10.(最終話)
「待ちに待った、そのときがきた。
私の心は希望にみちあふれ、そのせいで私のつま先も、羽毛の一本一本までも、しなやかに、ぴーんと張って、身体が一回りも二回りも大きくなったように感じられた。
―飛ぶんだ、ここから。
私は深呼吸して、思い切り翼を広げた。ばさり、と心地よい音がした。以前よりも成長して、黒と茶の模様にも深みがでている。母の翼に、かなり似てきたようだ。
山のほうからひゅうっと風が吹いて、私の身体と翼をくすぐった。私は思わず、ぶるるっと身を震わせる。夕暮れを知らせる、少し冷たい風。私の旅立ちを励まして、身も心も引き締めてくれたように思えた。
「あまり、遠くまで行っちゃダメよ」
巣穴のすぐそばの小枝にとまって私の様子を見つめていた母が、心配と期待の入り混じった調子で、声をかけた。
「大丈夫。すぐ帰ってくるから」
私はなるべく頼もしく聞えるように、明るく答えた。何回か練習を重ねたとはいえ、初めての長い飛行なのだから、先導する、と言って聞かなかった母を、どうにかこうにか説得して、ひとりで飛び立つ許可を得たのだ。
私の目の先では、仕事を終えた太陽が、そろりそろりと寝床に向かってにじり寄っていくところだった。その様子を見ているのは、ここにいる私と、そして空のまん中にたなびく、紅く染まった、きれいな雲。私の期待は、もうはちきれそうなくらいだった。
もう一度、ひゅうっと風が吹いた。
―飛ぼう。
風を合図に、ぱっと巣穴のふちを蹴り、身体を宙におどらせた。
踏みしめるものがなくなり、すうっと身体が軽くなる。重力に引かれる直前の、なんともいえない快感が全身を走る。すぐさまばさり、と翼をはためかせ、続けてばさり、ばさり、と夢中で空を裂く。落下しようとした身体はふわりと踏みとどまって、空気の流れをつかまえた。
―なんて、気持ちいいんだろう。
私の翼、つま先、背中、すべてが、しびれるような感覚に襲われた。飛び立つときのこの瞬間が、一番こわくて、一番、気持ちいい。
「気をつけて」
背中のほうから、はらはらした母の声が追いかける。
「平気だよ。それにすっごく気持ちいい」
私は後ろを振り返るヒマさえ惜しくて、前だけ見ながら大声で応えた。
ばさり、ばさり。両翼を振りぬくたびに、身体がぐんぐん前に進み、ぐんぐん高度があがっていく。すぐに、緑の葉が茂った樹々の頭を飛び越え、何もない空中に躍り出た。陽の光を全身に浴びて、私の身体も紅く染まった。
私はより高く飛ぶため、身体を斜めに傾かせた。見つめる先には、夕暮れ雲。いつも以上に、きれいに見える。
―早く、行かなくちゃ。
太陽を見下ろし、うすく紅く染まった雲は、変わらずそこにたなびいている。私は、はやる気持ちをおさえようともせず、勢いよく翼を動かした。心地よい澄んだ空気が、私の身体で次々に切り裂かれていく。
だんだん、飛行の感覚もつかんできたところで、私はようやく、ちらりと足下を見下ろした。緑の葉に覆われた樹々の集まりはもうすっかり小さくなって、自分の巣穴がある樹がどれなのだか、見分けもつかなくなっていた。
当然、こんなに高くまで飛んだのは初めてのことだった。私は自分の住む森が、空から見ると案外小さかったことに驚くと同時に、そうして自分の家を俯瞰できるようにまでなったことに、満足感を覚えていた。
けれど、そのうちある違和感が私をとらえた。
―おかしい。
ばさばさと懸命に翼を動かしつつ、私は首をかしげた。緑の樹々は、もうずっと下のほうに小さくなってしまったのに、見つめる雲の大きさは、飛び立つ前とまるで変わっていない。
―こんなに、遠かったなんて。
目指す雲が浮かぶ場所は、飛びだす前に想像していたよりも、ずっと高く感じられた。のぼってものぼっても、一向に近づいているようには思えない。むしろゴールである雲のほうが、近づかれることを静かに拒んででもいるかのようだった。
―早くしないと、陽が暮れちゃう。
私は小さな身体にあふれるだけの力を振り絞って、なおも翼を動かし続けた。太陽が、だんだんと山際に近づいている。空の色も夕暮れの紅から、うっすらと藍色を帯び始めていた。雲の向こうには、気の早い星さえ瞬きだしていた。
