7.


雨は今日も降り続いていた。

けっして激しく降り注ぐことはなく、あくまでも、しとしと、さあさあと、ひそやかな音をたてながら、中庭のモクレンを濡らし、校庭の砂利を湿らせ、ぬるい晩春の空気の中にぼんやりとした霧を立ち込めさせていた。


四時限目。教室では、ストライプのシャツにぽってりとした黒のスカートスーツをはいた女性英語教師が、レイチェル・カーソンの著作を使って、英文の構造を解説していた。

授業に身が入らない私は、教室内にいる他の一部の生徒と同じく、左ひじを立て、ひたいに当てた手のひらで顔を覆い、ノートの隅に意味のない幾何学模様を延々と書きつづっていた。四重丸、五重丸、六重丸―。ひとつずつ円の数が増えていく。その様をうつろに眺めながら、私はずっと、先生のことを考えていた。


先生は、昨日から学校に来ていなかった。体調不良ということだった。風邪をこじらせたらしい。といっておおげさな病状というわけではなく、ただ、大事をとって二、三日、休むだけだという話だった。

もちろん、先生の体調は気がかりだったが、それ以上に私は、先生に作品を渡したときの、あの、指の冷たさが気になっていた。考えてみれば、先生の身体に触れたのはあのときがはじめてだった。教師としての立場もさることながら、生徒にまで敬語を使うほどの律儀かつ消極的な性格もあいまって、先生は、女子生徒はもとより男子生徒に対してもけっして身体的な接触をおこなうことはなかった。おそらく生徒だけではなく、教師同士であったとしても進んで手を触れたりすることはないだろうとも思われた。だから、どんなに頻繁に職員室に通っていようとも、私はこれまで、先生の体にほんの少しだって触れたことはなかったのだ。

それが、偶然とはいえ触れ合った。本来ならば―禁断の恋に身を焦がす乙女としての立場なら―そのささいな事実に少なからず胸をときめかせ、心を躍らせるべきなのかもしれない。

けれど、私の胸はまったくときめいてはくれず、むしろ漠たる不安にうすく覆われていた。先生の頬の紅さと指の冷たさとが、どうしてもかみ合わない、ちぐはぐな、異常なことのように思えてならなかった。何か重大なまちがいをしていて、それを明かされてしまうような、妙な予感がして仕方がなかったのだった。


そして、その予感は当たってしまった。


チャイムが鳴る。英語の授業が終わり、五時限目は美術だった。授業は美術室でおこなわれるため、いったん教室を移動しなければならない。二人から五人ずつくらいの固まりが、ありあまる活力を教室移動なぞのために費やすことを口々にののしりつつ、順々に廊下へと出ていった。そうしてほとんどの固まりが吐きだされたあたりで、私もようやく教材をまとめて立ち上がり、教室を出た。美術室へと向かうべく、のろのろと廊下を進む。


―と、正面から、他のクラスでの授業を終えたのであろう男性教師が、のしのしと歩いてくるのが見えた。中年の、国語科教師。国語科には非常勤もあわせて五人の教師がいるが、私が一年のときには女性が、二年次には先生が国語を担当しているため、この男性教師とは直接関わったことがない。私は目を合わせないように下を向き、そのまま通り過ぎようとした。すれ違ったと思ったところで、先方の足が止まった。


「おい、中岡」


野太い声がした。むろん、私に対するものだった。私は心中うんざりしながらも、やむなく足を止め、ちらりと振り返る。国語教師は、ポケットに手を突っ込んで、意味もなく私の全身をジロと一瞥した。こちらはさっさと行ってしまいたいのに、いらだたしいほどゆったりと構えている。


「どうだ。勉強は順調か。来月テストだな」


たばこでも吸うかのように、国語教師が言った。案の定、どうでもいい話だ。担任でもないくせに、そんなことを聞いてどうしようというのだろう。私はますますうんざりしながら、


