3.


先生、と書いて、消した。


ペンをあごに当て、ぼんやり考える。しばらくしてペンを握りなおし、また、先生、と書いて――消した。


こんなことを、かれこれ一時間ほども続けていた。

夜の部屋。電気スタンドの明りが、目の前の原稿用紙をクリーム色に照らしている。文章を書く以上、やはりパソコンよりも原稿用紙にしたためたほうが雰囲気が出るだろうという安易な発想で、学校の購買で適当なものを買い求めた。そこまではよかったが、家に帰り、いざ、試みに一枚書いてみるべく、机に向かってみると、どうしても書けないのだった。

書きたいことはたくさんある気がした。しかし、書けない。思いがつまる。比喩ではなく、実際に物理的に、熱いかたまりが体の中でつっかえているような感覚だった。

のどが、へんにからから渇く。泣きそうになっているときの、あの、しおっからさに似た感じ。私はまた指先にぐっと力を込めて、先生、と書いて、そうして、やはり消した。


静かだった。家のそばには市道があるが、そこを通る車の音さえしない。たまに思い出したようにコツコツという、革靴だかハイヒールだかの音が、近付いて、通り過ぎていく。それくらいだった。

家の中も、静まり返っていた。父も母も、夜更かしをするタイプの人間ではないため、一階と二階のそれぞれの寝室で、すでに眠りについている。一階に母、私のいる二階には父がいる。いびきもない。憎いくらいに、安らかに眠っていた。私はペンを置き、目を閉じて、いちど、伸びをした。


父。私は、父と血がつながっていない。私の母と実の父とは、私が小学四年の頃に別れ、しばらく私は母の実家で暮らしていた。私と母と、祖父母の四人。それが、私が中学校にあがってしばらくしたとき、不意に新しい父親が現れ、今の家に越してきたのだった。

私はいい子だった。客観的にみても、たぶん、そう。私は新しい父にも、再婚した母にも、べつだん、反抗的な態度をとったことはないし、あからさまな不平や不満を漏らしたこともなかった。入学して早々、中学校を転校することになったときだって、母は終始すまなそうな表情で「ごめんね」とか「新しいところも、きっと良い場所だから」とか様々な言葉を私に投げかけてくれていたが、私は別にそこまで悲しみやつらさを感じているわけではなかった。むしろ、そうした母の微妙な、ともすれば腫れものにさわるかのような態度のほうが、私には気になった。私は母のことを好きだったし、この先もずっと、嫌いになりたくはなかったのだ。

新しい父は、見た目も、おそらくは内面も、清潔で、こざっぱりとした人間だった。常にたばこの匂いがしていた実の父とは違い、たばこも酒も、ほとんどたしなまなかった。仕事ぶりや人への接し方も、なんというか、品行方正、という熟語を地でいっているような印象で、初めて私と会ったときには、しっかりとお辞儀をし、敬語で自己紹介をしてみせた。父は当時四十一歳で、私は十二歳。私も合わせてお辞儀をし、自身の名前だけを簡素に告げた。そうして心の内で、おとうさん、と呼んでみて、それがおそろしく馴染まない響きであることに気がついた。

嫌いではなかった。ただ、別の人間だと思った。私のことを、適度に気にかけ、適度に放置してくれる。仕事も人並みにこなし、時間のあるときにはちゃんと家庭の諸事にも参加する。世間的にみても実によくできた父親であった。母は、そんな父を好きだと言っていたし、父も、きっと、そう思っていた。けれど私には、どこまでいっても他人に思えた。父は父だ。それは事実。でも私は、初対面のときから今まで一度も、おとうさん、と呼んだことがなかった。


時計を見た。もう二時を過ぎていた。私はぼんやりした頭で、今の父と、先生とをくらべてみた。似ても似つかなかった。似ていないことなど分かり切っているのに、なぜ、くらべてみたりしたのだろう。

私は軽く頭を振って、父のイメージを消した。先生だけが残った。うす紅に染まった頬で、窓の外を見ている。夕暮れ。先生には、夕暮れどきがいちばん似合う気がした。何を見ているのだろう。そういえば、先生のことを思い浮かべるとき、決まって先生は、横を向いているようだ。

小さくため息をついた。ぼんやりしていたってしょうがない、とにかく書かなければ。しかし、どうにも進まなかった。私はふと、なにかと必要だろうと思って手元に用意しておいた電子辞書に手を伸ばし、折りたたみ式になっているその画面を開いた。

別に、調べたい言葉があるわけではなかった。私は少しだけ考えて、しょうせつ、と打ち、決定キーを押した。瞬時に、手のひら大の画面上に、ずらりと検索候補が現れる。

小雪、小節、小説――。

三番目に表示されている「小説」の項目を見ようとしたが、やめた。定義を調べて、どうしようというのだろう。私はそのまま、その先の検索候補に向けて次々とページをスクロールしていった。

