5.(作中作)
「恋をした。
夕焼け雲に、恋をした。
彼はいつも、薄く、紅く、ひかえめに染まって、
空のまんなかにたなびいている。
仕事を終えた太陽が、ちょうど眠りに落ちようとするそのとき、
彼は一日で一番その頬を紅らめながら、じっとそれを眺めている。
燃えるような朱色が、藍色の空を横切り、山に寄り添い、そうして完全に姿を隠してしまうまで、はにかみながら、黙って見送っている。
そうして夜がやってくると、いつのまにか形を変えて、どこか別の空へ行ってしまうのだ。
私は巣穴から、いつも眺めていた。
けれど、はじめは気づかなかった。
だって空は毎日そこにあり、雲は毎日、流れている。あたりまえにそこにあるものに、あたりまえでない感情を抱くことがあるなんて、思いもしなかった。
気がついたのは、桜の季節だった。母が私たちの食事を探しに出ていって、私はおなかをすかせながら、穴の外をじっと見て、母の帰りを今か今かと待ちわびていた。
夕暮れだった。
立ち並ぶ樹々のすき間から、ひときわ大きく黄金色に輝く太陽が、ゆっくりと寝床に向かっていくのが見えた。一日の終わりを告げる、眠たげな太陽のあくび。誘われて私も小さなあくびをひとつ。そのとき、見つけた。
彼がいた。山のきわから少し見上げた、空のただなか。静かに、私と同じものを見つめていた。
どきりとした。きれいだと思った。
遊び相手の風が吹けば、どこかへ連れていかれてしまうだろう。仲間の雲が多ければ、逆に太陽を隠してしまう。仲間がいない、風も来ない、さみしい孤独の時にだけ、ただひっそりと頬を染め、愛する太陽のまどろみを、ずっと眺めてたたずんでいるのだ。
私はしばらくみとれてしまった。
そうして私がぼうっとしていたら、黄金の光が、ひとつ増えて、私のほうへと向かってきた。母が、夕陽に照らされた翼をぱたぱた動かしながら、我が家に晩のごちそうを持ちかえったのだ。私は、空腹なのも忘れ、母にたずねた。
「ねえ、私もいつか、飛べるようになるの」
母は、はばたき続けて疲れた羽を熱心につくろいながら、答えた。
「それは、もちろん。もう少しだけ、大きくなれば」
きょうだい達が、ぴいぴい鳴いてご飯を求めるものだから、母はあわててくちばしをそちらに向けた。
「でも、早く飛んでみたい。ほら、もうこんなに動かせるようになったんだよ」
いそがしそうな母の気を引こうと、私はせまい巣穴にめいっぱい自分の小さな翼を広げて、上下に動かしてみせた。
「まだまだ。そんなので飛んで出たって、途中で落っこちて、帰ってこれなくなるんだから」
「そうかな。もう十分だと思うけど」
私は食い下がった。
「あせらなくたって、大丈夫。あなたももうすぐ、母さんみたいに大きくなるんですから。それまで我慢」
「ずるい。母さんはもう、いろんなところへひとりで飛んでいけるのに。母さんは、雲までだって届くんでしょう」
「さあ、やってみたことがないからね。それより、早く食べなさい。もうじき夜がくるんだから」
きょうだい達に配り終えた残り物を、母が私に差し出した。
私はそこで、やっと自身の空腹を思い出したのだった。いそいで、ごちそうにありつく。
母の言う、もうすぐ、とはいつだろう。それはなぜ、今ではないのだろう。はやく、大きな空にはばたいてみたい。あの哀しげな夕焼け雲に触れてみたい。私も、私の大事なこの羽も、今、このとき、こんなに飛び立ちたがっているのに。
小さなくちばしをせっせと動かしながら、私はそんなことを、繰り返し考えていた――」
思わず、原稿を伏せた。とてもではないが、読み続けられなかった。
電気スタンドの電源を切り、立ちあがる。どうせ、逃げ道はないのだ。
私は原稿用紙を、中が見えないように山折りにしてたたみ、かすかに震える手で、鞄に押し込んだ。何も考えてはいけない、と言い聞かせた。
時計を見ると、午前三時だった。家の中も外も、静かだった。
ひとつ、大きく息を吸って、吐く。
何も変わらなかった。いや、ほんの少しだけ眠くなった。私はその眠気をたよりに、いそいで明りを消し、ベッドにもぐりこんで目を閉じた。
何も考えては、いけない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます