまま駅へと歩く。

 会話の内容なんてなんでもいい。

 ただ沈黙と向き合うのが怖くて、俺達は決して言葉を途切れさせようとはしなかった。

 逃避と言われようと、なんだっていい。


 ただ、この幸せな時間が少しでも長く続けばいいと、そう願うのは間違いじゃないはずだから。


 ***


 電車に揺られて約四十分。車両に乗る人の影も無くなりかけた頃、ようやく目的地である海の近くまで辿り着いた。寂れ切った駅のホームから見える家々の影から、月光を照らし返す海がちらりと姿を覗かせている。


 駅を出てからも俺達はお互いに手を離そうとしなかった。

 夜とは言えどまだ夏真っ盛りなので、ずっと手を繋いでいると手汗が滲んでくるが、それでも俺達はそのままで歩き続けた。


「……海だね」

「……海だな」


 そうして、駅から見えていた小さな防波堤まで辿り着く。

 俺達は口数も少ないまま階段を降り、砂浜へと足を踏み入れた。

 独特な沈み込むような感触を味わうのは久しぶりで、海には入れないというのに心は何故だか満たされていく。


「どうだよ初めて砂浜を踏んだ感想は?」

「なんか、海って感じ。この匂いも音も海って感じ」

「……海だからな」


 ざりざりと音を鳴らし、俺と楓は砂浜の中央まで進んで足を止める。


 目の前には真っ黒な海、その水面に映る月は波に踊りゆらゆらと形を変えている。


 けれど青黒い空で照らすそれよりも、真っ黒な海に浮かぶ月の方がより強く美しく自らを魅せているように思えた。


「ねえ太一、さすがに入れないかなぁ?」

「ここから民家も近いし、深夜とか朝方にならないと厳しいだろうな」


 少しだけ残念そうに、楓は波際まで俺を引っ張ると、寄せては返すその動きに合わせて首を動かした。

 できればその願いをかなえてあげたいところだが、堤防の上にあった民家の電気はまだ点いていたので、あまりここで騒ぐと通報されてそのまま補導なんてことになりかねない。


 派出所の中で二人仲良く獣還りとか、締まりがないにも程がある。


「そうだよね、体が動かなくなる前に海が見れただけでも喜ばなきゃ。あ、そうだ」


 少しだけ残念そうだったが、さすがに補導はまずいと思ったのか、楓は俺の言葉を聞き入れると振り返って堤防の方を指さした。降りてくる時は気がつかなかったが、月が落とす影に隠れて小さいベンチのようなものが見える。


「あそこに座って話しようよ。今までの事とか色々。アタシはいっぱい話したい事あるよ!」


 そう言い、楓は俺の手を引いて砂浜を駆けだした。


「おいおい引っ張るなって! 転ぶから!」


 楓は足場の悪さも気にせず、ベンチを目指して一直線に走り出した。何度か砂浜に足を取られながらも体勢を持ち直して、力強い楓の牽引に食らいついていく。


「もう太一ったらだらしないんだから! それでも高校生?」

「うるせぇ! いきなり引っ張られたら誰だってこうなるんだよ! あとあんまりでかい声出すなバレたらどうすんだ!」

「あははは! 太一だってそうじゃ、わぁ!?」

「うおっ!?」


 振り返った楓は、すぐそこに落ちていた流木に気がつかず、走っている勢いのまま足を引っかけ盛大に吹っ飛んだ。そしてそれは手を繋いだままの俺も同じで、さっきの数倍強い力でいきなり引っ張られ完全にバランスを崩してしまう。


 倒れる最中、目の前で横たわる楓を押しつぶさないように足を開き、膝から落ちて上半身は空いた右手でなんとか持ちこたえる。肩辺りがビキリと嫌な音を立てたが、痛みはそこまででもない。そんな事より楓は無事だろうか。


「おい、楓! 大丈夫か?」


 少しだけ違和感のある右肩を心配しつつ、自分のすぐ下で倒れている楓に声をかけた。怪我をしていなければいいのだが。


「あ、あう」

「あう?」


 自分の影が落ちて、しかも月明かりしか存在しないこの浜辺で楓の表情はよく見えない。心なしか握られている左手に籠められる力が強くなったのは返事の代わりだろうか。


「楓、痛い所は? 怪我してないか?」

「だだ、だ、大丈夫」

「大丈夫って、お前ちゃんと喋れてないぞ。本当に大丈夫か?」

「だいじょ、ぶ。その、太一、近い、近い」

「え?」


 楓に指摘され、もう一度よく今の状況を観察してみると、仰向けに倒れている楓と顔の距離はとても近く、俺が覆いかぶさったこの状態は夜という時間も合わさり、なんだかそういう雰囲気になり得るものだった。


「あの、太一、どいてくれると嬉しいな……」

「お、おう、すまん」


 しおらしい楓の様子で動揺が伝染したのか、なんだかこっちまでしどろもどろになってしまう。そういう対象として意識していないというのに、俺は何をそんなに慌ててしまったのか。


 すぐに手を離し体をどかすと、楓は俊敏な動作で俺から距離を置き、自分の尻尾をまるでぬいぐるみのようにぎゅっと抱きしめてこちらを睨んでいる。


「太一はこういう事したいの?」


 そして打ち寄せる波の音を背景に、そんな事を言うではないか。

 月明かりだけでも、尻尾に隠れていても分かる。

 今の楓の顔は尋常じゃなく赤くなっている。


「い、今のは事故だろ。それにお前が倒れなきゃあんな体勢にはなってない」

「……はぁ」


 当然の返事だと思ったのだが、不正解だったらしく、楓はさっきまでの警戒を解き、がっかりだと大きなため息をついた。


「まあ太一だしいいか。好美もそうやってずっとスカされてきたんだろうし」


 鋭い視線と尖った言葉が俺に突き刺さる。どうやら楓は好美の気持ちに気付いていたらしい。


 最後はあんな事になってしまったし、俺にはやっぱり恋なんてものは向いていないみたいだ。


「……仰る通りです」

「あれ? 太一気付いてたの? もしかして気付いてないふりしてたとか?」


 楓の鋭い言葉の刃がザクザクと突き刺さっていく。気付いていないふりができていたのならどれだけよかったか後悔しても遅い。


(と言うか、『好美も』って事はもしかしたら楓も……?)


 そんな疑問が浮かんでくるが、やはり俺はその感情に対しては答えを持っていない。あれだけの事があってまだそんな事を言う自分が恥ずかしいけど、わからないものはわからないのだ。


 けれど、それの答えに準じるような、話しておかなければならない事はたくさんあった。


 小町というかつて居た俺達の仲間、好美の気持ち、そして俺がどうやって現実と折り合いをつけたのか。


 今の俺を構成するいくつもの要素を、感情をどうしても伝えておきたい。


 だから、少しだけ痛みがある右肩を抑えて砂浜から体を起こし、あまり上手くできていないであろう笑顔を浮かべて俺はベンチを指さした。


「俺も、話したい事が色々あるんだよ」

「……うん?」


 何を言ってるんだと小首を傾げる楓の金髪から、さっき転んだ時についたであろう砂が何粒も零れ落ちる。

 夜光を受けてほんの少しだけ光るそれらは、まるで楓の髪から生まれた粒子のようで、髪は短くなったとしてもその輝きは変わらないのだと、今日一日の出来事をどう説明するか悩む傍らで、そんな事を考えていたのだった。

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