第9話エンディング、めでたしめでたし。
グラスの中で、氷が微かな音を鳴らす。
注がれた琥珀色の液体が、球状の表面をなぞっていく。グラスの半ばほどを埋めると、続いて注がれるのは無色の液体――水だ。
私の鼻が教えてくれる。あれはただの水ではない、恐らく、百年単位で精霊が住んでいた湖から汲んだ水だ。
「良くものこのこと現れたものです、魔術師」
「あ、ディアさん。いや、今回は大変でしたね、ってうわあっ!?」
音も無く差し入れられたマドラーが、静かに、しかし確実に二つの液体を混ぜる。
氷とグラスとが、見事なハーモニーを奏でる。それはほんの些細な物音で掻き消されてしまう、繊細な演奏だ。
「ちょ、いきなり何をするんですか?!」
「問答無用です、貴方のせいで、クロナ様に迷惑をかけてしまいました。償いをしなくては」
可憐な音楽はすぐに終わり、いつもの水割りが私の前には現れている。
「それは、僕じゃあないんですよディアさん! クロナさんから聞いてませんか?」
「聞きました、何でも、魔術師の罠だったそうですね」
「な、なんだ、解ってらっしゃるのなら」
そっと持ち上げ、口に運ぶ。
口内で薫りを充分味わってから、喉を通す。冷たい液体が通り過ぎたあとの喉は、心地好い灼熱感に満たされている。
「えぇ、聞きましたとも。ベルフェさんと同じ組織の魔術師が、ベルフェさんと敵対しているために私を騙し、ベルフェさんを困らせるためにクロナ様に迷惑を掛けたと」
「あー……、そう言われると、まあ確かにそうなんですけど……」
……ふぅ、旨い。
やはり、酒はここに限る。
生きる上で酒は絶対必要なものではなく、飲まずとも人は生きていける。いわば、単なる嗜好品、贅沢品だ。
「お覚悟を。その首、私の名誉のために支払って貰います」
「そんな無茶苦茶な……ちょっと、剣を抜かないでください! クロナさん? クロナさーん!!」
だとしたら、味や場所にも拘らなくてはならない。
ただ飲むだけなら、酒は水にすら劣るのだ。飲み方に美学を見出さなくては、まさに勿体無い代物なのだ。
私の美学はただ一つ。
静寂。
無音の旋律。
「気取ってないで助けてくださいよ!」
「うるさいぞ、疫病神。私は今、困難な依頼をこなして生きる喜びを噛み締めている所なんだ。政治なんて下らない問題に巻き込まれたせいで、ひどい目にあったんだ。お前は知らないかもしれないが」
「それはその、申し訳無いなぁ、と思わなくもないですが……」
「ディア、店を汚してはマスターに迷惑だ。斬るなら外で斬って」
「解りました」
「物分かりが良すぎませんかね?」
やれやれ。私はくるり、と椅子を回して、その喧騒に向かい合う。私の可愛い部下が、悪質な詐欺師を吊し上げている騒ぎに、だ。
「騙したのは僕じゃあないんですよ、寧ろ僕も騙された側で、被害者なのですよ」
「犯人は皆そう言うんだ」
私はため息を吐いた。「大体お前、そういう不穏な空気には気付いていたんだろ?」
どうせ、その方が面白そうだから、とか思って無視していたのだ。
向かってくる相手を叩きのめす
首を握られ、片手で宙に浮かされながら、悪戯がバレた子供のように、ベルフェはにっこりと笑った。
「ディア。叩き出しておいて」
「叩き出す……殴って内蔵とかを吐き出させるのですか、解りました」
「解ってらっしゃらない!」
悲鳴じみたベルフェの叫びに背を向けると、私は再びグラスに向かい合う。
寝ているのだろう、ピクリとも動かないバグの口から取り出した手紙を眺め、ふんと鼻を鳴らした。
同時に思い出されるのは、昼間の記憶。ここに来る前に聞いた、私の退場後の話だ。
「アロメか?」
町外れの、荒れ放題の庭の先。
過剰なまでの罠に護られた――正確に言うなら入らせないためでなく封鎖された――家のドアノッカーを叩いた私を出迎えた人物に、取り敢えず尋ねてみる。
「何を言っているんだい、クロナ。どう見たってパロメだろう?」
どう見ても、判別はつかなかったが。
とにかく私は頷くことにした。人付き合いにおいて最も大切なのは、諦めなのだから。
「パロメ。随分と日焼けしたね?」
「日傘を差す手がなくてね。パロメの両手は、執筆と改稿に忙しかった」
「ギャハハ、そりゃあ良い気味だぜ糞作家!」
「相変わらず工夫の無い罵詈雑言だな。まぁ、何しろパロメは今、すこぶる気分が良いから聞き流すけれど」
私は肩を竦め、開かれたドアから家に入る。
パロメは、言葉通り上機嫌に私たちを先導する。とはいえ、極端に整頓された廊下の端にはドアが一つきりだから、案内がなくても構わないのだが。
住人は四人だが、ドアは常に一つ。そして、現れる住人も一人。
「さあさあ、入りたまえクロナ。用向きは解っているとも、パロメの作品の感想を聞きたいのだろう?」
「お前は何も解ってない」