「はあ」


とだけ答え、また歩き出そうとした。が、次の瞬間、


「お前、作家志望なのか」


立ち去ろうとした私を追いかけるように放たれた一言で、私の足はぴたりと止まった。


今、何と言ったのだ。


「小説な、お前の。まあ、小説と言っていいのかどうか分からんが。山内先生から見せてもらったんだが、うん。悪くなかったぞ。思ったより繊細な文章を書くんだな、お前」


野太い声が、含み笑いとともに私の背中に降りかかった。私は足を止めたまま硬直した。体温が、さっと下がった。


小説。この教師の言っている小説とは、間違いなく例の原稿用紙にしたためた、つたない文章のことだ。それしかない。それしかないけれど、それはつまりどういうことだ。


冷や汗が浮かんだ。体の水分が一気に奪われるように感じ、のどが急激に渇いた。意味が分からない。いや、意味は分かるけれど、どういうことだろう。私が書いた文章は、先生に見せたのであって、この教師にはいっさい関係ない。関係ないものを、なぜこの教師は知っているのだ。


「おい、中岡、突っ立ってどうした」


教師がしつこく声をかける。私の頭は混乱していた。教師はそのまま私の背中に向かって話し始めた。


「まあ、趣味だろうと本気だろうと、なにか作品をつくろうっていう気持ちは、それそのものが才能だからな。やりたいことがあるなら、一度思い切ってやってみるのはいいと思うが…ただ、もう二年生だからなあ。ちゃんと進路のことも―」


「先生」


私は顔だけでくるりと振り向き、上ずった声で彼の演説を遮った。


「私の、読んだんですか」


「え、ああ、ちょっとな。別に、悪くない出来だと―」


「なんで読んだんですか」


「は、なんで、って…どうした、何かまずかったか」


教師は面食らった様子で、鋭く問いただす私の顔をまじまじと眺めた。私はさらに「どうして」と言おうとしたが、唇がわなないて、うまく言葉にならなかった。鼓動が速い。それなのに、体は妙に寒く感じた。


読まれた。あれを、読まれたのだ。先生ではない、まったく関係のない別の人間に。それは、私には信じがたいことではあったけれど、どうやら事実のようだった。


「先生が、―その、山内先生が、それを、先生に―?」


先生がみずから、この野太い教師にあの原稿用紙を見せたのか、とたずねたかったが、発せられた言葉は支離滅裂だった。それでも、いちおう言いたいことは伝わったらしく、教師は頭をかいて答えた。


「ん、ああ…いや、見せてもらったというか、本当は、山内先生のデスクに置いてあってな。山内くん、昨日から休んでるだろ。生徒からの提出物やなんか、代わりに整理しようと思ったときに、見つけたんだよ。すまんな、あまり読まないほうがよかったか。でも、中岡―」


言葉の途中だったが、私は背を向け、ほとんど走るかのような早足で歩きだした。どうでもよかった。謝罪や言いわけなんて、どうでもよかった。そんなことは知ったことではない。私にはすでに、第三者にあの文章を読まれたという事実が突きささっているのだ。そして、それと同時に、いや、むしろそれよりも深く、私を突き刺す針があった。


体が寒くて震えた。五時限目の開始を知らせるチャイムが鳴ったが、私は自分が今、どこへ向かっているのかすら、忘れてしまっていた。視界がにじむ。タッタッタッと、誰もいない廊下をたたく急いた足音だけがこだました。


先生が見せたのではなかった。そんなようなことをあの教師は言っていた。けれど、それが何だというのだ。私は制服の袖で、ぐっと目がしらをおさえた。

先生が見せたかどうかなんて、関係ないのだ。だってあれは、あの小説は、小説なんかではなくて、恋文なのであって、私と先生だけが知っているはずのものなのだ。そもそも先生は、あれを読んでくれたのだろうか。わからない。いや、本当なら、風邪をひいて熱にうかされながら、小さな部屋でひとりであれを読んでいるはずだったのだ。そう。先生は、先生はあれを、ひっそりとひとりで静かに読むべきなのであって、ほかの誰にも見つからないところに、大切にしまっておくべきなのであって、つまり、先生は、先生は、私の――。


見覚えのない教室に突き当たった。明らかにでたらめな棟を歩いていた。もう五時限目に間に合うはずはなかった。私は叫びだしそうになる心を必死でおさえながら、にじんだ視界の中でトイレを探し、かけこんだ。幸い、手洗い場にも個室にも誰もいない。私は汗でじっとりした教科書を抱きしめ、一番奥の個室に入って、鍵を閉めた。涙があふれた。なぜ泣くのか、よくわからなかった。けれど、涙はとめどなくあふれてきて、冷えかけた私の体を少しずつ温めようとしていた。


扉の外の小さな換気窓から、くぐもった春の雨の音が聞こえた。

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