2.


先生は少しだけまじめな顔をした。そして困ったようにほほえんだ。

私がだしぬけに、小説を書きたいなんて言ったから。


「小説――そうですか」


先生の目じりがさがり、口の端がちょっと上がった。へたな笑顔だ。自身の思いを正しく言い表すための言葉を探しているとき、先生はよくこんな顔をする。


「先生、私、まじめに言ってるんです」


私はわざと口をとがらせた。けれど、目は甘えている。

もちろん、先生が私の言葉を冗談だなどとは思っていないことくらい、分かっていた。私はただ、楽しみたいのだ。放課後のチャイムの十五分後。先生はやはり、いつものように一人で職員室に留守番していた。だから私は、先生のそのおかしな表情をできるだけ長い間、私だけのものにしておきたかった。

先生は困った笑顔を少しだけひきしめると、ゆっくりと言葉を選びながら言った。


「うん。わかっています。僕の貸した本をしっかり読んでくれてましたからね…僕もうれしいんですよ。中岡さんが、読む楽しさだけでなく創る楽しさにも目覚めてくれたようで」


先生はそう言って、机に積み上がった文芸書の山にちらと目をやった。座った先生の頭と同じくらい高いその山は、小さな机の隅では窮屈らしく、じりじりと他の教師のエリアをも侵食していた。先生の狭い一人暮らしの部屋では入りきらないために、仮にここに置いているらしい。「ほかの先生から、早く片付けろって言われてるんですけどね」と、いつか、こぼしていた。


「それで、どんなものが書きたいんですか」


本の搭から目を離し、先生がたずねた。


「うーん…」


私はあごを少し上に向け、考えるそぶりをしてみせた。本当はもう、決まっているのに。


「やっぱり、恋愛、かなあと思って」


あごをあげたまま、視線だけで先生を盗み見る。

先生は一瞬、真顔に戻ったようだった。が、すぐにやわらかな微笑を取り戻し、


「なるほど」


とつぶやいた。頬が紅かった。

私はまたまっすぐに前を向き、先生の言葉を待った。


実につたない思いつきだった。自身でもそう思っていた。初老の美術教師がよく、授業時間に「芸術に気おくれする必要はありません。どんなものでも、あなたが美しいと思えば、それは芸術の輝きです」などと甘ったるく訓じていたが、私は毎回心中で悪態をついていた。もともと芸術なんてものにはまるで興味がなかったけれど、少なくともそんな生易しいものではないだろうということくらい、わかっていた。そんな私が、先生の影響でほとんど初めて小説を読み、ほぼ反射的に、自分でも書いてみようと思ったのだ。先生に出会う以前、中学までの十五年間で、まともに読んだことのある本といえば教科書くらいのものだ。芸術的輝きなんておそらく何もない、ほとんど、先生の気を惹くためのポーズであった。

けれど、それで良いと思っていた。私は確かめたかった。あの日から、体温とともに、なにか胸中にせり上がるものがあって、それをとにかく何らかの形で表し、先生に見せたいと、見せなければと思っていた。


「恋愛、まあ、もっとも身近でしょうね。…シュートチカの影響ですか?」


先生はいたずらっぽく笑った。相変わらずへたな笑い方だ。私は、まあ、とあいまいに答えてみせた。

私の視線もしぐさもセリフも、すべて事前に入念に組み立てたものだった。そして、それに対する先生の反応も、私にはだいたい予想できていた。先生はまじめだから、授業中、生徒がどんなに見当違いなことを言おうと、また、進路調査でどんなに無謀な目標を語ろうと、かならず丁寧にその意味や成否を考える。適当にあしらったり、無責任なことを口走ったりしないように心掛ける。その上で、自身の意見がなるべく肯定的なものになるように―つまりは生徒を傷つけないように―気をつけているのだ。

私には先生の心の動きがよく分かっていた。分かっているつもりだった。

先生は、私が「恋愛」をテーマに小説を書こうとしていることに反応した。無理もないと思った。小説を書こうという思いつき自体、軽率なものであるのに、その上、高校生が描く恋愛である。さすがの先生も心で苦笑しただろう。きっと読むにたえない、お粗末なものができあがるに違いないだろうから。

だけど――と、私は思った。

だけど、それだけではないはずだ。


先生はあの日からずっと、頬がうす紅い。私にはそう見えた。

私はしだいに、その紅潮に別の意味が隠されているのではないかと考えるようになった。きれいな薄紅。人間の顔があのような色に染まるものだろうか。染まるとすると、どういうときだろうか。

そしてある日、直感した。いつものように学校から帰って、母親に小言を言われて、ご飯を食べて、お風呂に入って、ベッドにもぐって眠りにつくその瞬間、あっさりと気づいた。

