第2話 島崎家

火にかけられた鍋がことこと心地よい音をたてて笑っている。私は食卓の上で丸まりながら、愉しそうな鍋と甲斐甲斐しく働く千代さんを見比べていた。ふと窓外を一瞥すると、折しもそこには落陽の最後の欠片が山脈に重なる瞬間があった。暖色だった空は紫、藍へと移り、世界は夜の仕度に取り掛かっている。

「シロちゃん、はい。味見してみて」

艶のある陶器の皿に鈍く輝く馳走が差し出された。鯖の味噌煮というらしい。これをつゆばかり頂く。私にはいささか塩辛いが人間はこれが良いという。やはり、魚は刺身に限ると猫ながらに思う。

この家にいると多岐に渡る食べ物を食べることができるが、ほかの家ではこうはいかないらしい。と言うのも、猫の地域集会では、話題が度々餌のことに終始するのだ。ほかの猫達曰く、何やらポリポリと固くて貧相な乾物を食わされるというが、猫の寿命が短いのも、その劣悪な食生活のせいではないかと考えてしまう。

去年、この家の婆さんが逝った時には、私の聞き間違えかも知れんが、八十まで生きたのだから大往生だろうと皆口々に言っていた。猫なんぞは、二十を超える者が稀にいるがその程度であるから、とても信じられない。

餌の改革が起きぬ限り猫の将来はさぞ暗い事であろう。



日もどっぷり浸かる頃合になり、にわかに「ただいま」と声が聞こえた。孝雅たかまさが学校から帰って来たのだ。コウコウと言う学校に通っている、千代さんに似てほのぼのと優しい背の高い青年だ。土の健やかな香りがする私の親友は、丸まっている私をすくい上げもみくちゃに撫で回した後、風呂へ向かった。

やがて米が炊け、夕食のおかずが食卓に並び始めると、今度は雅之まさゆき殿の御帰宅である。孝雅とそっくりな声音が玄関から聞こえた。一家の大黒柱として多忙な日々を駆け回るこの御方は、私の恩人なのだ。彼には私の生まれて間もない命を救って頂いた多大なる恩があるのだが、長くなるのでここでは割愛させてもらう。だがそういう縁があって、私はここ島崎家に厄介になっているのだ。

「ただいま、シロ」

温和な笑みの雅之殿は、大きな手で私を撫でた。この家族は皆、とても優しく暖かい。

「ミャァウ」

挨拶はきちんとせねばなるまい。人間はいざ知らず、猫の社会では常識である。

「おかえりなさい、雅之さん。お疲れ様」

「ただいま、千代。今日は味噌煮だね、いい香りだ」

「ふふ、今盛りますからね。孝雅は先にお風呂に入っているわ」

孝雅が戻り、雅之殿が衣を変えたところで三人と一匹がそろった。夕食の時間である。無論、私は味噌煮ではなく、さっと湯通しされた鰤の切り身であった。千代さんの配慮である。美味であることは言うまでもない。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

猫と遺灰 夏乃 葉 @merry_sprinter

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