第16話 「ダメ男、リハビリをする」
翌朝、平良は目を覚ますと一樹が近くにいない事にすぐ気がついた。しかし、隣の部屋から大輝と一樹の話し声が聞こえてきたので安心した。
今日は昨日とは違って天気が良さそうだ。青いカーテンの隙間から光が射し込んでいる。ボサボサの頭を掻きむしる仕草で平良は兄貴達に挨拶をしにいった。どうやら二人で本を読みながら意見を交わしあっているみたいだ。
「おはよう、俺も昨日読んだよ」二人とも「おはよう」と言ってすぐに意見の交わし合いに戻った。「なんだよ」と小声で呟きながら、少しすねた表情を作り、玄関のすぐ側にあるキッチンの換気扇の下で煙草に火を着けた。
それにしても、久々に兄と一緒に過ごしているこんな朝は懐かしい。朝起きたら兄達が遊んでいる。そして後から来た三男坊は仲間に入れてもらえずにすねるのだ。そんな事が幼い頃にもあった様な……。もちろん、今の二人は決して遊んでいる訳ではないのだけれど。無邪気な可愛らしい姿は何処にも見えないが、今、母の事を一生懸命に考えて話をしている二人の姿はとても美しい。
そうだ、この光景を母さんにも見せてやろう。母さんが退院したら一樹にも頼み、お祝いを兼ねてこの部屋でお泊まり会をするんだと平良はワクワクしながら企んだ。
昔、何かのテレビ番組で「人は親の死を経験して初めて大人になる」なんていうのを見た事があるが、逆に親が死の淵から無事に戻って来てくれると、安心感からか子供に戻ってしまうのかもしれない。
平良は煙草の火を消すと、急に思い出したかの様に急いでスマートホンを取り出した。レッスン予約を入れてくれている生徒さんに、今回の事情を添えた謝罪のメールを一人ひとりに送る為だ。
今はレッスンに集中が出来ないのでという建前と、お見舞に通いたい、母や兄と少しでも多くの時間を共有したい、そんな本音が心の中にはあった。もちろん、建前も本心であり嘘ではないのだけれど。「本当にごめん」と呟きながら一件一件丁寧に送信ボタンを押していった。
そして、13時半になり、14時からの面会に向けて平良三兄弟は車に乗り込んだ。やはり、母に会いたいという気持ちは皆同じなのだろう。これから病院に向かうとは思えない程に車内の空気は楽しげだ。しかし、そんな楽しい気分も母の病室が近づくにつれて消えていった。廊下まで何者かの嗚咽が聞こえて来るのだ。
そして、病室の入口に差し掛かった時、その嗚咽は母のものだとすぐにわかった。急いでベッドを取り囲むカーテンの中に入ると、ノウボンと呼ばれる医療用の桶に母が嘔吐していた。
平良はそんな光景を目の当たりにして頭の中が真っ白になり身体が硬直してしまった。安易な考えかもしれないが、穏やかに息子達を出迎える母の姿を想像していたからだ。やはり、癌というはそんなに恐ろしいものなのか。
看護婦さんが世話をしてくれたお陰で、まもなく母は落ち着きを取り戻し、そして微笑んだ。「ごめんね、朝から何度も吐いてるの」子供達が心配そうに駆け寄ると、母は大変喜んでくれた。苦しくて辛いはずなのに、笑顔で凄く嬉しそうだ。
昨日は会話が出来る状態ではなかったが、今日はもう問題なく声も出せる所まで回復していた。母の声が想像でも幻聴でも何でもなく、今、間違いなく母の身体から響いてきたのだ。
平良は頬をつたった涙をバレない様にすぐに拭った。母は生きている。それなのにあまり泣きすぎるのも逆に心配を掛けるだろうと思ったからだ。
そして、母は今朝、主治医の佐久真先生に話された事を一生懸命に教えてくれた。「佐久真先生はね、他の患者さんの事を気に懸けてかとても静かにカーテンの中に入ってきたの。そして小声でこう言ったのよ。「いやぁ、今回の手術は本当に危険な手術だったんですよ。というのもね、卵管から卵巣に転移している為、それらは摘出し、子宮にも転移する可能性があるので摘出させた頂きました。そして、リンパにも転移している可能性があるので、一本一本切断しました。一本一本検査した結果転移が無かったので縫合してあります。ただ、リンパの切断で多量の出血があった為、輸血も大量に行われました。そして、腸や胃に転移がないかも確認する為、かなり大きく開きました。その為かなり大きい傷口が残っています。それが元で腸閉塞という病気に掛かるる可能性もありますから、お腹に痛みや吐き気が生じたらすぐに教えてください。それから、今後はC型肝炎にならない為に血液検査をマメにしていきましょう。はっきり言って、これだけの手術になったにも関わらず生きているというのは奇跡です。ですから、命を無駄にする事なく、しっかりと頑張っていきましょう」
これが、佐久真先生からの今朝の話しだ。母は佐久真先生の話が終わった直後に嘔吐していまい、腸閉塞の疑いからレントゲンを撮っていたとの事。そして、やはり腸閉塞だった。腸閉塞は命にも関わる大きな病気だ。油断は決して許されない。