ふと、ある言葉が私をとらえ、キーを打つ指がとまった。

―よく知っている言葉だった。

反射的に、辞書から目を離し、部屋を見回す。当然、誰もいなかった。家の中も外もしんとして、物音ひとつ聞こえない。

私は落ち着いて、もう一度、電子画面に視線を戻した。カーソルは、その単語に合ったままだ。もちろん、知らない単語ではない。普通の、いわゆるオトシゴロの女子高生で、この言葉を知らないなんていう生徒がいるのだろうか。別にたいした響きでもない。子どもじゃあるまいし。そう思いながらも、私の視線は無意識に、その文字列に突き刺さっていた。


「あんまり、しゃべらないよな」

その言葉で、別れを切り出されたのだ。覚えている。中学三年の頃、初めて“彼氏”と呼べる人ができた。横山くん、という名前だった。さして目立つ容姿や格好をしていたわけでもない、どちらかというと、おとなしいくらいの男の子だった。

当時の私は、国内でだんだん売れ始めていた新進のロックバンドに夢中で、彫りの深い顔と、それを覆い隠すほど長い髪を振りみだして歌うそのバンドの男性ボーカルに、ひそかにあこがれていた。それなのに、そんな憧れとはまるでかけ離れた、淡泊な顔をした横山くんと付き合ったというのは、それは別に不思議でもなんでもない。ただ、同じクラスだった彼から、ある日急に好きだと言われ、私にもほかに付き合いたいような男子が校内にいたわけでもなかったから、交際をOKしたのだった。好きだと言われたから、付き合ったのだ。私が彼を好きだったのかといわれれば、よく分からない。嫌いではなかったと思う。そんな程度だった。けれど、少なくとも当時の私には、周囲でほかに彼氏だの彼女だのと振る舞っていた生徒たちの多くも、似たような状態であるように見えた。

そうして、二カ月で別れた。あんまりしゃべらないよな、という彼の問いに、私は

「そうかな」

とだけ答えた。学校の帰り道だった。

お互いに気を遣い過ぎていたのかもしれない。キスすらしなかった。手は、数回つないだ程度。カラダのことなんて、想像すらできなかった。彼のほうがどこまで想像していたのかは知らない。友人に言わせると、少なくとも男の子である以上、そういうことを考えない人種はいないらしいが、そうだとしても、キスすらしない横山くんが、それ以上のことを常に悶々と考えていたというのは、どうにも実感が湧かないことだった。私は、少女のままだった。


つらつらと中学時代の思い出を浮かべているうち、指がいつのまにか決定キーを押していた。そうして、私はもうひとつ、気になる言葉を見つけてしまった。

「処女作」。

主に作家など芸術家にとっての、デビュー作、とか、初めての著作、という意味を表す言葉。もちろん、知っている。知っているけれど。

私はなんだか、妙にむずがゆい気分に襲われた。まるで、初めて目にした言葉のように思える。処女作。私が今書こうとしているこの原稿も、つまりはこれに当たるのだろうか。私はそれを書き、先生に読んでもらおうとしているのだろうか。

気持ちにさざ波が立つのを感じた。いったい私は今、何を書こうとしているのだろう。それを書いて、どうしようというのだ。改めてそう自問してみると、よくわからない。答えはないように思えてしまう。先生は好きだ。でも、それならばなぜ、ふつうに好きだと言うのではいけないのだろう。ただ気を惹くためのポーズなら、別にわざわざこんな形でなくたって、いいのだ。けれども、横山くんのときとは明らかに違って、なにか、そうせざるを得ないような、へんな気持ちがするのだった。

つたない思いつきだ。いつか思いだしたときに、きっと恥ずかしさで顔を覆ってしまいたくなるような、夢見がちで、幼いたわむれ。自分でも、分かっているのだ。それなのに―。


波が、だんだん大きくなっていく気がする。知らず、原稿用紙の緑の枠線がじんわりにじんでいた。体があたたかい。

何かが違う気がするのだ。あの日の先生の顔を思い出すたび、簡単なセリフでは、行動では、表せないような、もっと強い衝動を感じてしまうのだ。

言葉にしたい。けれど、言葉にするとどすぐさま違うものになってしまうような、どうしようもない、もどかしさ。

私はしかし、それをこそ伝えたいのかもしれなかった。先生に、ありとあらゆる私の思いを伝えたかった。こぼれおちそうになる水をなんとか両手ですくいとり、私の小さな物語にちりばめる。あの熱も、このしおっからさも、全部。そこに表れる私は、私以上に私のことを知っているのだ。私の後ろで私を見て、私の髪をかきあげ、心の中をのぞき見て、いろんなところをチェックして、最後に香水をふりかけて、包装紙で包む。それを最後に、差し出すのは―。


とっさに、電子辞書を閉じた。波が砕けて、細かいしぶきになって消える。夜の部屋。電気スタンドのにじんだ明りが窓に反射して、私の机やベッドが夜の町に浮かんでいる。その中で、私の両頬だけが、ひときわ紅く見えた。

もう、この日は何も書けないと思った。いや、まだ何も書いていなかったけれど、とにかく、これ以上は何も手につかないような気がしていた。

明りを消し、いそいでベッドにもぐりこんだ。眠れるだろうか。活動を続けようとするまぶたを無理に閉ざして、私はつとめて深呼吸した。


雪の中、そりに乗って急降下する自分の姿が、ふと脳裏に浮かんだ。

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