9.
ここ数日居座り続けた雨雲はようやく過ぎ去り、窓の外には、久しぶりに高いところまで見渡せる空が広がっていた。色はまだ十分に青く、夕暮れのオレンジの出番は、まだもう少しかかりそうだ。
放課後のチャイムの十五分後。日増しに日が長くなっているのが、はっきりと感じられた。窓のそばに置いてあった黄色い花はなくなっていて、代わりに定期テストの作製に使うのであろう様々な資料が平積みになって置かれていた。体育館からは、運動部の活発なかけ声とシューズの音が響いていた。
先生は、白地のシャツと黒のスラックスに身を包んで、いかにも清潔で健康そうに見えた。体調はもう問題ないようだった。私が職員室に入ると、呼びかけるより先にこちらを振り向き、私の姿を認めるやいなや、
「中岡さん、心配しましたよ。もう、風邪は治ったんですか」
とあわてたように問いかけてきた。清廉な、白い頬だった。
「すみません、僕の風邪をうつしてしまったようで…ダメですね、人前に立つ教師として、ちゃんと体調管理というか、少なくとも生徒たちに影響を与えないような振る舞いを心がけないと」
申し訳なさそうに、左手で頭をかく。教材研究にいそしんでいたばかりの右手には、まだペンが握られたままだった。
私は、
「本当です。テスト前の大事な時期だっていうのに、なかなか熱がひかなくて、すっごく困ったんです」
と、わざと口をとがらせた。そうして、先生が実に恐縮の態でうつむいてしまったのを見届けてから、
「うそ、うそ、冗談。私、勝手に風邪ひいただけだもん、先生のせいじゃないよ」
とうそぶいてみせた。
先生は、叱られた後の子どもが母親の顔色をうかがうかのように、こわごわ視線をあげ、
「いや、それにしても、すみません」
と、なおもよくわからない謝罪を述べ、ようやく手を下ろした。
一時は38度以上の熱を出し、結果として五日間も学校を休んでしまうことになったのだが、もう大丈夫だ。病床にいるときはあんなに苦しかったのが、冷めてしまえばなんということはない。症状が回復するにつれ、私の胸中にわだかまっていたもやもやとした気持ちもしだいに薄れていき、今朝起きたときにはもう、心身ともにすっきりとした状態となっていた。
先生と私とは、何でもなかったのだ。先生はずっと優しくて、私だけが若さゆえのつたない熱にうかされていたのだ。しかも、先生が私を少なからず意識しているだとか、恋の微熱だとか、おめでたい思いにとらわれて、ひとりで勝手に舞い上がっていただけだ。冷静に考えてみれば、そんなことあるはずがないのに。自分が、まだまだ子供だっただけ。それだけだ。
とはいえ、ひとつだけ、何をおいても確かめておかなければならないことがあった。私はスカートの上に両手をきちんと揃えて重ねると、
「先生、私の小説、読んでくれましたか」
とたずねた。少しだけ、緊張感が舞い戻ってきた。
先生はペンを机上に置き、椅子をこちらに回して向き直った。そうしてやわらかくほほえんで、
「ええ、もちろん。実にいい“恋愛”小説でしたね」
と答えた。恋愛、の部分が少し強調されていた。私はさすがにちょっと恥ずかしくて、うつむいた。先生は
「いや、まさかこんなモチーフでくるとは思いませんでしたね」
と言いながら、背中をねじって机の引き出しを開け、原稿用紙の束を取り出した。もちろん、私が渡したものだ。丁寧に折りたたまれた白い用紙を目にすると、私はまたさらに恥ずかしくなって、肩をすぼめた。よくこんなに痛い文章が出せたものだと思う。
先生はしかし、少しまじめな声になって、
「内容はさておき。僕が言いたいのはですね、中岡さん。何よりも、あなたがひとつのものを完成させた、ということの驚きです」
と言った。
「これは僕の個人的な意見ですが―。小説でも音楽でも絵画でも何においても、もっとも難しいのは、素晴らしい発想を得ることではなくて、作品を最後まで完成させる、ということだと思うんです」
先生がしみじみとした調子で語る。そっと目をあげると、先生はいつの間にか窓の外を見ながらしゃべっていた。
「どんなに良い作品の構想があっても、それを作り上げなければ意味がない。何にもなかったのと同じです。いわば、傑作の幻影―これはあの太宰の言葉ですが―まさに、幻影のままで終わってしまう。今じゃ偉大な作家だっていわれている人だって、やっぱりそうして苦しんでいたのだな、と、僕は彼の作品を読んだときに痛感しましたね」
語る先生の言葉は、いつしか私ではなく別の誰かに向けられているようだった。窓外では、空の色が、抜けるような青色からうすい紫色へと、そろそろと変わり始めていた。
「だから僕は、うらやましいんです。どんな形であれ、自分の感動にしたがって、ひとつの作品をちゃんと作り上げた、あなたのことが―」
