#18 転んだら僕が手を引くよ

「すぐ行く」


 空になったカップをゴミ箱に入れて、スマホを握ったまま自動ドアを手でこじ開けるような勢いで店を出た。

 電話を切ることも忘れたまま、無意識に走り出した足に導かれるように、僕は一心不乱に彼女のもとへと走った。


 周りの景色が残像のようにすぎていく。

 暗くなった道を走っていると、不安な感情しか浮かんでこない。

 さっきいたカフェから、彼女の部屋までは10分も掛からない距離。

 けれど、この暗さがどれだけ走っても着かないんじゃないかと不安にさせる。


 風子ちゃん……


 息を切らして部屋の前に着き、インターホンを鳴らすが彼女は出てこない。


「風子ちゃん」


 何度鳴らしても、ドアを叩いても出てこない。


「風子ちゃん!大丈夫か!!」


 ドアノブを捻ると簡単に開き、僕は急いで部屋に入った。


「風子ちゃん!」


 彼女は息苦しそうに、はあはあと呼吸をしながらテーブルの隣で倒れていた。近くには、通話中になったままの彼女のスマホと少量だけ中身の残ったペットボトルが転がり、フローリングには小さな水溜まりができていた。

 彼女の顔は先ほどよりも蒸気したように赤くなっていて、見ているだけでも体温が高くなっていることがわかった。


「おい、大丈夫か!!」


 玄関に靴を脱ぎ捨て、僕は彼女に駆け寄り抱きかかえた。

 すると、彼女はゆっくりと目を開けて、途切れ途切れの呼吸で僕に言った。


「びょう、いんに……行き、たいです」


 熱の苦しさなのか感情のせいなのか、彼女の瞳は潤んで、いまにも涙が溢れそうだった。


「行こう」


 彼女にコートを着させて、頭にはニット帽、首にはマフラーを巻き、マスクをつけさせて、完全防寒にした。

 彼女の保険証を僕のコートのポケットに突っ込み、彼女をおんぶして部屋を出た。

 厚手のコートからも伝わるくらい、いつもより彼女の身体が熱を持っていた。

 急ぎ足で病院に着くと、受付終了間際になんとか滑り込んだ。

 もうすぐ19時を回ることもあり待合室は閑散としていて、僕たち以外患者はいなかった。

 待っている間、彼女は僕の肩に寄りかかり目を瞑っていた。病院に着いて安堵したのか、倒れていたときより呼吸のスピードが落ち着いてきていた。

 僕は彼女の背中を優しくさすった。


「もう大丈夫やからな」


「ありがとう。はるとさん」


 診察室から女性の看護師が出てきて彼女を呼んだ。彼女は消え入りそうな声で「はい」と答えた。


 僕が体を支えて立ち上がらせると、彼女は「晴翔さんは、ここで……待っててください」と言った。

 僕が「大丈夫?」と覗き込むと、彼女は目を細めて「大丈夫」と微笑んだ。

 看護師に支えられながら、彼女は診察室の中へと入っていった。

 広い待合室に一人ぽつんと取り残された僕は放心状態になった。ぼんやりとした頭で足元を見つめて、時間の感覚がわからなくなるほどだった。

 診察室の中から微かに医者らしき男性の声と彼女の声が聞こえてくる。

 しばらくすると待合室から看護師が出てきて、僕を呼んだ。点滴を受けている彼女の隣で待たせてくれることになった。

 看護師に案内されると、彼女は診察室の隣の処置室にいた。ベッドで眠る彼女は、僕が来るとゆっくりと目を開けた。

 僕がベッド脇の椅子に腰掛けると、彼女は「ごめんなさい」とつぶやいた。


「なにが?」


「さっきはあんなひどいこと言って」


 僕は彼女の右手をそっと握った。


「ええよ。そんくらい嫌やったんやろ。それでも行こうと思ってくれてよかった」


「勝手なことばかり言って、ほんとにごめんなさい」


 申し訳なさそうに謝る彼女の頭をポンと撫でて、僕は微笑んだ。


「ええて。俺のこと頼ってくれて嬉しかった。でも、めちゃめちゃ胸痛なったわ。“嫌い”とか“出てって!”とか。あんなけちょんけちょんに言われたら、ほんまに嫌われてもうたかなって思ったわ」


