自己を愛したまま死ぬことになる
どこまでも青い空を仰ぐ。
藍碧というより、水色な淡いの。
風切り音が聴こえると、暫くして涼しい風が到来する。
僕の髪が勢いよく靡いた。
その瞬間、僕が懊悩していたことでさえ些末なものだったと気づく感覚。
唐突に、ある普遍的な疑問が湧く。
この清澄な空がどこまで続いているのかということ。
恐らく、どこまでも続いている、という僕の解答。
本当にそうだろうか。果たしてこの空はどこまでも馬鹿みたいに、純朴な輝きを保っていられるのだろうか。
違う、と否定してしまいたくなる。
けれどそうしない。
この世界には、空ほど純粋なものは無いのだから、その存在を拒んでしまったら、この世界に残されたものは全て汚いという事を肯定してしまいかねない。
僕は目一杯、空の青を浴びる。そっと瞼を閉じ、網膜に投射する。そうして、暗闇。
無意識に僕は、一人の少女の面影を思い浮かべた。
「九条 七瀬です。どうぞ、宜しくお願いします」
朗らかな笑顔をたたえ、背を曲げる少女。
彼女の容姿について端的に言ってしまうと、艶麗だったとしか言い様がない。
それも、男を貶めるような蠱惑的な魅力が感じられない、汚ならしい女ではなかった。
まるでその佇まいは鳥籠に囚われた鴛鴦の、無邪気さだけが取り残されたようなものだと思った。
純粋で、初な女なのだなとも。
柔らかな黒髪は肩にしなだれ、桜桃のような唇が可愛らしい。
僕は焦燥あるいは寂寥の感に打ち拉がれ、凝り固まった腫瘍のように僕の脳の内にある思いが僕に痛みを与え続けていた。
本当に男を知らないのだろうか、この女は。
僕は地方私立大学の三年生で、生計をたてる為に、バイトをしていたのだが、そんな僕のバイト先に、まさかこのような少女が現れるなんて思ってもみなかった。
最初に九条を見たとき、僕はただ、彼女に祈らずにはいられなかった。
どうか、どうかこの少女の腹が、男によって耕されていますように、と。
そうでなければ、説明がつかない。
残忍で悪辣極まりないこの女は誰かに抱かれていないなどという印象を与えないのにも関わらず、垣間見えるコケットリィが、反って獣どもの情欲を喚起することを知らないのではないか。
僕は今日の分のバイトを終わらせ、控えでパイプ椅子に腰かける。
疲れとともに溜め息も漏れ、無愛想に周りのスタッフにもおざなりに返答する。
次のシフトまである程度時間があったが、いちいち帰るのも面倒だったので、本を読むことにした。
バッグのチャックを開け、今となっては珍しい紙の本を取り出す、折り目のついた箇所に指を挟む。
「ジョン・ダンですか。それ」
正解。僕の読んでいる詩集を当てた、可愛らしい声の持ち主は案の定、九条だった。
「僕のお気に入りなんだ。特に『Go and catch a falling star』が」
九条は首を傾げて、僕の詩集を覗き込む。
急襲。甘い香水の香りで、心臓が劈く。
「でも、私はシェイクスピアの方が好きです。少しジョンの詩って気持ち悪いですし」
「『The flea』とか」
「そう、それです」
端整な顔が、少し歪む。もっとも、その程度で彼女の魅力が損なわれることは無かったが。
「何で。耽美的じゃん」
「私の場合、理解できないんですよね。彼の美的感覚の問題以前に、何に対しての詩なのかについてですね」
驚いた。詩についての見識はさておき、ここまで真摯
に僕の質問に答えた純朴さに。
「君は、勉強熱心なんだね」
「えへへ。そう見えますか」
分かりやすいくらい、頬を綻ばせて喜ぶ九条。
肩からのぞく、紅潮している白い肌。
僕は、危うく、彼女を殴りそうになってしまう。
理解じゃない、感覚だ。僕の生理的感覚が何よりも、彼女の「美しさ」を、欺瞞を欺瞞たらしめ、耐え難い殺意を呼び起こしてしまう。
僕は唇を噛み、「人殺し」などという大変不名誉なレッテルを貼られないために、あえて視線を逸らした。
ふざけるな。なぜ、お前のような汚ならしい存在が。僕に、虚像を見せるな。虚偽だ、それは。俗悪なんだ。
そう罵らないと、気が触れそうだった。
「あの、九条さん」
「何でしょう」
きょとんとした顔で僕を見つめる。マンガのようなキャラクターだな、と僕は思った。
「その、男に、そんなに媚びない方がいい」
少しの間ぽかんと口を開ける彼女。
その後、彼女は可笑しそうに腹を抱えて、ケタケタと声を出して、笑った。
まるで可笑しいものを、本当に可笑しいと思いながら。
「そんなに、笑うような事かな」
「笑いますよ。それは。だって、水野さんが自意識過剰なんだもの」
「だって君が、そういう振る舞いをしたのが原因だろう」
怒りを堪えるので精一杯だった。
「けれど水野さん。貴方が思っている以上に純粋な人間だっているんですよ」
本当にそうだろうか。
「君はそうなのか」
口から漏れる言葉。
彼女はにこにこして聞いていたが、少し思案して腕組みをしながら、僕を見つめた。そして、胸を張ってこう言うのだ。
「私は、どこまでも汚いですよ」
そう言って彼女は微笑んだ。
僕は性欲に関して、淡泊だと思う。
女性という存在。僕は悲観しているのかもしれない。
化粧をする、口紅を塗る、顔を虚飾で塗り潰す。
食事をする、黄色がかった前歯、オーラルセックスの後の匂い、飽食の豚だ女は、と僕は思うのだが。
どこまでも「幻影」を求めていた僕は、こと彼女、九条七瀬に対しては「適格」に極めて近いことを期待していた節があった。
だがそれは、彼女の「肉体」そのものであり、彼女の感情もとい人間の情が不浄であるという事は、僕が常々思うことだが。
つまり、彼女だって食事をするし、排泄もするし、人並みに自慰だってしているかもしれない。
僕は、最後の一欠片、彼女の性欲の「強さ」について調べようと思った。
九条を映画に誘うことにした。露骨なセックスシーンのある映画に。
案外彼女は、僕との映画デートと呼べるようなものを簡単に承諾してくれた。
尻の軽さは否めない。マイナス二十点。
待ち合わせ場所を、噴水に指定する。
絶えず水の波が揺蕩い、日の光でてらてらと輝いてみえる。
「すいません、ちょっと遅くなりました」
余りにも噴水が光を透過するものだから、噴水ごしに、彼女の姿は声をかける前に視認できた。
彼女は麦わら帽子に、純白のワンピースを着ていた。
病的なまでに白い肌がのぞく。けれど潤いがあり、絹のような滑らかさが、そこにはあった。
シミや傷などはまったく認められない。悔しいことに。
「君は、男とのデートにそういう服を着ていくのかい」
九条はひらひらとワンピースに襞をつくる。
そうして、僕の顔を上目遣いにのぞく。
「こういう服が好きそうだなと思って」
どこまでも、狡猾な女だ。
映画は中盤にさしかかった。
問題のシーン。金髪の美女は、ハードボイルドな男に獣のように扱われ、繰り返し体位を変えながら、何度も腰を打ち付けている。気持ちよさそうに喘ぎ、唇からは涎が滴っている。
「思ったよりも過激だね」
なにより、僕は九条の反応が見たかった。
顔を歪ませて不快感を表し、汚物を見るかのような、蔑んだ目で、こう言うだろう。「不潔」って。
そんな事を僕に言ってしまえば、彼女は完璧じゃない。間違いなく性欲がある。
そうなれば、まだ僕の自尊心は保たれたかもしれない
のに。
九条をちらりと横目でみやる。
彼女は、泣いていた。
涙を堪えてはいるものの、重力に逆らうことはできない。頬を伝い、滴となって、ポツリと落ちるとそれは彼女のワンピースに水玉を拵える。
「どうしたの、九条さん」
僕は思いっきり動揺しながら、無意識的に彼女の指に触れていた。
間違いなく、僕は彼女の手を握っていたんだ。
すべすべした肌に、薄い桃色の指先の爪。
僕の手の方が大きくて、ごつごつしてて、肌黒い。
「大丈夫です。感動してしまったので、つい」
僕はハンカチーフを取り出し、彼女の目元を拭った。
雫は布に取り込まれるまで、少し抗って遊びながら、けれどやはり力尽きて、布を濡らして消えた。
九条は肩を震わせ一瞬たじろいだが、僕の顔を見るとやがて優しく微笑んだ。
けれど、彼女の――色白の手首から、これは故意ではなく、不意に僕の視界に入ったものだが、一本の綺麗な筋となって走っていた切り傷は、僕を彼女という檻に閉じこめ、二度と離さなかった。
けれども、何故だろう。こんなに、満たされた気持ちになるのは。彼女の秘密を知った。けれども美しい秘密を。
きっとどこまでも淫らな色情狂の女より、つまり肉体を介した交渉でさえ、届かない快楽といえるようなものなのか、これは。
映画は滞りなく終わった。
けれど僕は、最後まで彼女の「美しさ」を汚すことはできなかった。
彼女の「美しさ」を否定することができなかった。