私ははっとして先生を見つめた。なんだか、へんに聞き覚えのある言葉のような気がしたからだ。先生は、鼻から小さくため息を漏らすと、また私のほうに視線を戻した。
「たしか以前、僕は小説を書いたことがない、と言ったでしょう。あれ、厳密に言うと嘘なんです」
照れるように、先生が言った。私は何と言ったらよいのかわからず、意味もなくスカートの上の手をちょっと重ねなおした。
「本当は、僕も書いたことがあるんです。―いや、書こうとした、と言ったほうがいいですね。結局、途中であきらめてしまったんですから。あなたみたいに、ちゃんと完成させてやれなかったんです。ちょうど、そう、それこそあなたと同じくらいの、高校生のときでしたね」
先生は、はにかんだ微笑をたたえて私の目を見た。私は先生に見つめられて、もじもじしながらまた下を向いてしまった。
「まあ、もちろん、今思うと実につたないというか、それこそへたくそな作文みたいなものではありましたが、やっぱり少なくとも書きあげてあげればよかったな、と思うことはあります。―だから、中岡さん」
先生は急に私の名前を呼んだ。私の体がぴくりと反応する。
「この作品は、大切にしてください。間違っても、恥ずかしがって破いたりしないでくださいね」
冗談めかして笑い、先生は原稿用紙を両手で私に差し出した。私はおずおずとそれを受け取り、ちらと先生に目をやった。先生は満足気ににんまりとした表情を浮かべていたが、はたと気がついたように、
「そうだ。そういえば、田中先生から聞きました。僕が休んでいるときに、この原稿読まれてしまったみたいで、その…すみません、見せるつもりはなかったんですが」
と言って、両手を合わせて「すみません」の形をつくると、ぺこりと頭を下げた。
私はそうした先生の様子にあわててしまって、いたずらっぽく軽口をたたくのも忘れて、
「いえ、あの、いいんです。その、―もう、終わったことだから」
と答えると、なぜだか先生にならってぴょこんと頭まで下げてしまった。下げてしまってから、何をやってるんだと恥ずかしくなり、すぐにまた顔をあげた。
さっきまで遠慮がちだった夕暮れが、いつの間にか空全体にまで広がろうとしていた。体育館からの音に混じって、山へ帰るからすの、かあかあ鳴く声が聞こえた。そろそろ帰らないと。他の教師たちが、教室巡査から戻ってくる頃あいだった。
私は原稿用紙を鞄にしまい、改めて先生にお辞儀をした。先生は一瞬、しまった、という顔をして、
「あ、内容についての感想とか、全然言ってなかったですね…関係ない話ばかりしちゃって」
とまた頭をかく。よく頭をかく人だな、と私はなんだかおかしくなった。
私は、
「もういいんです。内容とか文章とかの幼稚さは、自分でもよく分かってるし」
と、先生の批評を制した。本当にそう思っていた。そもそも小説などと呼ぶのもおこがましい、つたない文章なのだ。先生に読んでもらえた、それだけで十分だと思っていた。
が、続く先生の、
「また、違う作品も書いてみますか」
という一言で、不意に言葉につまった。
また、書くのか。私は、それに対する答えをすでに用意していた気がした。が、なぜだか急に、それはそんなに軽々しく答えてはいけないのではないか、という思いに襲われた。夕暮れ。帰らなければいけない。けれど、先生の最後の問いは、ひどく大事な問いかけであるような、そうしてひどく大事な選択を迫られているように感じた。
「え、っと――」
言葉につまる。おさまったはずの、あの妙な熱っぽさが、ぐっと胸のあたりまでせり上がってくるのを感じた。いや、ダメだ。もう風邪は治ったのだ。
おなかに、ぎゅっと力をこめた。先生は、じっと私を見ている。私も先生を見つめた。全然関係ないはずの、父親やミズキの顔が脳裏をよぎった。
「―私は、やっぱり、向いてないです。だから、作品はこれだけ。それで、大丈夫です」
言葉をしぼり出した。一瞬だけ、先生の目が見たことのない輝きに満ちた。が、ほんの一瞬だった。見間違いだったかもしれない。先生はいつもの、へたな笑顔を顔いっぱいに浮かべて、
「そうですか。残念ですが、しかたないですね」
と言った。そうして、ちょうど差し込んできた夕陽の逆光で、先生の笑顔はすぐに隠されてしまった。
廊下が少し騒がしくなった。きっと、教師たちが帰ってきたのだろう。私は肩にかけた鞄のひもを背負いなおして、ありがとうございました、と一礼し、職員室を出た。廊下側から見た外の景色は、黄金色の夕暮れだった。なんとなく頬に手を当てた。いつもと変わらない、ほのかな温かさだった。
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