4.


「美大、受験しようと思って」


まるでハンバーガーでも注文するかのようにさらりとそう言うと、ミズキは、さも何でもないことのように、手に持ったストローの先をちょっと上に向けて、口にくわえた。オレンジジュースの黄色が、なめらかにミズキの口に向かって移動していく。ストローを支える指が、かすかに震えていた。


中学校時代からの数少ない友人であるミズキは、私とは違う高校に通っている。進学校で、私の学校とは違って制服がセーラーで、可愛い。こうして学校の外でふたりで会っていると、自身の制服の地味さが露呈されるようで落ち着かなかったが、私には一緒にファーストフード店に入れるような友人が、同じ学校内にはいなかった。

それぞれの近況を他愛なく話した後で、ふっと自身の進路についてつぶやいたミズキは、しれっとした表情で熱心にオレンジジュースに口をつけていた。ただし、のどはほとんど動いていなかった。私はいっこうに減らないジュースの水位を見つめながら、返すべき言葉を探した。


ミズキは中学時代、美術部だった。たくさんの絵を描いていた。絵のことが皆目わからない私には、彼女にどれほどの才能があるのか、あるいはないのか、まったく判別できなかったが、三年のときに県のコンクールだかで特賞を取っていたから、きっとうまいのだろう、というくらいには思っていた。

でもまさか、美大受験を考えるほど、それほどの真剣さをもって絵画に向かっているとは知らなかった。私たちは高校に入ってからも月に一、二度くらいは顔を合わせていたが、互いの夢や進路のことなどはほとんど話したことはなかったのだ。ミズキは進学校に進んだ。それはつまり、そういうことなのだろうと、勝手に納得して、別に疑問も違和感もいだかなかった。高校でも美術部に入った、と聞いたときも、絵が好きなんだな、と思っただけだった。


「えっと…美大って、実技とかあるんだよね」


返答に困った挙句、私は無知きわまる質問によって時間を稼いだ。

ミズキはようやくストローから口を離し、軽く笑った。


「そりゃもちろん。勉強よりそっちがメインだもん。課題が出て、それに沿うかたちで時間内に作品を描き上げる、って感じかな」


ミズキは、多少あっけにとられたような表情をしながら、おもむろにアルミ製の簡易な椅子の背に体をもたせた。


「だよね…大変そう。もう決めたの?」


なんらスマートな言葉が浮かばない自分に閉口したが、ミズキはそんな私の様子に、案外くつろいだ風だった。指の震えはなくなっていた。

ミズキは右手に持ったジュースのカップを左手に持ちかえると、プラスチックのふたを開け、ストローで中の液体と氷とをかき混ぜ始めた。容積に対する氷の割合ばかり多くて、ザリザリと、あまり優雅でない音が立つ。


「決めたっていうか…私は決めたんだけど、まあ、まだ親がね。あと先生とか。とりあえず、少し考えてみな、って言われてる」


しゃべりながら、ミズキはくるくるとストローを回した。微細な氷から順々に溶け出して、オレンジの黄色が少しずつ薄くなっていく。


「そっか、まあ、そうだよね。ミズキ、頭いいし、ふつうに受験したって、いいとこ行きそうだもん」


私は自分のジュースのカップとミズキの顔とをちらちら見比べつつ、頼りなさそうに言った。ふつうに受験、という言葉はこの場合、あまりふさわしくないように思えたが、口から出てしまったのだから修正もきかなかった。


「えー、別にそんなことはないけどさ…まあそりゃ、担任も、ふつうに国公立行けるんだからそれでいいだろ、みたいなことは言ってるけどね。美大も公立のところありますけど、って言ったら、そういうことじゃない、って怒られた」


ミズキはふふん、と鼻を鳴らした。ストローを、さっきとは反対方向に回している。


「っていうか、絵のほうも言うほどなんだけどね。一応、今度の総文祭には出品できるし、去年も優秀賞取ってるから、いろいろ評価してはもらえてるけど…あんまり当てになんないじゃん?そういうのって」


私がミズキの絵の技術について言及しようとしないのを見てとったのか、ミズキは自ら実技の状況について話し始めた。が、美術のことなどさっぱり分からない私には、何を言われてもピンとこなかったし、「当てになんないじゃん?」と言われても、あいまいにあいづちを打つしかなかった。


「まあまだ二年なんだし、今年一年でちょっと頑張ってみて、答えを出そうとは思ってる。どうなるかはわかんないけど、応援してよね」


ミズキは持っていたストローをふたとともにトレイの上に置くと、すっかり薄まったジュースを、カップの口からじかにのみほした。


「うん、うん、応援するよ。ミズキならきっとできるよ」


いかにも興味がなさそうに見えてしまったのではないかとあせった私は、上ずった声でそう言った。そうして、


「…ごめん、絵のこと、よくわかんなくて」


と、小さく謝った。

ミズキはそういう私をわざとにらむようにしてみせた後、ふふっと笑って、ひとこと、ありがと、と言った。

私のジュースはほとんど減っていなかった。



「また連絡するね」というお決まりの文句を交わし、ミズキと別れたときには、空はもう濃い藍色に覆われていた。

自宅方面行きのバス停に向かって歩きながら、私は下ばかり見ていた。小さな町とはいえ、駅とショッピングセンターが隣接するこの付近はさすがに車通りも人通りも多く、仕事帰りらしいサラリーマンや、自転車に乗った小学生が通るたび、ぶつかりそうになるのをあやうくよけた。


―何してるんだろう、私。


月並みな、ありふれた問いが心の中にわだかまっていた。歩道の横を、大きなトラックがおおげさな音をたてて通り過ぎた。

もともと、ここ最近の胸のつっかえを少しでも解消したく思って久しぶりにミズキに連絡したのだ。それなのに、先生のことは、ミズキには話さなかった。もちろん、世間一般の女子高生たちと同じく恋愛のことも話題にのぼったことはのぼった。ミズキには今彼氏はいないらしいということもわかったし、一方で同じ部活の後輩に気になる男子がいるらしく、でも年下だしなぁ、と苦笑するミズキの表情も見た。けれど、私の現状を聞かれたときには、今好きな人がいなくて、などと適当にごまかしてしまったのだった。

恥ずかしい、というのとは少し違った。むしろ、なんだか情けないような気がしていた。自分には何もない。絵も描けなければ、勉強もたいしてできるわけではない。将来のことだって、何か考えているのかと言われれば何も考えていない、と言うしかない。中学時代からの友人が真剣に進路を考えている中で、自分は実るべくもない恋にうつつを抜かし、つたない熱意に浮かれている。そんな感覚だった。


熱意。私のは、ミズキのそれとは違って、何も伴わない熱意なのだ。原稿用紙に向かっても、何ひとつ書けないということが、その確たる証拠であるように思えた。何も書けない。とすれば、私はいったい何をしているのだろう。

道順などまるで意識していなかったにも関わらず、いつの間にかちゃんとバス停についていた。なんだか意外だったが、ひとまず気持ちを落ち着けるべく、小さな屋根が設けられた停留所のベンチに腰掛けた。目立たないように、小さくため息をつく。

ようやく、上を見た。藍色の空はさらに深みを増していた。星さえ光りだしている。街に照らされているからなのか、街を包んでいるからなのか、狭い空ではあったが、なんだか美しく見えた。


―きれいなものを書きたい。


不意に、そう思った。

なぜだかは分からない。けれど、強く思った。私にも、きれいなものが書けるだろうか。

目の前を、黒い影が、すっと横切った。鳥のように思えたが、よく見えなかった。この時間ならコウモリかもしれない。鳥というのは、確か夜になると目が利かなくなるんじゃなかったか。違ったかな。よく見えない中で空を飛ぶなんて、もし自分が鳥であれば、きっとこわくてできないだろう。かといってコウモリのように、音波を頼りに動き回るなんてことも、世界が違い過ぎて想像できないけれど。

とりとめもないことを考えているうち、バスが来た。私ははっとしてベンチから立ち上がり、乗車する人の列に加わった。誰もが、無駄のない動作で定期を出したり整理券を取ったりして席についていく。私もステップを上がり、スマートに整理券を取ろうとしたが、失敗した。

狼狽を気づかれないよう、もう一度ゆっくりと券を引きぬくと、そそくさと空いた席に移動して腰かけ、すぐに窓の外に顔を向けた。バスのドアが閉まる。雑踏が少し、遠ざかった。

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