私の心に、さっきまではなかった焦りが芽生えていた。出発前、あんなに期待にあふれていた気持ちが、どんどん萎れていくのがわかった。
―間に合わないかもしれない。
嫌な予感が脳裏をよぎった。いや、間に合うかどうかというより、そもそも私が目指している場所は、たどりつけるはずのところなんだろうか。飛び立ってみて、初めて分かった。空の高さは、想像していたものよりもはるかに高くて、私の恋した薄紅の雲も、ずっと、ずっと遠くに在ったのだ。
太陽の一部が、山に隠れ始めた。それに合わせるように、藍色が空を急速に覆っていく。私の心にも、急速に焦りが広がった。私はもはや、絶望に近い思いで両翼を上下させていた。激しく動かし過ぎたせいで、大事な羽が二、三枚、抜け落ちていた。翼も足も、麻痺しているみたいに感覚が薄れている。高度に伴い、周囲の温度もぐんぐんと下がって、驚くほどの冷気が身体を包みこんでいた。夕焼け雲から、紅色がほとんど消えかかっていた。
―待って、まだ、もう少し。
知らず、私の眼には涙がたまっていた。空がにじんで、雲も太陽もぼうっとかすみ始めた。
またひとつ羽が抜けて、はらはらと落下していった。それと同時に、眼からあふれたしずくも落ちていった。空の冷気のせいで身体の熱が奪われて、翼がうまく動かせなかった。
―届かない。届かない。
ぼんやりかすんだ雲を目にしながら、私の中にみなぎっていた力が、一気に薄らいでいくのを感じた。待ち構えていたかのように、冷気が容赦なく私の身体をしめつける。
ついに、ぱさ、と弱くはばたいたかと思うと、翼は動きをとめた。寒さと疲労で、もう動かせなかった。推進力を失った私の身体は、一瞬、ふわっと浮かんだかと思うと、するすると落下しはじめた。
届かなかった。あまりにも遠かった。上昇するときよりも速いスピードで、全身が急降下していく。胸のうちでは、届かなかった、届かなかった、という響きが何度もリフレインしていた。あふれる涙で視界はさらにぼやけ、もう雲も空も山も何もかも、見分けがつかなくなっていた。
落ちる。落ちる。落ちていく。
もうダメだ、と思った。身体に力が入らない。このままでは、落ちて、木の枝にぶつかってしまう。
私は失望と後悔に脳内をぐるぐるかき回されながら、こらえきれず目を閉じた―。
「君が、好きだ」
瞬間、渦巻く意識の底を、聞き覚えのある声がかすめた。
不意に、身体に熱がよみがえった。どくん、と大きく心臓が波打つ。思わず、翼をばさり、と震わせた。一瞬、落下がやわらいだ。
―今のは何?
意識が、回転を止めた。目を大きく見開いた。にじんだ空のところどころに、星がまたたいている。太陽はもう山の影に完全に隠れて、空は藍から黒色にとって変わろうとしていた。雲は、もういない。
私ははっとして、翼に力をこめた。必死で、ばさばさと空をたたく。ものすごい力で引っ張っていた重力がようやく私の身体を放し、私の身体はまたバランスを取り戻した。
今のは何だったのだろう。不思議な熱と落下をとどめた興奮とで胸をどきどきさせながら、私は唖然としていた。空のあちこちを見回してみたけれど、雲の姿はもうどこにも見つけられなかった。
「大丈夫?」
母の声と、頼もしいはばたきの音で、我に返った。いつの間にか、母が私を迎えにきていた。
「気になって、樹の上まで出てみたら、落ちてくるのが見えたんだもの。本当にびっくりしたわ」
母は、ぱたぱたと頼りなく浮かんでいる私のそばに寄り添って、ほうっと息をついた。見ると、生い茂る葉や枝が、足元のすぐ近くにまで迫っていた。危うく、私は木の枝に身体をぶつけてしまうところだったらしい。
「…ごめん。でも、もう大丈夫」
私はまだどこか釈然としないまま、母の顔と上空とを交互に見比べた。母は、私の様子にけげんな顔をしながらも、
「さあ、早く帰りましょう。みんな、おなかをすかせてるわ」
と言って、すいっと下方に飛んで、近くの木の枝にとまった。私もあわてて母の後について飛んだ。そうだった。きょうだい達が、待っているのだ。