僕はそれが悔しくて、悔しくて、憤りを押し殺すことは最早不可能に思われた。
夕陽が傾き、薄紅の様相を呈する空。
緩慢と夜に近づきつつある。
僕と九条はそれを意識しながら、人の網をくぐり、改札を抜ける。
「今日は楽しかったです。また遊びましょうね」
雑沓が飛び交う中ではあったが、僕は彼女しか注視していなかった。
九条はいつも通り笑っていた。清々しいまでに。
それが、僕の心をより掻き乱した。
哲学的ゾンビ。やはり九条のクオリアは感じられない。それが何より腹立たしくてならなかった。
彼女の「美しさ」が嫌になった。
「美しさ」しか存在しない彼女に、嫌気がさしていた。
その感情の発露は突然に。ちょうど電車の腹が開かれ、人間を捕食しようとした時に訪れた。
「ちょっと来い」
僕の声は荒々しく響いていた。けど止まらない。七瀬の華奢な腕を強引に引っ張る。
七瀬は反動で、少しよろめいてしまう。
「ちょっと、水野さんっ痛い」
けれど構わないと思った。僕は彼女の存在を否定しなくては生きていけないと思った。
気付いたら僕達は、駅のホームを抜けていた。
「ちょっ、まって、いや」
七瀬は僕の手を思いっきり振り解いた。
僕の足は止まり、彼女の足もまた止まった。
思わず僕は、振り向いた。
そして後悔した。僕は衝動的にしてしまった行為に対して。
彼女は掴まれた腕をさすりながら、僕を睨む。
白い肌にくっきりと、赤い跡が残っていた。
「いや、その、すまない」
「どうしたんですか、一体」
彼女は、出来の悪い子供を見るかのように、けれど蔑みはせず、僕を困った顔で見上げた。
その問いに対して僕は答えられなかった。
なぜ、僕が彼女の腕を引いたのか。
彼女の「汚さ」を受容したかったのか。
「分からない。ただ、君を困らせたかっただけなのかもしれない。すまない」
僕は、今は見るも無惨な顔をしているに違いなかった。恥だ、これは。
けれど、いつか見たときと同じように七瀬はケタケタと笑い始めていた。今度は糸をひく笑いを。
「おかしい人ですね。やっぱり」
「君もおかしい人だよ。だって僕が汚さを指摘できない唯一の女性なんだから」
「汚さですか」
「うん」
「人間は誰しも汚いものですよ」
「知ってる。排泄とかするしね」
「そういう汚さですか」
「そういった面もある」
「けれどその汚さを受け入れるのも、また人間ですよ」
「けれど、僕は許せないんだ、それが」
不意に、七瀬は首を傾げる。慈しみをたたえた瞳で僕を見つめる。
「……どうして」
「……怖いんだ、多分僕は。誰からも受け入れられずに、一人で死んでいって。そうして忘れられていくのが。長い歴史のなかで僕らが生きれる時間はほんの一瞬なんだ。分からないんだ。僕は。誰かに見てて欲しいんだ」
「私は、今、あなたと生きていますよ」
「分かってるんだっ。知っているんだよ、そんな事は。けれど怖いんだ。死が。痛みなんかじゃない。その痛みの行き着く先に、誰も待っていないことが、怖いんだ。消えていくのが怖いんだ。消えるんだろ、僕達は」
「いいえ、消えませんよ」
僕は、いつの間にか彼女に抱きすくめられていた。
けれど、痛みは消えない。
「離してくれ」
「離しません」
「離せといっているんだっ」「シェイクスピアにっ」
僕は声高に叫ぶが、彼女は怯まない。
「あるんです、シェイクスピアに。ええ、あるんです。大丈夫です。私たちは汚いままで、いいんです。汚いままで」
「……どうして」
「『私たちは、私たち自身の子供に最盛期の面影を見るだろう』。子供です。子供なんです。堕落では、無いんですよ。それは」
「快楽が、伴う。そうでなければ、行わないよ。そんな事」
「それの何が悪いんですっ」
彼女は声を荒らげた。
「いいんです。私たちは、もう答えを知っているじゃないですか」
あぁ、そうだ。少なくとも僕は知っていた。
さっき気づいたんだ。
僕達にとって一番大事なものを。
そうだ。
僕達はセックスなんて陳腐なものより、既にもっと深く、繋がり合っていたんだから。
僕の方から、彼女の体を離す。
七瀬の、潤んだ瞳が見えた。
「君を抱きたい」
「嫌です」
「手を繋ぐだけなんだが」
自己を愛したまま死ぬことになる 鯖みそ @koala
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