 彼女は笑って、僕の手をキュッと握り返した。


「嫌いなら電話しませんよ」


「よかった。それより気分はどう?」


「ちょっとだけ楽になりました」


「そっか。インフルとかは?」


「疲労からくる風邪でした。あと、栄養不足で免疫力が低下してるそうで、そのせいで余計熱が上がっちゃったみたい。だから、大したことではないって」


「まあ、倒れたんやから充分大したことやけどな。あんまり無理したらあかんで」


「はい。先生にも怒られちゃいました。あっ、そういえば、看護師さんが晴翔さんのこと、彼氏というより保護者みたいねって言ってました」


 彼女はそう言って、クスッと表情を弾ませた。


「保護者て。こない大きい娘おらんわ」


「ふふふ。晴翔さん、本当にありがとう」


「ええよ。なあ、帰ったらプリンでも食べよ。風子ちゃんの好きなのって、牛さんやったっけ?ひよこさんやったっけ?」


「私はひよこさんです。牛さんは晴翔さんが好きですよね」


「そやった!ひよこさんも牛さんも買うてきたから食べよ」


 僕が言うと、彼女は「うん」とニコッと笑って頷いた。


「今日は俺が看病するから安心してな」


 僕が微笑んで彼女の手を両手で包み込むと、看護師が処置室に入って来た。看護師は慣れた手つきで彼女の右腕から素早く点滴針を抜き、血止めのパッチを貼った。


 看護師は処置道具を片付けながら、僕に言った。

「この子頑張り過ぎちゃうみたいだから、ちゃんと保護者が見ていてあげてくださいね」

「もちろんです。僕が彼女のこと見てるんでこれからは大丈夫です。てか、保護者やなくて恋人なんですけど」


 僕の言葉に返答せず、看護師は彼女に言った。


「優しい保護者がいつも一緒にいるわけじゃないんだから、我慢しないで具合悪くなったらすぐ病院に行ってくださいね」

「ご迷惑をお掛けしました」

「せやから、僕、保護者ちゃいますよ。って、話聞いてへんわ」


 会計を済ませ薬を受け取って、僕たちは病院を後にした。

 まだ体がふらつく彼女を支えながら、僕たちはゆっくりと彼女の部屋へと向かった。

 歩いていると突然、彼女は足を止めた。

 そして、彼女はオフィスビルの前の質素なイルミネーションを見上げて言った。


「晴翔さん。少しだけ見てもいいですか?」

「ええけど、大丈夫?」

「3分だけ」

「わかった」


 彼女を小さなベンチに座らせて、僕のマフラーを取って彼女の膝掛けにした。


「ちょっと待ってて」

「晴翔さん?」


 僕は近くにあった自販機で温かいお茶を二つ買って、彼女の待つベンチへ小走りで戻った。


「飲めへんかったら、カイロ代わりに持っとき」

「ありがとうございます」


 隣に座ると、彼女はイルミネーションを眺めながら話し始めた。


「12月になると、毎年お父さんひとりで庭をイルミネーションで飾り付けしてたんです。あっ、でも、ホームセンターで売ってるようなささやかなものでした」


 彼女は、楽しそうに亡き父とのクリスマスの思い出を話した。

 そのパッと明るくなった表情は、いくら時間が経っても大切な人の記憶は色褪せないと証明していた。


「お父さんったら“今年は奮発してLEDの数増やしたんだ。それにほら、サンタさん今年はソリに乗ってるんだ。気づいた?”って。もうダムが決壊したみたいに話止まんなくて。そんなの細かすぎて気づかないのに」


 彼女はペットボトルのお茶を両手で持って、蓋のところに顎を乗せるように下を向いた。


「あのとき、もっと喜んであげればよかったな。反抗期なんてなければよかったのに」


 声は柔らかく明るいまま。けれど、どこか言葉の端に涙が滲んでいるようだった。

 僕はお茶を一口飲んだ後、そっと寄り添うように話した。


「相当嬉しかったんやろな。お父さんはどんな反応でもよかったんちゃう?風子ちゃんと話すきっかけになったら、なんでもよかったんやと思うで」


「でも、せっかく話せたのに素っ気なかったら嫌じゃないですか」


 下を向いていても彼女の口調が明るいままなのは、なにかを塞き止めるために必死だったからかもしれない。

 僕は、目の前のキラキラと光る杉の木を眺めながら言った。


「それでも、風子ちゃんと話したかったんや」


 少しの沈黙の間、彼女の瞳からキラキラと零れ落ちる涙を見ないように、僕はイルミネーションに視界を向けていた。

 そして、気づいていないフリをして僕は彼女に言った。


「なあ、写真撮らへん?」


「え?イヤです。すっぴんだし、こんな格好だし」


「問題ないって。今日は風子ちゃんの見たかった景色が見れた。勇気出して病院行けた。二人でクリスマス過ごせた。3つも良いことあるなんて、最高の記念日やんか。どんな格好でも後から見れば、笑い話にも、ええ思い出にもなるやろ?ほら、もうすぐ3分経ってまうで」


僕が言うと、彼女は少し照れたように「そこまで言うなら、しかたないですね」と折れて、僕の隣にぴたっとくっついた。


「よっしゃ。撮るで。はい、チーズ」


 肩を寄せ合い写真を撮ると、彼女は「こんなことなら違うコート着てくればよかった」と言っていたが、その顔は心なしか嬉しそうだった。

 そして、僕たちは彼女の部屋へ戻った。


 久しぶりの病院に気疲れした彼女は「少し横になりたい」と言って、ベッドに入るとすぐに眠りについた。

 その間、僕は彼女のためにお粥を作った。

 鍋の中でコトコトと揺れる米をゆっくりかき混ぜながら、ベッドに目線を向けた。

 静かな寝息。彼女の呼吸が伝う布団の膨らみ。スタンドライトの灯りが夕焼けみたいで、不思議だけど、僕は我が子を見守る親のような気持ちで彼女を見ていた。


 お粥が出来たので、彼女を起こして食べさせた。薬を飲んだ後、彼女は食欲が戻ったらしく、大好きなプリンが食べたいと言った。

 二人並んでプリンを食べていると、彼女はひとりごとのように話し始めた。


「クリスマスイブにお母さんと喧嘩しました。どうしても東京の大学に進学したくて、私立の高校を受けさせてほしいってお願いしました。そしたら“あんたまで東京行く必要ないやろ。あんた、ここ継ぐ必要ないんやし”って。次の日。お父さんとお母さんに嘘をつきました」


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趣味の悪いくちぐせ。 西ノ宮あいこ @momochoco

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