通されたのは、存外に小綺麗な部屋だった。
敷き詰められたカーペットの上には塵一つ無く、入り口以外の三方の壁を固める本棚は、作者の名前順に整理されている。
他に家具は見当たらず、あるのは本棚と、書き物机だけ。
必然床に腰を下ろした私の前に、何故だかパロメもぺたんと座った――いや、お前は椅子に座れよ。
私はため息を吐きつつ、自分の用事を済ませることにした。
「……あの後のことを、教えてくれ」
「あの後? あぁ、クロナたちがさっさと脱出した後か。そうだなぁ……一言で言えば、大盛況だ!」
「……は?」
「パロメの作品が大ウケで、舞台化したんだよ。で、パロメに脚本を依頼されてね。いやあ、まさか七部作にまで達するとは思わなかったよ」
私は再びため息を吐いた。
「三人と、それから島の今後だ」
「ふむ。……気になるのか?」
「当たり前だろう」
「……暗殺者としては、別段当たり前でも無いと思うがね」
そう言いながらパロメが差し出したのは、一通の手紙だ。
宛名は白紙。差出人も、白紙だ。
私は感心した。私のような立場の者を相手取るには、自分の名前も相手の名前も書かないというのは中々抜け目無い。
私は手紙をバグに詰める。
塩っ辛い、とかなんとか文句を言いながらも、バグは心なしか嬉しそうに呑み込んだ。
「読まないのかい?」
「あとで読むさ。旨い酒でも飲みながらな」
少なくとも、趣味の欄に人間観察とか書くような作家様の前では絶対に読まない。
「そうか。今度パロメも顔を出すと、マスターに伝えてくれたまえ」
「付けを払う気になったのか?」
「ははは、借金は文豪の証さ。返すのはペンを折るときだとも」
「お前は一回殴られた方が良いな」
私は立ち上がると、さっさと部屋を出る。パロメは見送るつもりはないらしく、何処からともなく取り出した手帳に何事か書き付け始めた。
「……お帰りですか」
ひんやりとした声が掛けられたのは、家を出る寸前だ。
声に温度など無いとは思うが、しかしその声には確かな冷気が感じられた。
振り返ると、漆黒のエプロンドレスを身に纏った彼女が立っている。
吊られたようにぴんと背筋を伸ばして、塵一つ無い廊下に塵でも見付けたような目付きで私たちを睨む彼女は、随分と日焼けした肌を煩わしそうに撫でながら、丁重に腰を折った。
「……パロメか?」
「アロメです、見て解るでしょう?」
私は肩を竦め、バグは苦笑を溢した。
解る訳がない。
手紙によると、あの三人は、力を合わせて国を治めることに決めたらしい。
各々何かしら、自らに足りないものを見出だしたのだろう。殊勝なことだと思う反面、最初からそうしてくれれば、と思う気持ちもある。
ハマドゥラに関しては、城を破壊した犯罪者との戦いで死亡した、と王子は発表したらしい。
犯罪者にしたくなかったということか、或いは、そうすることで更なる同情を呼び込むつもりか。
なにしろ、あの島で起きた出来事は、悲劇として島民全てが知っている。パロメの本が流行ったということは、つまりそういうことだ。
王子たちは、何も語る必要はない。
否定も肯定もしなければ、人々は勝手に騙される。耳心地の良い話に、目を閉じて浸るものだ。
三人の戦いと、その影にあった年老いた忠義。陰謀が明らかにした、家族愛。そんな、あるかどうかも解らないあやふやなもので、確実にあった醜い争いは美談に変わる。
騙される彼らは愚かだろうか。
感動しない私は、賢いのだろうか。
「お前の傑作への道は遠いな、パロメ」
私は笑いながらその本をカウンターに放り出すと、部下と友人の喧騒を眺めながらグラスを口に運ぶ。
私の舌に合うのは、多分こっちなのだ。
「わざわざ里帰りかの、我が愛しの孫よ」
森に入って直ぐ、目当ての相手には会えた。
何百年、下手をすれば何千年も生きている筈なのに、幼い子供のような容姿をした、金色の瞳の彼女。
【森の貴婦人】と、彼女は畏怖されている。
その、変わらぬ偉容と、漸く感じられるようになった圧倒的な魔力を前に、ロッソはギッと唇を噛む。
――どう見ても、あの魔術師やディアよりこいつの方が強い。
当たり前だ、彼女は――
そして、本来ならば自分も。
「……頼みがある」
目の当たりにした事実に、ロッソは決意を新たにする。
自分が確りとした【魔女の孫】だったなら、あいつらくらい容易く倒せた筈だ。そうすれば、そもそも雇い主をあんな目には合わせなかった。
強くなりたい。その、母の血筋に恥じないくらいには。
少年の決意を見てとったのだろうか。
魔女は優しげに微笑みながら、ふわりと音も無くロッソの前に降り立ち、言った。
「幾らで?」
完。
暗殺者クロナの依頼帳Ⅵ 孤島の三人 レライエ @relajie-grimoire
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