8.


体温。

38・3度。

高熱。



あつい。

熱が、私をにぎりしめている。頭のてっぺんから足の先まで、ぎゅっとおさえつけられて、体がまるで自分のものではないかのようだ。のどの奥がはれあがって、なんだか息苦しい。


ここは、どこだろう。

かすかに目覚めた脳で、全身に感覚を走らせる。背中から、私を支えるスプリングの弾力が伝わってきた。その弾力で、自分が今、自宅のベッドで眠っていたのだということを、おぼろげながら思い出した。

そうだ、私は風邪をひいて、家で休んでいたんだ。

しかし、まどろみから浮かび上がりきっていない脳内はまだぼうっとして、つい今しがたまで見ていた夢の残滓が、ともすれば息を吹き返そうと、意識の波間をただよっている。


それにしてもあつい。

呼吸をするたび、汗にぬれた体と寝間着との間にじめじめとした空気が入り込んで、いやな感じだ。私をむしばむこの熱は何なのだろう。

いや、と私はすぐに気づいた。これは私の体温だ。知らないはずはない。間違いなく、私から発せられているものだ。それどころか今まさに、風邪に侵された私の体内でウイルスを殺し、私を救おうとしているのではないか。

つよい熱。まるで、私を生かすためならば、殺すこともいとわないかのようだ。


薬は少し前に飲んだ。市販のものだからあまり期待はできないが、とにかくもうすぐ効いてくるはずだった。

今、何時だろう。

ぼんやりした意識のまま、うっすら目を開ける。部屋には誰もいない。私ひとり。ベッドのそばの窓にはカーテンがひかれ、室内を彩るのは、天井のオレンジ色の豆電球のみ。これでは夜なのか昼なのか分からなかった。やむをえず、目だけで卓上時計を探すが、見当たらない。寝る前に見える位置に置いておくのを忘れていたらしい。エアコンの低い送風音だけが、耳鳴りのように響いている。


時計をあきらめ、まぶたを閉じた。体がだるい。寝返りを打つと、熱のこもった体と汗でしめってふやけた寝間着がふれあい、いやな悪寒がはしった。けれど、着替える気力はなかった。私はぐしょぐしょの寝間着のまま、大きな身震いをやりすごした。

もう少し、眠ろう。私はそう決めて、整いかけていた意識をふたたびかき混ぜ、溶かす作業にかかった。少しずつ、粉ミルクを湯に溶かすように、少しずつ。しだいに息が深くなっていく。それに合わせて、散り散りになっていた夢のかけらたちが、ふたたび集まり、色を取り戻しはじめる。

集合したかけらたちは、しばらく不規則に混ざり合っていたが、やがて、ひとつの映像に収束していく。なんだか人の横顔のようにみえる。横顔。そうか、これは先生の顔だ。そういえば、先生はあまりまっすぐに人の顔を見ることがなかったかもしれない。だからぼやけた先生の映像も、横を向いている。


「―しいんです、ぼく――」


映像に、声がまじる。体の奥で響くその声に、私は耳をすませる。


「うらやましいんです、僕は、あなたみたいな思いをいつの間にかなくしてしまった人間ですから」


先生の声だ。でも、聞きたくない。先生のことは、もう考えたくないのだ。それなのに、なぜ。


「僕にもわからないことだってありますよ。むしろ、わからないことだらけです」


先生が笑った。

私はイメージの中で思わず目をそらした。そうして笑ってみせたって、だめだ。嫌いなんだもの、先生のこと。

そうだ。全部、先生のせいなんだ。私がこうして、寝込んでいることだって。先生は、そんなことも知らずに、きっと今も教室で授業をしているんでしょう。人の気持ちも知らずに。

―でも、もういいんだ。だって、それは私だって同じだもの。先生のことを勝手に好きになって、勝手に嫌いになっただけなんだ。先生はたぶん、ずっと変わらなかった。私だけが、ひとりで大騒ぎしていただけなんだ。そうでしょう。私は、先生のことなんて、何一つ、知らなかったんだ。

先生、ねえ、先生、聴いてるの。そんな、悲しそうな笑顔なんてしないでよ。いつもの、へたな笑顔でいいから、ねえ――


「通ずるところがあるんですよ、きっと」


先生が、つぶやいた。


ふいに、意識が崩れた。先生の声が遠くなり、私をおさえていた熱が、急速に弱まっていくのを感じる。薬が効いてきたんだ。体が軽くなった。さっきまで私をあんなに苦しませていた熱が、少しずつ、確かに、失われていく。熱が奪われる、そのことになぜだか一抹の寂しさを感じながらも、私の体はゆっくりと、深い眠りに落ちていった。先生はいない。私だけが残されて、季節はずれの、そりすべりの夢を見た。


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