私と同じだ。

いつか聴いた、女性シンガーの歌う歌詞の一部がふっと浮かんだ。

「恋の微熱」。

実に単純で短絡的で、キッチュなフレーズ。けれどそのときの私には、それが実に明快で、腑に落ちる音として、耳の奥に響いたのだった。

先生は意識したのだ。私を。そうだ。そうに違いないと思った。もう何度も職員室に通っている。それも、タイミングを見計らって、他の教師がいなくなるときに、である。教え子のそうしたささやかな思いに気付かないほうが、むしろ不自然なのだ。先生は私を意識している。そうに違いない。

私はそのとき、かすかに震える手で、自身の頬に触れた。あたたかかった。どんな色をしているのだろう。けれども鏡を見る勇気はなかった。もしそこに、私の期待したものが映っていなければどうしよう。そもそも、私はそこに何を期待しているのだろう。何だかそんなことを考えながら、私は結局、鏡を見ないで寝てしまった。


ともかく、私は先生のことをそんな風に解釈していたから、今しがたの先生の反応にも、もうひとつ別の意味づけをしていた。

先生は、それとなく予想したのではないだろうか。私が書くだろう原稿の中身を。そして、その予想は当たっているのだ。私が書こうとしているものは、結局のところ小説なんて大それたものではなくて、先生への恋文と呼んだほうがよいのだ。先生への思いを、ささやかな物語にのせる。ラブレターなんて、いつからそんな古典的でメルヘンチックな女の子になったのだと誰かに言われそうだったし、自分でもなんだか恥ずかしかったから、格好をつけてみたまでのことだ。どちらにせよ、同じことではあったけど。

先生の口がふたたび開く。私はつとめて、なんでもない風にしていた。


「良いと思いますよ。僕は。もちろん、読むのと書くのとでは相当な違いがありますけどね…でも、まずはぜひ、書いてみてください。なにごとも、やってみないと」


当たり障りがない、といった印象だった。が、けっして先生は適当に返事をしているのではないのだ。数あるパターンの返答のなかから、慎重に言葉を選び出した。それが結果として、当たり障りないものになってしまっただけだ。よくあることだ。

先生はふと、窓の外を見やった。空は少し曇って、先日のような、透明な夕陽はさしこんでいない。けれども春の空気は相変わらずやわらかく、あたたかかかった。風が吹いて、窓のそばに置かれた一輪挿しの黄色い花を揺らした。なんという花だろう。この間までは置かれていなかったはずだ。私は、春に咲く花では中庭のモクレンと、チューリップと梅と桜くらいしか知らない。


「うらやましいな」


ぽつりと先生がつぶやいた。

私は、おや、と思った。あまり予想しない言葉だった。うらやましい、とは私のことだろうか。


「先生も、小説とか、書いてみたことあるの」


先生は国語教師だ。よくは知らないけれど、国語教師を目指すような人には、そういうこともよくあることかもしれない。そう思ってたずねた。

先生はしばらく黙っていたが、やがて静かに答えた。


「ありません」


薄くわらっていた。いつものへたな笑顔ではない、知らないわらい方だった。まるで自分自身のことをわらっているようだった。窓のそばの黄色い花は、風にゆすられて向こうをむいていた。


「まあとにかく、期待していますよ」


先生はくるりと私に向き直って、言った。もういつもの顔に戻っていた。


「それと…できあがったら、僕にも見せてくださいね」


頭をかいて、なぜか申し訳なさそうに先生は言った。

もちろん、私は初めからそのつもりだった。先生に見せるために書くのだ。読者は先生をおいてほかにいない。いやむしろ、先生以外の誰にも、見せたくはなかった。小説の名を借りた、恋文なのだから。

私は、視線を落とした。それを約束しなければ。


「うん。というか、先生に見てもらわないと意味ないんだよ。国語の先生でしょ。ちゃんと読んで、ダメなところとか教えてよ。その代り、ほかの先生とか誰かに見せないで。恥ずかしいから」


言い終えて、あやうくせきこみそうになった。驚いて、すんでのところでそれを止める。ひざの上に置いた指を見ると、いつのまにか、細かく震えていた。

私の視線も、しぐさも、セリフも、すべて入念に組み立てたもの。―いや、違った。気づかなかっただけだ。ほんとうは、胸がどうしようもなくいっぱいだったのだ。この間からの微熱が心臓をあたためて、いつもよりずっと大きく高鳴らせていたことに、今になって、ようやく気づいただけだった。


でも、大丈夫。私は自分に言い聞かせた。問題はない。

恋文を渡す、その手はずは整ったのだ。

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