これからの一週間は水だけで過ごさなくてはいけないそうだ。そして、歩けるようになったら毎日院内を散歩する様にと指示を受けたらしい。それにしても、佐久真先生が奇跡だと言っているんだ。それは、母が手を振ったあの瞬間が、本当に母との最後のコミュニケーションになっていたのかもしれないと思わずにはいられない話だった。平良は、改めてこの奇跡に強く感謝した。
平良はグラスに注がれたジントニックを飲みながら煙草をふかす。あまりにも見慣れた光景が5月10日の“そこ”にはあった。
母は誰もが驚くスピードで回復をしていき、なんと三週間にも満たない5月5日に退院を果たしたのだ。子供の日に退院するなんて、どこまでも母さんらしい事をしてくれたなと平良は思っていた。
退院までの道程は決して楽なものではなかった。一樹は仕事がある為、週に二日間だけ顔を出してくれた。大輝は交通費の節約の為、あまり顔を出せそうになかったが、それがあまりにも悔しそうだったので、平良がロスの軍資金から五万円を貸した。思うように働けない人にお金を貸すわけだから、返ってくる事はないだろうと思っていた。痛手ではあるが、それでも毎日大輝と顔を合わせる事が出来たので平良は嬉しかったのである。もちろん、母も嬉しかっただろう。
そして平良は毎日病院に通った。一番の目的は、母と手を繋いでゆっくりゆっくり院内を散歩する事だった。調子の良い時は日に二回、調子の優れない時は一回だけの日もあった。 息子に手を繋いでもらい、嬉しそうに院内を散歩する母の姿が愛しくてたまらなかった。 時々、散歩中に涙を流し二人で笑いあったりもした。普段のだらしない生活が浄化されていく錯覚をする程に、幸せな日々だった。
4月の末だったと思う、大木武志が母のお見舞に来てくれた。これには母も喜んだが、それ以上に平良は喜んでいた。わざわざお見舞に来てくれた事はもちろんだが、何よりも久々に平良一徳という一人の男になる時間も与えられたからだ。
ここ最近はずっと、平良由里子の息子、一徳だったのだ。当然同一人物ではあるのだけれど、優しく母想いな息子でいる期間が長くなる事で、今まで必死に磨いてきた牙が抜けてしまう様な、そんな不安が平良にはあったのだ。
そして、大木を見送った後、平良は母にロサンゼルスに行く事を初めて話した。資金繰りの事などは、変に不安を煽ってしまう可能性がある為伏せておいたが、それでもやはりロサンゼルスに行く事自体を不安視していた。
その不安を必死に和らげてくれたのは大輝だった。一徳なら大丈夫!こいつのコミュニケーション能力は凄まじいものがあるから!と笑ってくれた。とても嬉しかった。
そして退院当日は一樹も会社に無理を言って二日間だけではあるが休みを貰ってくれた。これは、平良が大輝のアパートで企んだ計画に快く乗っかってくれたからだ。
その日は祖母達も勢揃いしていたので平良には少しばかり緊張が走ったのを強く覚えている。「あら、一徳はまだそんな爆発したみたいな頭をして!」と、笑っていた祖母を見て少しばかり安心はしたのだけれど。
そして、車に乗り込んだのは平良三兄弟、そして母由里子だ。もしかしたら二度と会話が出来ないかもしれないと思っていた人と、こうして車に乗れている事はとても感慨深いものがあった。
きっと皆が同じ気持ちだったのだろう。大輝なんて「ごめん、まただ」とか言いながら涙を流していた。皆で笑った。
その夜、母は久々の自宅に歓喜していたものの、やはりすぐに疲れてしまい21時には床についた。そして翌朝、平良が母に見せたいと思っていた光景を見せてやれたと思う。
その日の夕方に一樹は帰ってしまったのだが、平良は少しの間泊まっていく事にした。母と散歩をする目的があったのと、もう少しこの空間に身を置きたい、この時間に浸っていたいと思ったからだ。
今回、母の退院が早まったのは、抗がん剤治療を断ったのも1つの理由だった。佐久真先生はあまりいい顔をしなかったが、母もその考えに同意してくれたので仕方がなかったのだろう。日々の散歩と食事制限、そして二週間に一度の通院が条件の退院だった。
一樹の慎重な性格と的確且つ強い判断力が今のこの幸せを作ってくれたのかもしれない。思い返していると、また目頭が熱くなった。
そして今、丸くなった牙を尖らせる意味を込めて、66に平良はリハビリをしに来ているのだ。親戚とのやり取りがまだ心に引っ掛かっている。今夜、その記憶を酒と共に流してやろうと気合いに満ち足りていた。
騒いだ、とにかく騒いだ。会計は2万9千円。バーで払う金額とは思えないが、それだけ使ってしまったのだ。それでも、今夜の平良はへこたれなかった。これぞ平良一徳、いつもの事だ。
ダメ男、アメリカに行く(前編) 江川崎 たろ @taro-ekawasaki
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