6.

先生は、変わらず一人でいてくれた。


放課後のチャイムの十五分後。夕方の国語科職員室。いつもと変わらなかった。ただ、外は数週間ぶりの雨模様で、閉ざした窓の上では水滴がいくつも筋状に流れていた。空には雲が立ちこめて、夕陽はさしていない。しとしとという雨の音が、室内の静けさをかろうじて破っていた。


「先生、あの」


私は先生の背中に声をかけた。猫背が伸びて、こちらを向く。


「あ、中岡さんですか」


先生の声は少しかすれていた。頬が紅い。なんだか、以前見たときよりも色味が増していて、頬だけじゃなく、鼻やひたいのあたりまで染まっているようだった。

私は肩からさげた鞄に目を落とした。ファスナーを開け、中から二つ折りの原稿用紙を取りだした。


「これ、その…書きました」


鞄の中で教科書か何かに圧されたらしく、原稿用紙の端にはいつの間にか三角形の折り目がついていた。先生に渡そうとしてその折り目に気づき、ちょっと手で直そうとしてみたが、どうにも直らないので、仕方なくそのまま端を押さえて両手で先生に差し出した。先生の顔は直視できず、自分の手元をひたすら見ていた。


「ああ、書いてくれたんですね。楽しみにしてましたよ」


先生が回転式の椅子をこちらに向けたらしく、きぃっと椅子のきしむ音がした。原稿用紙をつかむ私の手に、ぎゅっと力が入る。てのひらが汗ばんで、私は用紙がふやけてしまっているのではないかと心配した。指先が、震えていた。


先生が用紙に手を伸ばした。見えていなくても、それが感じられた。それを合図にしたかのように、にわかに私の心が騒ぎ始める。―先生に渡す。本当に、渡してしまってもいいのだろうか。やっぱり、ちょっと待ってください、とかなんとか言って、手をひっこめたほうがいいのではないか。誤字がたくさんある気がする。文がぐちゃぐちゃで、読むにたえないかもしれない。いや、そんなことよりも―。


胸の中はあふれかえって、どうにもおさえられなかった。指の震えが、止めようとしても止まらない。心臓が大きく、速く、波打っている。体があつかった。頬も、あつかった。

―そうだ、そんなことよりも。こんなにつたない、痛々しい文章を、先生に見せてしまっていいのだろうか。私のことを、ばかだなって思うんじゃないだろうか。でも先生は、先生は、私を意識している。頬が染まっているのだもの。恋の微熱を、先生もきっと、感じていて、私もきっと―。


瞬間、指先に冷たいものが触れた。


背中に氷を投げ込まれたように、はっとして、私は反射的に視線をあげた。先生の顔。目が合った。だけではない。原稿用紙をささげ持った先生の指が、私の指に触れていた。冷たかった。先生の指先は、驚くほど冷たかった。


「ありがとう、読ませてもらいますね」


先生は目じりをすいっと下げて、へたな笑顔をつくった。原稿用紙は私の手から先生のもとへと渡って、ひざの上にきちんと置かれていた。雨がしとしとと降っている。変わらなかった。さっきまでと何も。


私は、不自然に体の途中まで上がった両腕をこわごわと動かし、肩からさげた鞄のひもをぎゅっとつかんだ。さっき感じた冷たさが、まだ残っていた。心臓はまだとくとくと細かく波打って、あつい血液を全身に送り出しているのに、指先だけが別物のように冷たかった。

先生は、呆然としたように立ち尽くす私の様子に、ちょっと首をかしげてみせた。そうして、やおら右手を握ってこぶしをつくると、ななめ横を向いて、小さく咳きこんだ。

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