ねつ
@junk-do
1.
『なにか小説を読むと、古くさいことばかり書いてあって、みんな知ったことのように思ってしまうけれど、いざ、自分で恋をしてごらん。はっきりしてくるから――』
(チェーホフ「三人姉妹」)
胸の奥の、この辺りに、痛みがある。
熱とともに。
本を返しに行ったのだ。先生に会うために。
放課後のチャイムの十五分後。わざとそうした。このタイミングが一番いいのだった。先生以外の誰にも会わずにすむのだ。
そこら中に漂っている同級生の目をかいくぐり、鞄をひっかけ、先生がいるはずの国語科職員室へ向かった。
案の定、職員室には先生ひとりだけだった。ほかの教師は皆、会議や教室巡査に出てしまっており、先生だけが自身の机で猫背になって、黙々と、次回授業の指導案にペンと目を走らせていた。机の一辺には、国語科指導要領、教室運営の手引き、といった教師の必携本が堅苦しく並んでいる。別の一辺には、いびつで大きな文芸書の山ができていた。先生はその真ん中で、少しよれた青地のシャツを着て、後ろを向いていた。
私は、後ろ手にそっと職員室の扉を閉めた。先生、とよびかけると、ペンを動かす手がとまり、猫背がぐいと伸びて私のほうに振りむいた。
「ああ、中岡さん」
暮れはじめた陽の光が、ななめに室内を染めていた。白い壁が、半分だけオレンジ色に変わっている。振りむいた先生の顔は、逆光のせいで、よく見えなかった。
「先生、これ、ありがとうございました」
私は、借りていた数冊の文庫本を差し出した。ひと月ほど前、先生に会うための口実としておすすめの小説を借りにきた際、先生が選んでくれたものだ。いずれも最新版ではなかった。装丁カバーのないものが多く、やや黄ばんだ表紙や小口には、ところどころにシミのような模様が浮かんでいた。先生の私物だった。
「やあ、読んでくれたんですね。どうですか。お気に入りはありましたか」
先生は椅子をくるりと回転させ、すっかり私のほうに向きなおった。デスクワークで疲れた手の指を軽くもみほぐしている。けれど顔は、やはり夕陽が隠した。
「うん。難しくて読みづらいのもあったけど。私、これが好き」
私は本を先生に手渡し、そのうちの一冊を指差してみせた。ロシアの作家、アントン・チェーホフの短編集だ。先生が、指の腹でその表紙をなでる。
「これのね、えっと…何て題名だっけ。そりすべりのやつなんだけど」
一度にざっくりと読んだため、題名すらよく覚えていなかった。にも関わらず、その話の内容だけは妙に強く残っていた。若い男女がそりすべりに興じる、そのさなかに女のほうは愛の告白を耳にするが、風の音と滑降の恐怖に邪魔され、それが本当に発せられた言葉なのか空耳なのか、判断がつかない―というものだ。
先生は、ああ、と小さくうなずくと、
「シュートチカですね。なるほど―」
と目を細め、
「あなたは実に良い感性をしていますね。梶井基次郎って知っていますか、あの『檸檬』の。知りませんか。その話はね、彼も自身の作品の中で引用してるんですよ。通ずるところがあるんですね、きっと」
と、静かにはしゃいだ声を出した。
「でも先生、私、思うんだけど」
私は疑問を口にした。
「ナージャ、だっけ、あの女の子、どうして彼に直接確かめなかったのかなあって。何も、怖い思いをして何度もそりに乗らなくてもいいのに、って気がして。そんなこと言っちゃ、みもふたもないかもだけど」
どうにも、先生の表情がよく見えなかった。私はしずしずと室内を横切り、窓側へと少しずつ回り込んだ。それに合わせて先生の顔もゆっくり動く。
「そうですか。まあ…もっともな疑問だとは思います。というより、そういうところを気にして、いったいなぜだろう、ってあれこれ考えてみたりするのが、読解の面白さでもあると思いますし」
少し苦笑まじりに先生が答えた。その顔の上に、ちょうど月の表面のように、オレンジ色の陽光がさらさらと広がっていく。
「例えば中岡さん、もしあなただったらどうですか。同じような体験をしたとき、あなただったら、どうやってそのことを確かめようと思いますか」
先生がたずねた。
「私…?そうだな、私だったら――」
答えようとしたとき、西陽が、完全に先生をとらえた。とたん、私は言葉をうしなった。
頬が、ほのかに紅い。
それだけだった。まぎれもなく、いつもの先生の顔だ。あまり整っていない黒い短髪、細長い眉毛、目じりと鼻の横にある小さなほくろ、色白の肌―。けれど、その頬だけが、うっすらと、紅い。それだけで、私は息をのんだ。
先生が、まったく別の人間のように感じられた。先生の頬はこんな色だっただろうか。放課後にこうして国語科職員室を訪れることはもう何十回目かになっていたはずだったが、どうしても思い出せなかった。
陽は相変わらず静かに室を染めていた。窓の外、はす向かいにある体育館から、運動部の、何と言っているのかわからない間延びしたかけ声が届く。中庭のモクレンの香りが、うっすらと漂っていた。
好きだ、と思った。唐突に。同時に、これかもしれない、とも思った。私がナージャだったら、どうするか。そういうことなのだ、きっと。
半分だけ開かれた窓からそよ風が迷い込んで、垂れ下ったブラインドのひもをふわりと揺らした。
いや、実際には今までだって好きだったのだ。高校二年。関わる男性といえばほとんどが遊びざかり食べざかりの未成年ばかりの中で、まちがいなく“大人”である二十代半ばのさわやかな男性教師が現れたのだ。少なからず憧憬を抱き、ともすれば恋愛対象のようにさえ意識してしまうのは、むしろ同年代の女生徒にとっては当然のことのようにも思えた。だからこそ、同級生たちの目を盗みつつ、ばれていてもしょうがない、というつもりで毎日先生に会いに行っていたのだ。
ただ、そういう時の心持ちというのは、どちらかというと、憧れのモデルやアーティストに会いに行く時のそれに似ていた。おそらく、そのままの状態がずっと続いていたのであれば、私と先生との関係も、もう少し違った経過をたどったのかもしれない。
けれどその日、先生の頬は染まってしまって、私は逃げ道を失った。
もはや、もともと先生のどういうところが好きだったとか、ほかの男性とどういう風に違うのかとか、そういったことは分からなくなっていた。もう引き返せなかった。なにげなくまいた種が、思わぬところに根を張ったようでもあった。
先生は、唐突に言葉を切った私をしばらくへんな表情で眺めていた。そうして、いつものへたな笑顔を見せた。頬が紅い。夕陽のせいなのだろうか。いや、きっと―。
「どうかしましたか」
先生が不思議そうにたずねた。さっきより大きく、風が吹き込んだ。
瞬間、私は舞い上がってしまった。ついさっきまでとは、職員室の空気も、色も、においも、まるで違っているように感じられた。
鼓動が速かった。息が、ひっかかる。先生が何か私に声をかけているように思えたが、もう私の耳には意味のある言葉として入ってこなかった。
先生を凝視した。けれどもそれは、自分でもどこを見ているのかわからない、制御を失った視線だった。体があつい。夕陽が私を照らしている。自分の意志の届かなくなった視線を必死で逸らそうとしながら、私は「なんでもない」という単語だけをなんとかつぶやき、そのあとのことは、よく覚えていない。ただ、逃げるように職員室を後にした記憶だけは、断片的に残っている。
その日から、私は微熱がつづいた。
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