「ねえ、母さん」
巣穴に向かってすいすいと飛ぶ母の姿を追いかけながら、私はたずねた。
「なあに」
「雲って、遠いんだね。空って、高いんだね。私、はじめてわかった」
「この子ったらもう。雲の上まで飛ぼうとしてたの?そんなの、無茶に決まってるじゃない」
「うん。でも、飛ぶまでわからなかったんだもの。なんだか、私にも届くような気がしてたんだ」
「ばかねぇ」
時折後ろを振り返りつつ、母がやさしく私をたしなめた。私はちょっと恥ずかしくなって、母から目をそらした。
「次からはもう、危ないことはしちゃダメよ。いくら自由に飛べたって、できないことだってたくさんあるんだから」
「うん。ごめんね」
私は素直にあやまった。母の言うとおりだと思った。
巣穴はもうすぐだ。私は、さっき空から落ちるときに聞こえた声について母にたずねようと思ったが、やめた。あれは母の声ではなかったし、おそらく母には聞こえていなかっただろうから。
代わりに私は、別の質問をした。
「雲まではいけなかったよ。でもそれなら、私の羽で飛べる限界って、どこまでなのかな」
母はすぐには答えず、一度すいっと弧を描いて飛びあがり、太い木の枝にとまった。私も母に続いて枝にとまり、疲れた目をごしごしこすった。この暗さではなかなか目がきかないけれど、並んだ木の様子でだいたいコースは分かる。母もいるので、安心だった。
「そうねえ」
翼の手入れをしながら、母がつぶやくように言った。
「それは母さんにも、わからないわ。あなたがどこまで飛べるようになるのか。もちろん、とっても遠くまで飛べるほどに、成長してくれたらうれしいけれど」
母はいったん、言葉を切った。私は、なにか考えている風にしている母の顔を見守った。やがて、母がゆっくり口を開いた。
「だけどやっぱり、母さんは、あなたにあまり遠くまで飛んで行ってほしくないって思っちゃうかもね。本当はずっと、母さんのそばにいてほしいもの。限界なんて知らなくていいから、無理しないで、って」
母の声はやさしかった。でも私にはそのとき、かすかに、母の声が震えているように感じられた。
「大丈夫だよ、私、母さんのそばにずっといるよ」
私がそう言うと、母は少しほほ笑んだ。どこか寂しそうに見えたのは、きっと私の気のせいだろう。
「そう。それなら安心。だけどほら、飛ぶのに慣れたら、次はエサを取ってくる練習をしなくちゃね。まだまだ、やることはたくさんあるんだから」
母は元気よく言って、威勢良くばさばさと翼をはためかせた。私も急に身体に力がわいてきたように思えて、つられて二、三度はばたいた。
母がぱっと枝から離れると、私もあとに続いた。巣穴は近い。私は明日も明後日もずっとそこから、夕焼け雲を眺めているんだろうなと、自然に思った。」
最後の句点をことさらに丁寧に記してから、ペンを置いた。指の根がほどよく疲れて、熱を帯びていた。
私は一度大きく伸びをすると、ふうっと息をついて、右の親指の根元のあたりを軽くもみほぐした。
小説の終わりの部分を、大きく変えた。先生に見せたときには、夕焼け雲のそばまでのぼった私が雲とおしゃべりをしていたけれど、その描写をすっかり変更したのだ。
これでいい。私はこの結末に納得していた。きっと先生に見せることはもうないけれど、それでもなんとなく、ちゃんと納得できる形に変更しておきたかったのだった。
階下から、母が夕食の支度をする音が聞こえる。今日は日曜日だから父も下にいて、居間でテレビでも見ているだろう。
私は机の隅に置いたケータイを取り上げ、画面を開いた。ミズキからメールが届いていた。
「美大受験、決めたよ。応援してね」
ハートと、ピースサインの絵文字も並んでいた。ミズキらしい、簡潔なメッセージだ。
なんと返信しようか、考えているうちに、母が夕食の完成を知らせた。私はいったんケータイをしまって、心の中で、大丈夫。頑張れ、とつぶやいた。
ねつ @junk-do
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